聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、マタイによる福音書11章20節〜30節
新共同訳新約聖書20ページ〜21ページです。
11:20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
11:21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗 布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。
11:22 しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
11:23 また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われて いれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
11:24 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示し になりました。
11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
「主にある平安」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
<子どもたちへ>
おはようございます。最初に子どもたちにお話します。
まず、今日司式者に読んでもらった聖書の最初のところを見てください。20節、「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。」と書いてあります。せっかくイエス様が近くに来てくれて、奇跡を起こされ、そのことでイエス様がどのような方であるかを知ることができたのに、その機会を無駄にしてしまっていることをイエス様はなげいておられるんです。
実は私もクリスチャンになる前、イエス様が起こされた奇跡のことやイエス様が十字架で死なれて、その後3日目に甦られたという話をある牧師から聴かされたことがあります。それはアメリカでの出来事だったんですけど、初めて教会に行ってから間もない月曜日に、突然その教会の牧師が家にやってきてその話をされました。その牧師はイエス様の説明の後、私に「神様を信じているか?」と聞きました。私が「信じているよ」と答えると、「ではバプテスマを受けなさい。」と言われたので、私は「いやです。」と答えました。神様がおられることや、イエス様が奇跡を起こされたことは信じるけど、教会員にはなりたくないと思っていたのです。その牧師は、なんで信じているのにバプテスマを嫌がるんだと、理解できないようでした。
それからどうなったか知ってますか?ところが私はその2ヶ月後にクリスチャンになり、同時にバプテスマを受けたいと思うようになったんです。イエス様が自分の罪のために死んでくださったと心から信じることができたんです。実はその2か月間、色々苦しいことがありました。今思うとそれらはイエス様が叱っておられたのかも知れません。何も困ってないから大丈夫。と思って、イエス様のことを気にも留めなかった私が、自分の罪に気づき、その罪に対して自分ではどうすることもできないと思えたことで、イエス様を信じることができたのです。
この聖書の中にはイエス様が起こされた多くの奇跡が書かれています。それはイエス様が神のひとり子、救い主であることの証しです。そのことを知ったら、まず悔い改めください。聖書はすべての人には罪があると言っています。悔い改めるとは、神様が言われるその通り、私は罪人ですと思って、神様に赦しを願うことです。そうすれば、イエス様の十字架の意味が分かります。
イエス様は、28節にあるように「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と言って待っていてくださいます。
だからイエス様のもとに近づいてください。イエス様はきっと喜んで迎えてくれますよ。
お祈りします。
<宣教>
今日は村田悦牧師が浦和教会に行かれていますので、なぜか私がご奉仕させていただくことになりました。2週続けての信徒説教になりますが、よろしくお願いします。
今日の説教題を「主にある平安」としました。最近、年のせいか疲れることが多くなり、特に仕事が無い日が続くとこんなことで良いんだろうかと不安になります。皆さんはどうですか?そこで聞こえてきたのが、「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というイエス様の言葉でした。
この聖句はよく教会の表に書いてあったりして、まだクリスチャンになっていない人を招く言葉として掲げられていることが多いと思います。もちろんそういう意味もあると思いますが、クリスチャンになっても疲れを覚えることはあるし、重荷を感じることもあります。
そこで改めて聖句からイエス様が言われる主にある平安を学んでみたいと思います。
29節、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と書いてあります。
皆さんは何も仕事の無い一日を過ごしたことがありますか?定年退職された方なら経験されておられるかもしれませんが、何もしない一日ほど疲れる日は無いと感じています。体は休んでいても心は疲れるのです。一般的に仕事とは社会の中でその人が果たす役割を意味します。ですから、仕事が無いというのは社会における役割が無く、生きる意味を見失うことにも繋がるでしょう。
イエス様の例え話の中で、ブドウ園の主人が町で仕事がなく、ぼーっとしている人を見つけては自分のブドウ園で働かせるという話があります。そして一日が終わって、一人一人に賃金が払われるのですが、夕方の終わりごろから働いた人も朝から働いていた人も一日の同じ賃金が支払われたことに、朝から働いていた人が不平を言う場面があります。しかし、私は夕方まで仕事もなく、長い間ぼーっと過ごさなければならなかった人の気持ちを思って気前よく一日分を与えた、この主人のやさしさを理解できるような気がします。
イエス様は一切の権能を授けられた方であり、力ある方であると聖書には書いてあります。しかし、その方は同時に私たちの弱さを良く理解していてくださる方でもあります。29節の「わたしは柔和で謙遜な者だから」という言葉は、まさにその通りだと言えるでしょう。イエス様は力ある方ですが、不信仰な私たちに対して忍耐を持って接してくださるのだと思います。
そして、その方がご自分の仕事に参加するように促しておられるのが、この聖句の意味だと思っています。イエス様が与えられる仕事は、何も教会の仕事に限りません。私たちは日曜日だけクリスチャンというわけではなく。24時間365日、生きている間ずーっとクリスチャンですし、またこの世を去った後もクリスチャンです。そしてわたしの軛は負い易く、軽いと言っていますから、イエス様が一人一人に用意されている軛も各々にあったものを与えてくださるのでしょう。そして、軛は異なっていても、共通することはその軛を通して、イエス様に学び、主を知ることができるということです。そうすれば、私たちに安らぎが与えられます。
軛をより深く理解するために軛の画像を探してみました。皆さんもご存じのように、軛は農作業に使う道具ですよね。2頭の牛の肩にかけて田を耕す時など、効率的に2頭の牛の力を使うための道具です。この絵を見て、皆さんは何を思いますか?
私はまず自分がこの牛として、この隣は誰?イエス様はどこ?と思いました。隣かも知れませんし、後ろで指示している人かも知れません。おそらく両方イエス様の役割を示しているようにも思います。つまり、イエス様はその思いに従って軛を操作し、やるべき仕事を進めます。そして同時に私たちと共に汗を流し、自分一人では到底やりきれない仕事も完成させることができるように一緒に働いてくださるのだと理解しています。
以前ある姉妹が、「私は日々感謝することが多いんです。ちょっとした出来事でも、これも神様のお陰、これもイエス様が与えてくださったんだと思えるんです。」と言う話をしてくださいました。このようにその方はよく、日々の生活の中の出来事から証しをしてくださるので、私はいつも、この方はイエス様と一緒に生きておられて素晴らしいなあと思っています。イエス様の軛とは何をしたかではなく、どのように生きているかを問われているように思います。
そして私たちの教会にこうした証しが溢れることを願わずにはいられません。証しは聞く者を励ますのはもちろんですが、語るその人にとっても確信に繋がるものですから、是非その時間を多くの方々と共有できたらと考えています。時間は限られてはいますが、今私たちの教会では、教会学校のクラスがこうした証しをする貴重な時間となっていますから、是非多くの方々が参加されることを期待します。各々が軛から学んだことを分ちあいましょう。
ところで、イエス様は「だれでもわたしのもとに来なさい。」と言って待っていてくださるのに、人はイエス様のところへなかなか来ようとはしません。なぜでしょうか?
今日の箇所の20節では、イエス様が数多くの奇跡を行ったにも関わらず、悔い改めない町々を叱っておられる様子が語られています。イエス様の奇跡の意味は、イエス様が神の子メシアであることを人々が信じるためのものです。ですから、イエス様が起こされる奇跡を見て、イエス様が神のひとり子救い主であることを確信する必要があるのです。ところで、悔い改めない町々と言っていますが、イエス様の奇跡と悔い改めとは、どうつながるのでしょうか?今日の聖書箇所の前の部分でイエス様は洗礼者ヨハネについてこのように説明しています。10節ですが、「見よ。わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう。」と書いてあるように、洗礼者ヨハネはイエス様の前に遣わされた使者であり、イエス様が来られる前にその道を整える役割を果たした人でした。そして、洗礼者ヨハネは、荒野でこのように人々に告げました。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」そう言って、イエス様の到来を告げ、その道を準備するために悔い改めのバプテスマを授けていたのです。ですから、今、神の子の到来を示すその奇跡を見て、天の国がまさにここに来ているのに悔い改めようとしない町々にイエス様は叱られたのです。
私たち人間と神様との間を引き裂いたのは何か皆さんもご存知ですよね。創世記にはその出来事が書かれていますが、私たちは神様が作られた世界、それは極めて良かったと言われるその世界で、蛇に誘惑され、その時から罪ある存在となって今日に至っています。私たちは生まれながらに罪あるものであり、神に近づくことのできない、いや近づこうとしない、むしろ隠れようとする存在です。ですから、私たちと神様との間には大きな断絶が存在しているのです。「だれでもわたしのところに来なさい」と、イエス様が招かれても来ないのが普通の人間です。多くの人はイエス様が起こされる奇跡を見ても、悔い改めようとはしません。そんな町々を叱り始められているのが今日の箇所です。なぜなら、そのままでは私たちは重い罰を免れないからです。ですから、その罰を免れるためにも悔い改めてわたしを信じなさいとイエス様は叱っておられるのです。
皆さんはイエス様に叱られた経験がありますか?私は先ほど子どもたちに話したようにそう思える経験をしました。それは私を愛する周りの人を通して、私が罰を受けることが無いようにイエス様に代わって叱ってくれたのだと思っています。
そしてこの話は、28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という有名な招きの言葉に繋がっています。しかしその前、25節から27節には良く分からないことがイエス様の語られたこととして記されています。特に25節の「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」というところは、どうしても分かりませんでした。
何日か思い悩んでいると、ある時ふと、ヨハネによる福音書3章の出来事を思い出しました。そこではファリサイ派に属し、ユダヤ人の議員であったニコデモという人が登場します。イエス様はニコデモに言われます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」しかし、ニコデモにはこの意味が分かりません。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」「あなたがたは新たに生まれなければならない。」とイエス様は繰り返し言われるのです。知恵ある者や賢い者とは、まさにニコデモのような人であり、新たに霊によって生まれた者は幼子です。そしてこの話は、皆さんも良く知っているヨハネ3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という聖句に続きます。
私たちは、イエス様の十字架が自分の罪のためであったと心から信じた時、私たちの罪は許され、もはや罪に支配されない新しい者として生まれます。その時から私たちにはキリストの真理の霊、聖霊なる神が私たちといつも共にいてくださって、すべてのことを教えてくれます。そう聖書に書いてある通りです。
クリスチャンになりたいけど、私は聖書のこともよく知らないし、何より自分は神様に愛される資格などないと思っておられる方がいるかもしれません。
しかし、生まれたばかりの幼子に知識や資格がありますか?生まれた子どもは何も知らなくても、愛する親を見て喜ぶのです。
だから何も知らなくて大丈夫です。自らの罪を認め、心からキリストの十字架を感謝するなら、新しく生まれるという経験をされるでしょう。
クリスチャンになるのに働きは必要ありません。しかし、クリスチャンとして新しく生まれた者が喜びを持って生きるためには軛を負って働くことは必要です。なぜなら、それがクリスチャンとしての生き甲斐であり、安らぎを得られる道だからです。
とはいえ、新しく生まれてクリスチャンになっても、すぐ不信仰に陥りがちなのが私たちです。そんなことで落ち込むことはありませんか?
でも考えてみてください。イエス様とずっと一緒にいたあの弟子たちでさえ、イエス様を信じ続けることができませんでした。自分に危害が及びそうになったら、逃げてしまい、隠れて脅えていました。ところが、そんな弟子に対しても、復活のイエス様は、十字架で負われた釘の跡を見せ、そこに触れなさいと、手を伸ばされます。そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と、言われるのです。
わたしたちは、こんな素晴らしい方に出会い、こんな力ある方に救い出され、こんな優しい方と共に生かされているのです。ですから、イエス様が用意してくださった軛を負い、イエス様から託された仕事を喜んで行っていきましょう。その仕事の中でまたイエス様が共にいてくださることを知って、私たちはきっと主にある平安を確信するでしょう。
お祈りします。