2024年6月30日主日礼拝メッセージ「見えていないのは?」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書18章35節〜43節

新共同訳新約聖書145ページ〜146ページです。

18:35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。

18:36 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。

18:37 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、

18:38 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。

18:39 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。

18:40 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。

18:41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。

18:42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」

18:43 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

「見えていないのは?」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日は、オンラインで、臼杵教会の皆さんも一緒に礼拝を献げています。

このように、場所は違っても、一緒に讃美歌を歌い、聖書のメッセージを聞くことができることを、本当に嬉しく思います。

一緒に、聖書のメッセージに聞いていきたいと思いますが、

いつも通り、まず最初に、子どもたちに向けて、メッセージを語らせていただきたいと思います。

今日の聖書の箇所には、イエス様と目が見えない人との出会いについて、語られています。

聖書を見てみると、目の見えない人は、道端に座って物乞いをしていたって、書いています。

物乞いっていうのは、お金とか食べ物を恵んでくださいって、頼むことです。

目の見えない人は、道端に座りながら、そうやって物乞いをしていました。

もちろん、できることならば、そんなことしたくなかったと思います。

でも、目が見えないってことで、雇ってくれるところもなかったし、助けてくれる人もいなかった。

物乞いをする以外に、生きていく方法がなかったんです。

それは、この人にとって、どれだけ辛いことだったでしょうか。

そんな彼の耳に、突然、沢山の人たちの足音が聞こえてきました。

「これは一体何事ですか?」彼が聞くと、「イエス様のお通りだ!」って言われました。

その言葉を聞いて、彼は、「イエス様!私を憐んでください!」って叫びました。

「イエス様!どうか私の声を聞いて!」

目が見えないので、イエス様がどこにいるかはわかりません。

だから、とにかく大声で叫んだ。

「イエス様!私に気づいて!どうか、立ち止まって!」

でも、「先に行く人々が、彼を叱りつけて、黙らせようとした」って、書いています。

先に行く人々って誰でしょうか?

イエス様のお弟子さんでしょうか。

なんで、この人たちは、目の見えない人を叱りつけ、黙らせようとしたんでしょうか?

なんででしょう?

イエス様の邪魔になるって、思ったんでしょうか。

彼の叫び声がうるさいって、そう思ったんでしょうか。

その人たちは、目が見えていましたし、声も聞こえていました。

でも、彼らの目に、目の見えない人は、どう見えていたんでしょうか。

目の見えない人の叫びは、どんなふうに聞こえていたんでしょうか。

どんなに目が見えていても、彼らの目に、目の見えない人の苦しみは見えていませんでした。

叫び声に込められた、悲しみや苦しみは、聞こえていませんでした。

つまり、人の痛みがわからなかった。

このことこそ、大きな問題だったんじゃないかって、思うんです。

イエス様は、目の見えない人の叫びを聞いて、立ち止まり、彼の声を聞こうとしました。

みんなだったら、どうするでしょうか。

私たちには、目の見えない人の目を、見えるようにしてあげる力はありません。

でも、叫びを聞いて立ち止まることはできます。

そして、彼の声を聞くことはできます。

彼の声を聞いて、もしかしたら、私たちにもできることが、見つかるかもしれない。

これが、大事なんだと思います。

人の痛みに立ち止まる。そして、その人の声を聞く。

そんな人になれたらいいなって思います。

お祈りします。

・厳しい社会

先ほども言いましたように、今日の箇所には、イエス様と、目の不自由な方との出会いについて語られています。

福音書を読んでいると、時々に、目の不自由な方が登場します。

これは、聖書の舞台であるパレスチナの気候や風土、衛生環境に起因するところが大きいと言われています。

特に、砂塵(砂ぼこり)が原因で、炎症性の目の病気に罹り、失明する人が多かったそうです。

今日の箇所に登場する人も、そうだったかもしれません。

41節で彼は、イエス様の問いかけに対して、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言ったと記されています。

この言葉、2018年に新しく翻訳されました共同訳聖書では、「主よ、また見えるようになることです」と訳されています。

こちらの方が、正確な訳だそうです。

「また見えるようになりたい」ですから、見えていた時期があったということになります。

ですから、この人は、病気か、何らかの事故によって、視力を失った人であったということです。

いつ、どのような状況で、視力を失ったのか。

見えていた頃は、どんな生活をしていたのか。

詳しいことはわかりません。

しかし、視力を失うということが、当時の社会を生きる上で、大きな困難であったことは、間違いありません。

イエス様と出会った時、彼は、道端に座って物乞いをしていました。

彼だけじゃありません。

聖書を読んでみると、他の箇所にも、目の不自由な人が、物乞いをしている様子が記されています。

目の不自由な人にとって、当時の社会が、どれだけ過酷な社会であったかということが想像されます。

目が見えなくなるということは、視力だけでなく、仕事を失うということであり、ひいては、人間としての尊厳も失ってしまうような、そんな辛いことだったのです。

・見えていなかったのは

そんな彼の前を、イエス様一行が通りかかります。

彼は、イエス様がお通りになると聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。

でも、先に行く人々が叱りつけ黙らせようとしたと、記されています。

なぜ、彼らは、叱りつけたのでしょうか。

なぜ、黙らせようとしたのでしょうか。

邪魔だ、うるさいって、そう思ったのでしょうか。

先日、宣教研究所主催の研修会に参加した時に、健康とは何かという話になりまして、ある本の中に「他者の病の重荷を、分かち合うことなしに、私たちは完全な健康を得ることはできない」と、書かれているということを聞きました。

「他者の病の重荷を分かち合うことなしに、私たちは完全な健康を得ることはできない」。

わかりやすくいうならば、「人の痛みがわからない人は、健康ではない」ということです。

私自身、ハッとさせられる言葉でした。

その言葉を聞きながら、今日の箇所を読む時に、果たして、見えていないのは、誰だったんだろうか。

見るべきものが見えていなかったのは、目の不自由な人よりも、彼を叱りつけた人たちだったんじゃないかと、そう思わされました。

そして、同時に、私自身、目が開かれているかということを、問われました。

私たちの群れの中にも、目の病気を患っておられる方がいらっしゃいます。

緑内障や白内障の手術をされたという声も、時々に、聞くことがあります。

そういう方々の痛みや苦しみに、ちゃんと目が開かれているだろうか。

目の不自由な方だけじゃない。

広く人の痛みや苦しみに、ちゃんと目が開かれているだろうか。

痛んでいる声は聞こえてきても、立ち止まれない。

自分の想い、自分の都合を優先させて、通り過ぎてしまっている。

時々に、そんな自分がいるなと思わされます。

叱りつけた人たちも、そうだったんだと思います。

この時、イエス様一行は、エルサレムに向かって、歩んでいました。

行かなければならないところがあった。

そういう時というのは、立ち止まれないものです。

余裕がない。忙しい。

でも、そういう自分が見えていないとか、病んでいるという認識を持ったことはありませんでした。

「人の痛みがわからない人は、健康ではない」ということを聞いた時に、

「ああそうか、目が開かれるべきなのは、私自身なんだな」と、そう思わされました。

・何をして欲しいのか

イエス様は、目の不自由な人の叫びを聞いて、立ち止まりました。

そして、「何をしてほしいのか」と尋ねました。

この言葉を見た時に、私は、「聞いていいんだ」と思いました。

相手の気持ちを汲み取って、察することが素晴らしいみたいな風潮ってあると思いますし、実際そうやってできる人は、かっこいいなって思いますけれども、

でも、「聞く」って悪いことじゃないんですね。

むしろ、大事なことかもしれない、そう思わされています。

目が不自由なのだから、見えるようになりたいに決まっている。

そういう思い込みや先入観で動くのは、危険なことかもしれません。

以前、目の不自由な方を誘導した時に、失敗した時のことを思い出します。

私は、自分の祖母の歩行介助をよくしていたんですが、その経験から、目の不自由な方を誘導する時に、腕を組む形で、誘導しようとしてしまったことがありました。

その方は、ありがとうと言ってくださったんですが、後から、肩を貸してもらった方がありがたいって言われて、「ああそうなんだな」と教えられたことがありました。

これもまた、みんながみんな、そうされて嬉しいとは限らないかもしれません。

人によって、状況によって、どうされるのが良いかは、変わってくるんだと思います。

そういうことを考えても、「聞く」というのは、決して恥ずかしいことでも、悪いことでもない。

むしろ、決めつけや思い込みではなく、相手の言葉を聞くというのが、大事なのだと思わされます。

今日の場面でも、イエス様が尋ねたことによって、目の不自由な人は、「また、見えるようになりたい」ということを言えました。

単に「見えるようになりたい」ではない。

「また、見えるようになりたい」。

ここには、いろんな想いが詰まっているように思います。

見えていたものが、見えなくなる恐怖。悲しさ。

できていたことが、できなくなっていく辛さ。

それだけでも、耐え難いものなのに、道庭に座って、物乞いをして、叫んでも叱りつけられ、黙らされる。

もう、たくさんだ。

人間として扱われていた、あの頃に戻りたい。

単に見えるようになりたいというだけではない。

そこには、いろんな想いがあったことが想像されます。

この想いを、痛みを、聞いていく。

それは、聞く者にとって、とても大事なことだと思わされます。

・回復

イエス様は、彼の言葉を聞いて、目を見えるようにされました。

もちろん、私たちに、そんな力はありません。

でも、彼の叫びを聞いて、立ち止まることはできますし、彼の痛みに、耳を傾けることもできます。

そうすることを通して、もしかしたら、全部ではなくとも、彼の抱える生き辛さの幾分かを和らげることは、できるかもしれません。

それは、目の不自由な人だけのためじゃない。

私たち自身のため、私たち自身の目が開かれるためにも、必要なことなのだと思います。

人の痛みや悲しみを知るということは、私たちの目が開かれるということであり、私たち自身が、健康になるということなのです。

今日の話の最後に、「これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」とあります。

この中には、目の不自由な人を叱りつけ、黙らせようとした人たちも、いたかもしれません。

目の不自由な人の目が開かれることが、彼だけでなく、その周りの人たちの喜びにもなっていった。

この出来事を通して、回復されていったのは、目の不自由な人だけじゃなかったことを示していると思います。

人の痛みに立ち止まり、その声に耳を傾けるということは、私たちが健康になるために、必要なことなんだ。

私たちが回復されていくために、必要なことなんだ。

そのことを今日は、覚えておきたいと思います。

お祈りします。

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