2024年6月16日主日礼拝メッセージ「神の国は、子どもの国」

本日は、機材不良のため、礼拝メッセージの録画ができませんでした。申し訳ありません。メッセージ原稿をご覧ください。

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書18章15節〜17節。

新共同訳新約聖書144ページです。

18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。

18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

「神の国は、子どもの国」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日の聖書の箇所には、人々が、イエス様のところに、子どもたちを連れてきたって、書いてあります。

子どもたちが、幸せになれるように。

そう願って、祈ってもらうために、人々は、イエス様のところに、子どもたちを、連れてきた。

でも、イエス様の弟子たちは、この人たちを、叱りつけたって書いてあります。

なんで、弟子たちは、叱りつけたんでしょうか?

子どもが嫌いだったからでしょうか。

意地悪で、心の冷たい人たちだったからでしょうか。

きっと違うと思います。

多分、イエス様のためだったんじゃないでしょうか。

イエス様の周りには、いつも、人がいっぱいいました。

貧しい人たち、病気の人たち、学者の人もいましたし、偉い議員の人もいました。

次から次へと、人が押し寄せてくる。

一人終わっても、また一人、また一人・・・、休む時間もなかった。

そんなイエス様のことを一番近くで見ていたのが、弟子たちでした。

だから彼らは、少しでも負担を減らしてあげたいと思った。

それで、子どもを連れてきた人たちを、叱りつけたんだと思います。

でも、そんな弟子たちに、イエス様は言いました。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

「このような者たち」って、誰のことでしょう?

そう、それは、子ども達のことです。

弟子達から、追い返されそうになった、子ども達。

「このような者たち」っていうのは、まず第一に、その子どもたちのことです。

でも、それだけでしょうか。

確かに、神の国は、子どもの国だって言われているんだと思います。

でも、子どもって、誰でしょうか。

初くんは、子どもですか?

じゃあ、私は、どうでしょう?私は、子どもですか?

確かに、初くんから見たら、私は、大人に見えるでしょう。

でも、神様から見たら、どうなんでしょうか。

どんなに成長しても、みんな神様の子ども。

どんなに歳を取っても、神様にとっては、みんな子どもだって、イエス様は、伝えているんじゃないでしょうか。

みんなも、これから、どんどん成長していって、大人って言われるようになっていくでしょう。

学校も卒業し、親からも離れて、1人で生きて行く時が来るかもしれない。

でも、神様から離れることはない。

神様との関係は、変わりません。

どんなに私たちが成長しても、どんなに私たちが変わっても、神様は変わらず、私たちを迎え入れてくださる。

神様のもとに、私たちの居場所があるんだって、イエス様は、そう教えてくださっているんだと思います。

今日は、このことを、覚えておきたいと思います。

私たちには、居場所がある。

神様は、変わらず、私たちを、迎え入れてくださる。

そのことを、今日は、覚えておきたいと思います。

お祈りします。

・ここに居場所がある

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

改めて、この言葉は、すごい言葉だなと思います。

私がこのみ言葉と出会ったのは、2020年ごろですから、今から4年前のことです。

次男が、入園した幼稚園をやめなければならないということがありました。

理由は、言葉の発育の遅れと、集団行動ができないということでした。

幼稚園に通い始めて1ヶ月ぐらいが経った頃でした。

幼稚園から呼び出されまして、そこで、園長先生から、充について、話がありました。

一つは、集団の中で行動できないということ。

もう一つは、言葉の発育が遅いということでした。

そして、何らかの支援が必要だろうと言われました。

最初は、前向きな言葉として聞いていました。

今、幼稚園にできるのは、充のしたいようにさせることだけ。

それは、充にとって、良いことではない。

ぐんと成長するこの時に、必要な支援を受けることができれば、言葉も、集団行動も、ぐんと伸びる。

だから、幼稚園と療育(療育というのは、障がいのある子どもや、その可能性のある子どもに対して、その子の発達状況に合わせて支援することです)と、協力して、充くんを見ていきたいって、言われました。

私は、その言葉を聞いて、とても嬉しく思いました。

でも、少しずつ、状況が変わっていくのを感じました。

幼稚園に連れて行く度に、療育の準備は進んでいますか、そう聞かれるようになったり、

「今、幼稚園では、充くん一人に、先生一人をつけています。」

そういう言葉を聞くたびに、少しずつ、気が重くなっていきました。

決定的だったのは、親子通園をお願いされたことでした。

1週間に1回か2回でも、親と一緒に幼稚園にいる日を作って欲しいと、言われました。

連れ合いの光が、行ってくれたんですが、幼稚園にいる間、充だけずっと別行動。

たくさんの子ども達がいる中で、強い孤立感を感じたと、言っていました。

最初は、1週間に1・2回だったんですが、最終的には、毎日、親子通園になりました。

そうなった時に、「ここにいちゃだめ」って言われているように、思ってしまいました。

そして、悩んだ末に、幼稚園をやめることにしました。

今は、幼稚園の対応に対して、理解することができますし、そのおかげで療育につながることができたので、感謝していますが、当時は、とても辛かったです。

ちょうど、この時期に、追い打ちをかけるように、似たようなことが続きました。

レストランに行っても、「他のお客様の御迷惑になります」と、言われたり、

温泉に行っても、公園に行っても、どこに行っても、気づいたら「すいません」と言っている自分がいました。

安心していられる場所が、ありませんでした。

新型コロナウイルスの感染拡大によって、閉鎖的な状況の中にあったということも相まって、

当時は、結構ショックで、充の居場所はどこにもない、そう言われているような気がして、すごく落ち込んでしまいました。

そんな時に、出会ったのが、今日の箇所でした。

私は、今日の箇所に出てくる、子どもを連れてきた人たちが、私たち家族と重なって感じました。

弟子達によって、叱られてしまった人たち。

せっかく、イエス様に祈ってもらいたい、そう思ってやってきたのに、受け入れてもらえなかった人たち。

そんな人々に、イエス様は言われたのです。

「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」

この言葉に、子どもを連れてきた人たちが、どれだけ、救われたことでしょうか。

私も、この言葉と出会った時、本当に救われる想いになりました。

ここに、充の居場所がある。

ここに、私達の居場所がある。

居場所はあるよって、そう言われているように感じて、心底ホッとしました。

将来に対する不安が消えたわけではありませんでしたが、真っ暗だった心に、光が差し込んできたような、そんな経験でした。

イエス様は、子どもだけではない、居場所を求めているすべての人に対して、あなたの居場所はある。

神様は、ちゃんとあなたを受け止めているよって、そう伝えています。

まず、そのメッセージを、今日は、心に留めたいと思います。

・子供のように

ただ、今日の箇所で、イエス様は、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とも言っています。

「子供のように」とはどういうことでしょうか。

調べてみると、様々な解釈がありました。

中には、「素直に」とか、「汚れなく」という意味で、受け取っている人もいました。

でも、もし、そういうことを求められているのだとするならば、大人には、ちょっと無理な要求だなと思ってしまいます。

イエス様は、そんな無理な要求をしているんでしょうか。

そんな高いハードルを超えないと、神の国には入れないのでしょうか。

そうではないと思います。

「子供のように」とは、無力さをあらわす言葉だと思います。

つまり、神の前に無力になりなさいということです。

神の国は、神様の恵みによって入る場所です。

人間の行いとか、功績とか、能力によって入る場所ではありません。

神様の赦しと愛によって、無条件に、与えられる場所です。

子どもたちを追い返そうとした弟子たちに、イエス様は、そのことを伝えたかったのではないでしょうか。

弟子たちは、少々傲慢になっていたのではないでしょうか。

自分たちは、イエス様の弟子だ。

イエス様の弟子として、あれもこれもやっている。

そのことが、どこかで弟子たちの心を、思い上がらせていた。

だから、叱りつけるようなことをしてしまったのだと思います。

イエス様の言葉は、そんな弟子たちに対する、厳しい批判の言葉だと思います。

お前たちは、いつから管理人になったのか。

いつから、妨げる者になったのか。

あなたたちだって、招き入れられたんだろ。

能力でも、功績でもなく、恵みによって、選ばれたんだろ。

なのに、なぜ、妨げたりするのか。

高ぶらず、低くなりなさい。

この子どものように、乳飲み子のようになりなさい。

先週の箇所の最後で、イエス様は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われましたが、今日の箇所でも、まさにそのことが、語られているのだと思います。

・無力な者として

神の国にふさわしい人などいません。

どんな人も、神様の前では、無力な子どもです。

でも、それでいいのです。

神様は、そのままで受け入れてくださるのです。

きっと、条件をつけているのは、私たちの方でしょう。

先週の箇所に出てきたファリサイ派の人は、「週に2度断食をし、全収入の十分の一を献げています」って、自分のしていることを誇っていました。

来週読みます、次の箇所では、ある議員が、イエス様に、「何をすれば、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」って尋ねています。

何かしないといけない。

ふさわしい者にならないといけない。

そうやって条件をつけて、自分で自分を追い詰めたり、他人を妨げたりしているのは、私たちなんじゃないでしょうか。

改めて、神の国にふさわしい人なんていないということを、心に留めたいと思います。

神様の前では、どんな人も、無力な子ども。

でも、それでいい。

神様は、そのままで受け入れてくださっている。

そのことを忘れないでいたいと思います。

そして、同じように、神に受け入れられている子どもとして、互いを受け入れ合う者となっていきたいと思います。

ついつい私たちは、人と比べて落ち込んだり、人と比べて高ぶったりしてしまいます。

そして、それが壁となって、人を妨げたり、妨げられたりしてしまうわけですけれども、

神様の前に、そんな壁はないことを、覚えたいと思います。

年齢が違っても、立場が違っても、みんな同じ、神様の子どもである。

神様によって愛され、受け入れられている一人一人である。

その信仰に立って、共に歩む者となっていきましょう。

お祈りします。

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