聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書18章35節〜43節
新共同訳新約聖書145ページ〜146ページです。
18:35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。
18:36 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。
18:37 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、
18:38 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。
18:39 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
18:40 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。
18:41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。
18:42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
18:43 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
「見えていないのは?」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は、オンラインで、臼杵教会の皆さんも一緒に礼拝を献げています。
このように、場所は違っても、一緒に讃美歌を歌い、聖書のメッセージを聞くことができることを、本当に嬉しく思います。
一緒に、聖書のメッセージに聞いていきたいと思いますが、
いつも通り、まず最初に、子どもたちに向けて、メッセージを語らせていただきたいと思います。
今日の聖書の箇所には、イエス様と目が見えない人との出会いについて、語られています。
聖書を見てみると、目の見えない人は、道端に座って物乞いをしていたって、書いています。
物乞いっていうのは、お金とか食べ物を恵んでくださいって、頼むことです。
目の見えない人は、道端に座りながら、そうやって物乞いをしていました。
もちろん、できることならば、そんなことしたくなかったと思います。
でも、目が見えないってことで、雇ってくれるところもなかったし、助けてくれる人もいなかった。
物乞いをする以外に、生きていく方法がなかったんです。
それは、この人にとって、どれだけ辛いことだったでしょうか。
そんな彼の耳に、突然、沢山の人たちの足音が聞こえてきました。
「これは一体何事ですか?」彼が聞くと、「イエス様のお通りだ!」って言われました。
その言葉を聞いて、彼は、「イエス様!私を憐んでください!」って叫びました。
「イエス様!どうか私の声を聞いて!」
目が見えないので、イエス様がどこにいるかはわかりません。
だから、とにかく大声で叫んだ。
「イエス様!私に気づいて!どうか、立ち止まって!」
でも、「先に行く人々が、彼を叱りつけて、黙らせようとした」って、書いています。
先に行く人々って誰でしょうか?
イエス様のお弟子さんでしょうか。
なんで、この人たちは、目の見えない人を叱りつけ、黙らせようとしたんでしょうか?
なんででしょう?
イエス様の邪魔になるって、思ったんでしょうか。
彼の叫び声がうるさいって、そう思ったんでしょうか。
その人たちは、目が見えていましたし、声も聞こえていました。
でも、彼らの目に、目の見えない人は、どう見えていたんでしょうか。
目の見えない人の叫びは、どんなふうに聞こえていたんでしょうか。
どんなに目が見えていても、彼らの目に、目の見えない人の苦しみは見えていませんでした。
叫び声に込められた、悲しみや苦しみは、聞こえていませんでした。
つまり、人の痛みがわからなかった。
このことこそ、大きな問題だったんじゃないかって、思うんです。
イエス様は、目の見えない人の叫びを聞いて、立ち止まり、彼の声を聞こうとしました。
みんなだったら、どうするでしょうか。
私たちには、目の見えない人の目を、見えるようにしてあげる力はありません。
でも、叫びを聞いて立ち止まることはできます。
そして、彼の声を聞くことはできます。
彼の声を聞いて、もしかしたら、私たちにもできることが、見つかるかもしれない。
これが、大事なんだと思います。
人の痛みに立ち止まる。そして、その人の声を聞く。
そんな人になれたらいいなって思います。
お祈りします。
・厳しい社会
先ほども言いましたように、今日の箇所には、イエス様と、目の不自由な方との出会いについて語られています。
福音書を読んでいると、時々に、目の不自由な方が登場します。
これは、聖書の舞台であるパレスチナの気候や風土、衛生環境に起因するところが大きいと言われています。
特に、砂塵(砂ぼこり)が原因で、炎症性の目の病気に罹り、失明する人が多かったそうです。
今日の箇所に登場する人も、そうだったかもしれません。
41節で彼は、イエス様の問いかけに対して、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言ったと記されています。
この言葉、2018年に新しく翻訳されました共同訳聖書では、「主よ、また見えるようになることです」と訳されています。
こちらの方が、正確な訳だそうです。
「また見えるようになりたい」ですから、見えていた時期があったということになります。
ですから、この人は、病気か、何らかの事故によって、視力を失った人であったということです。
いつ、どのような状況で、視力を失ったのか。
見えていた頃は、どんな生活をしていたのか。
詳しいことはわかりません。
しかし、視力を失うということが、当時の社会を生きる上で、大きな困難であったことは、間違いありません。
イエス様と出会った時、彼は、道端に座って物乞いをしていました。
彼だけじゃありません。
聖書を読んでみると、他の箇所にも、目の不自由な人が、物乞いをしている様子が記されています。
目の不自由な人にとって、当時の社会が、どれだけ過酷な社会であったかということが想像されます。
目が見えなくなるということは、視力だけでなく、仕事を失うということであり、ひいては、人間としての尊厳も失ってしまうような、そんな辛いことだったのです。
・見えていなかったのは
そんな彼の前を、イエス様一行が通りかかります。
彼は、イエス様がお通りになると聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。
でも、先に行く人々が叱りつけ黙らせようとしたと、記されています。
なぜ、彼らは、叱りつけたのでしょうか。
なぜ、黙らせようとしたのでしょうか。
邪魔だ、うるさいって、そう思ったのでしょうか。
先日、宣教研究所主催の研修会に参加した時に、健康とは何かという話になりまして、ある本の中に「他者の病の重荷を、分かち合うことなしに、私たちは完全な健康を得ることはできない」と、書かれているということを聞きました。
「他者の病の重荷を分かち合うことなしに、私たちは完全な健康を得ることはできない」。
わかりやすくいうならば、「人の痛みがわからない人は、健康ではない」ということです。
私自身、ハッとさせられる言葉でした。
その言葉を聞きながら、今日の箇所を読む時に、果たして、見えていないのは、誰だったんだろうか。
見るべきものが見えていなかったのは、目の不自由な人よりも、彼を叱りつけた人たちだったんじゃないかと、そう思わされました。
そして、同時に、私自身、目が開かれているかということを、問われました。
私たちの群れの中にも、目の病気を患っておられる方がいらっしゃいます。
緑内障や白内障の手術をされたという声も、時々に、聞くことがあります。
そういう方々の痛みや苦しみに、ちゃんと目が開かれているだろうか。
目の不自由な方だけじゃない。
広く人の痛みや苦しみに、ちゃんと目が開かれているだろうか。
痛んでいる声は聞こえてきても、立ち止まれない。
自分の想い、自分の都合を優先させて、通り過ぎてしまっている。
時々に、そんな自分がいるなと思わされます。
叱りつけた人たちも、そうだったんだと思います。
この時、イエス様一行は、エルサレムに向かって、歩んでいました。
行かなければならないところがあった。
そういう時というのは、立ち止まれないものです。
余裕がない。忙しい。
でも、そういう自分が見えていないとか、病んでいるという認識を持ったことはありませんでした。
「人の痛みがわからない人は、健康ではない」ということを聞いた時に、
「ああそうか、目が開かれるべきなのは、私自身なんだな」と、そう思わされました。
・何をして欲しいのか
イエス様は、目の不自由な人の叫びを聞いて、立ち止まりました。
そして、「何をしてほしいのか」と尋ねました。
この言葉を見た時に、私は、「聞いていいんだ」と思いました。
相手の気持ちを汲み取って、察することが素晴らしいみたいな風潮ってあると思いますし、実際そうやってできる人は、かっこいいなって思いますけれども、
でも、「聞く」って悪いことじゃないんですね。
むしろ、大事なことかもしれない、そう思わされています。
目が不自由なのだから、見えるようになりたいに決まっている。
そういう思い込みや先入観で動くのは、危険なことかもしれません。
以前、目の不自由な方を誘導した時に、失敗した時のことを思い出します。
私は、自分の祖母の歩行介助をよくしていたんですが、その経験から、目の不自由な方を誘導する時に、腕を組む形で、誘導しようとしてしまったことがありました。
その方は、ありがとうと言ってくださったんですが、後から、肩を貸してもらった方がありがたいって言われて、「ああそうなんだな」と教えられたことがありました。
これもまた、みんながみんな、そうされて嬉しいとは限らないかもしれません。
人によって、状況によって、どうされるのが良いかは、変わってくるんだと思います。
そういうことを考えても、「聞く」というのは、決して恥ずかしいことでも、悪いことでもない。
むしろ、決めつけや思い込みではなく、相手の言葉を聞くというのが、大事なのだと思わされます。
今日の場面でも、イエス様が尋ねたことによって、目の不自由な人は、「また、見えるようになりたい」ということを言えました。
単に「見えるようになりたい」ではない。
「また、見えるようになりたい」。
ここには、いろんな想いが詰まっているように思います。
見えていたものが、見えなくなる恐怖。悲しさ。
できていたことが、できなくなっていく辛さ。
それだけでも、耐え難いものなのに、道庭に座って、物乞いをして、叫んでも叱りつけられ、黙らされる。
もう、たくさんだ。
人間として扱われていた、あの頃に戻りたい。
単に見えるようになりたいというだけではない。
そこには、いろんな想いがあったことが想像されます。
この想いを、痛みを、聞いていく。
それは、聞く者にとって、とても大事なことだと思わされます。
・回復
イエス様は、彼の言葉を聞いて、目を見えるようにされました。
もちろん、私たちに、そんな力はありません。
でも、彼の叫びを聞いて、立ち止まることはできますし、彼の痛みに、耳を傾けることもできます。
そうすることを通して、もしかしたら、全部ではなくとも、彼の抱える生き辛さの幾分かを和らげることは、できるかもしれません。
それは、目の不自由な人だけのためじゃない。
私たち自身のため、私たち自身の目が開かれるためにも、必要なことなのだと思います。
人の痛みや悲しみを知るということは、私たちの目が開かれるということであり、私たち自身が、健康になるということなのです。
今日の話の最後に、「これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」とあります。
この中には、目の不自由な人を叱りつけ、黙らせようとした人たちも、いたかもしれません。
目の不自由な人の目が開かれることが、彼だけでなく、その周りの人たちの喜びにもなっていった。
この出来事を通して、回復されていったのは、目の不自由な人だけじゃなかったことを示していると思います。
人の痛みに立ち止まり、その声に耳を傾けるということは、私たちが健康になるために、必要なことなんだ。
私たちが回復されていくために、必要なことなんだ。
そのことを今日は、覚えておきたいと思います。
お祈りします。