2024年7月14日神学校を覚える礼拝メッセージ「主こそが養う」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、エゼキエル書34章11節〜16節

新共同訳旧約聖書1352ページ〜1353ページです。

34:11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。

34:12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所 から救い出す。

34:13 わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。

34:14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。

34:15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。

34:16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは 公平をもって彼らを養う。

「主こそが養う」と題して、長尾基詩神学生に、メッセージをしていただきます。

挨拶

 本日は大分教会の皆様と神学校週間を覚え、共に礼拝をささげる喜びに与れますことを大変にうれしく思います。私の属する西南学院大学神学部には今年、3人の新入生、一人のリカレント生が加わり、全員で8名の神学生が在籍しております。そのほとんどが神学生専用の寮で共同生活を送りながら、神学の学びを行っています。私個人の話をさせていただきますと、現在西南神学部に入学して4年目になり、今年卒業論文提出と大学院入試のため、日々準備中でございます。

 私たち神学生は、奨学金によって学費、寮での生活費を賄っていただいております。これは全国壮年会の皆様が主体となって運営してくださっている神学校献金が元になっており、元をたどれば神学校のことを覚えて献金をお献げくださった皆様の祈りによって成り立っております。神学生を代表して皆様に感謝申し上げます。近年は献身を志す神学生の数が年々減少しておりますこともどうぞお祈りにお覚えください。一人でも主に教会に仕えるという気持ちを持った仲間が増えることは私たち神学生の切実な願いでもあります。

 ところで、牧師として民を牧するとはどのような意味でしょうか。

現代の私たちは冒頭申しましたように預言者や王、祭司という形ではなく、役割としての牧師を立てております。この牧するという言葉に注目して聖書を読んでみました。エゼキエル書にはこうあります。

11節実に、主なる神はこう言われる。私が自ら自分の群れを尋ね求め、彼らを捜し出す。

 ほかならぬ神様が牧者として羊を捜し出すというのです。これは私にとっては大きな発見でした。自分が牧者として立たねばという思いのもと、勉学に励んでいましたが、その中で大切なものを見失ってはいないかと神様から問われた気持ちでした。私たちの主がまず最も偉大な私たちの牧者である。これは教会に集うすべての人々がまず持たなくてはならない視点だと思います。では、神様の牧者としての働きはどのようなものでしょうか。私の専門は旧約聖書、ヘブライ語ですので、ヘブライ語本文の意味を丁寧に読み解きながら味わっていきたいと思います。

 16節私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。しかし私は肥えたものと強いものを滅ぼす。私は公正をもって群れを養う。

失われたもの

 群れを養うというのはどこか強さを求められるものかというイメージを持っていませんでしょうか。現代ではリーダーシップという言葉が台頭しております。しかし、神様の「牧する」というイメージはまず真っ先に失われたものへと向かうのです。この失われたものとはahbadというヘブライ語が語源になっており、殺された、死んだ者とも訳せる強い意味の言葉です。これは、私たちにとって死という避けがたいものからも解放するイエス様の永遠の命を想像させるかもしれません。さらに言えば、この永遠の命は私たちから探し求めるものではないのです。神様の方から探し求め、見つけてくださるものなのです。

追われたもの

 次の追われた(nadachというヘブライ語)ものとは駆り立てる、強く押す、追放するという意味を持っています。エレミヤが最も頻繁にこの語を使っており、特に捕囚期においては自分が自分であるところから散らされたものを表します。教会に集わされた私たちはこの世界において散らされている者であるという実感をたびたび感じることがあります。教会は決して完璧な人間の集まりではありません。誰しも欠けを持っており、その中で互いに補い合いながら愛を持って結び合っています。また、教会という共同体の中から追われたものという捉え方をすれば、事情があって教会に来られない方、最近姿が見えないなという方を思いあって、教会に再度招くことは神様が先立ってしてくださることなのです。

傷ついたもの

 傷ついた(shabar)ものとは、ただ単に傷がついただけというよりも、粉々に壊されたという意味を持ちます。このようなものを包み込まれると主は言われます。カウンセリングの大切な技術の一つにアドバイスをしないというものがあります。相手の言う事にただ耳を傾け、受け入れる行為、傾聴と言われますけれどもこれがまさに傷ついたものを包み込むということではないでしょうか。

弱ったもの

 弱ったものとは、無関心のもの、感情を喪失した者との意味も持ちます。有名なユダヤ人心理学者のフランクルがナチスのユダヤ人強制収容所生活の体験を著した「夜と霧」では、あまりに過酷な収容所生活の中で、仲間が看守に殴る蹴るなどの暴行を受けてももはや何も感じることが無くなった、と書いています。私たちにも生活の中で同じことが言えないでしょうか。人からあまりに愛されることのない生活を送っている人がどうして他人を愛せるでしょうか。イエス様が教えられた第一の律法とは、すなわち神を愛すること隣人を愛することでした。しかし、私たちは見逃されがちな隣人を愛するという言葉の前に置かれた条件を思い起こしたいと思います。「自分を愛するように」あなたの隣人を愛しなさい。今皆さんは自分を愛することができていますでしょうか?神様の愛ゆえに私たちは自らを愛するということが許されています。

神の公正

 最後の肥えたものと、強いものを滅ぼすというのは、少し強く聞こえる言葉ですけれどもここではあえて最後の「公正をもって」という語に注目したいと思います。「公正に」という語はshaphatから来ていてこれはもともと「裁く」という動詞から来ています。裁くと聞くと私たちには恐ろしい判決が下されて、自分が断罪されるかのような感覚を持ってしまいがちですけれども旧約聖書における「裁き」とは、弱いものの叫びが聞かれること、理不尽に貶められている側(自分の側)が正当にその訴えを聞かれることを意味します。ここで大事なのが、低くされたものがあげられ、高いものは下げられるという考え方であり、これはイエス様にまで通じる考え方です。このような考え方を取る時にやはり強いもの、肥えたものとは、強いまま、肥えたままの状態でいることは赦されず、何らかの変化を迫られることになります。そうさせることが神様の思い描く理想的な牧者の役割であり、イエス様の思い描いた神の国においては、主人と奴隷のような上下関係はもはやあり得ないのです。

牧者としての主イエスと私たちの応答

 ここまで、神様がどのように民を牧されるかについての知恵を見てきました。皆様に繰り返しお伝えしたいのは、全体を通して牧する者がすべき任務がケアであるという視点です。ガリラヤ湖のほとりで神の国を宣べ伝えたイエス様がまずしたことも病気の人や弱った人、傷ついた人のところへ行って、共に食事をし、癒しを与え、積極的に関わるという事でした。ここに私たちはやはりイエス様こそ神様の示した牧者としての働きの最も偉大な担い手であるということを見ることができます。そしてこの働きはすべての人に開かれています。一人ひとりが牧者としての働きを自分のできる範囲で主から託されているという思いを持つことはとても大切なことです。

また、この世界に目を向ければ、傷ついている人、弱った人、迷い出た人はまだ大勢いると言えないでしょうか。少なくとも私が高校生の時に教会で出会わされた人たちは、その多くが傷つき、弱さを抱えた人でした。ある一人の方のお話をさせてください。私が高校生の時、ある日の祈祷会の夜でした。もう遅い時間でしたが、母親のもとに一通のメールが届きました。その人のこどもさんが心臓の手術をするので、祈ってほしいということでした。差出人のAさんは今まで教会などにはまったく行ったことがなかったそうですが、とにもかくにもその夜は祈りました。後日わかったことですが、その子どもさんの手術は無事成功し、のちには、修学旅行に行けるまでに回復したそうです。Aさんはその体験を機に教会に来るようになり、バプテスマを受けました。比較的若かったので私とAさんは良い友達になりました。Aさんの証によれば、Aさんはもともと弁護士として働いておりましたが、そこで依頼人となった人が自死してしまったそうです。彼は大変なショックを受け、彼自身心を病み、お酒に頼りました。アルコール依存症にまでなったそうですが、ダルクの支援を受け、依存症の状態から脱しつつある状態のところに先ほどの教会との出会いがあったそうです。その証をしてくださった日、私は献金のお祈りの当番でしたが、涙で祈りの言葉が出なかったのを覚えています。

神様の計り知れない恵みによってこのような人たちが癒され、包み込まれた結果、今では教会の中でかけがえのない働き手になっています。これは大きな恵みであり、まだまだこの恵みを伝える必要があると強く感じされました。私は主の召命に応え、まだ福音の伝わっていないところに積極的に行きたいと考えています。また一人でも多くの方が主の召命に応え働き人として召し出されることも願っています。皆様の中でどうかそのような召命が与えられたと感じた人がいましたらどうぞ祈りの中で主と誠実に向き合い、考えてください。私たちの神、主イエスキリストは本当に私たちのことを愛してくださっています。最も良い道を私たちに備えてくださるでしょう。お祈りをもって終わります。

恵み深き天の神様。本日は教会の皆様と共に礼拝し、御言葉を分かち合えましたことを感謝します。世界の悲惨な状況をあなたは見て、また共に愛し合う事の出来ない私たちを見て、あなたはご自身でこの群れを牧すると言ってくださいました。それは、イエスキリストにおいて実現し、私たちは大きな恵みと互いに愛し合うことを教えられました。感謝します。私たちをどうか愛によって生きる群れへと変えて下さり、そして世界へとその福音を伝えるものへと変えてくださいますように祈ります。

 神学校週間を覚える礼拝が持てましたことを誠に感謝します。私達一人ひとりが献身と言う事柄を豊かに考え、あなたからの恵みに応答することができますように。またすでに働いておられるこの教会の牧師先生や、全国諸教会であなたへの思いをもって働いておられるすべての先生方の働きがあなたによって祝されますように祈ります。多くの困難がある時代において、主の福音が一層輝きを増すように、牧会者の日々の歩みも主が御手をもって祝福されますように祈ります。

 尽きせぬ感謝と願い、一切をあなたにゆだねてこのお祈りをイエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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