聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書17章20節〜21節。
新共同訳新約聖書143ページです。
17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。
17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
「神の国はあなたがたの間にある」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
皆さん、おはようございます。
今日も、まず子どもメッセージからさせていただきたいと思いますが、今日は、終末について話したいと思います。
「しゅうまつ」と言っても、一週間の終わりのことではありません。
説教で、私の土日の予定について話してもしょうがありませんので、その週末ではなくて、今日考えたい終末っていうのは、この世の終わりのことです。
聖書を読んでみると、この世界には終わりがあるってことが書かれています。
ちょっと怖いですよね。
この世界には終わりがある。
でも、ただ終わるわけじゃありません。
この世界が終わって、新しく、神様の世界、神の国がくるってことが書かれているんです。
聖書に出てくる人たちは、この神の国を待っていました。
いつくるかいつくるかって、待っていたんです。
私も、中学生の頃、テスト期間が近づいてくると、神の国来ないかなって思っていました。
どうせ、いつか神の国が来るなら、テスト期間に来てほしい。
そしたら、テストがなくなるから、くるなら、テスト期間にしてって、思っていました。
そうやって私は、辛いこと、嫌なことから逃げたいと思って、神の国が来てほしいなんて、都合よく思っていたわけです。
でも、聖書を読むと、神の国っていうのは、辛い現実から逃げるための道具ではなくて、辛い現実を生き抜いていくための希望として、語られていることが多いことがわかります。
たとえば、「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20)
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(ルカ18:16)
このように、貧しい人や弱い人、小さい人、そういう人たちに、イエス様は、神の国はあなたたちのものだって、語りました。
それは、「神様は、あなたたちのことを見捨ててないよ。
今は苦しいかもしれないけど、いつかその苦労が報われる日が来る。
だから、信じて生きていってほしい」って、そういうメッセージでした。
そして、イエス様は、彼らのために、働かれました。
「神様は、あなたたちのことを見捨ててない」って、口で言うだけじゃなくて、行動で、そのことを示していかれた。
病気の人を癒したり、貧しい人たちに食べ物を分けたり、罪人って呼ばれて、みんなから避けられていた人たちと一緒に食事をしたり、そうやって、困っている人たちや苦労している人たちと共に生きられた。
これが神の国だって、伝えていかれた。
このメッセージを、私たちも、覚えておきたいと思います。
辛いことがあった時、苦しいことがあった時、いつかその苦労が報われる日が来る。
神様は決して、私を、見捨ててないって、そう信じて、生きていく人になってほしいと思います。
お祈りします。
・
今日の聖書の箇所は、「神の国はいつ来るのか」というファリサイ派の問いかけから始まります。
この問いは、当時、多くのユダヤ人が持っていた問いでした。
なぜかというと、それは、神の国とかけ離れた現実があったからです。
当時、ユダヤの民を支配していたのはローマ帝国でした。
神の民であるはずの自分たちが、なぜ、ローマに支配されなければならないのか。
いつ、その支配が終わり、神の支配される世界がもたらされるのか。
ユダヤ人なら、当然持っている問いでした。
特に、その問いは、社会の中で、不条理な目にあわされている人々ほど、強く、切実なものだったでしょう。
神様がいるのなら、なぜ、こんな目に遭わなければならないのか。
なぜ、神様は、こんなことをお許しになるのか。
いつまで、こんなことが続くのか。
このような問いは、私たちの中にも、あると思います。
毎年起こる自然災害。
それによって、大切な人を失った人たちの姿を見ると、神様がいるのなら、なぜこんなことが起こるのかと、思わずにいられなくなります。
終わらない戦争や紛争もそうです。
いつになったら終わるのか。
なぜ、こんなことが続いているのかと、思わされます。
祈りの言葉が虚しく響く。そんな日々が続いています。
それぞれの生きる現実においても、大なり小なり、そんなことがあると思います。
神様がいるのなら、なぜ、こんなことが起こるのか。
なぜ、神様は、何もしてくださらないのか。
神不在とも思える、そんな現実に置かれている人々にとって、「神の国がいつ来るのか」という問いは、切実なものです。
・
この問いに対して、イエス様は、どのようにお答えになったか。
それが、今日の箇所のポイントであると思いますが、イエス様は、次のようにお答えになりました。
20節~21節
イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
まず、イエス様は、「神の国は、見える形では来ない」と言われました。
「見える形」というのは、「観察できるような仕方で」ということだそうです。
当時の学者たちは、天体の変動や異常気象などの中に、神の国のしるしを見ようとしていました。
それは、神の国が、そのようなしるしを伴って、到来すると思われていたからです。
実はこれは、イエス様ご自身もおっしゃっていることでありまして、
ルカによる福音書21章を見てみますと、人の子が現れる時に、太陽と月と星に徴が現れる。
地上では、海がどよめき荒れ狂うって、おっしゃっています。
それなのに、今日の箇所では、「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。」と言われ、天体の変動や異常気象などの中に、神の国のしるしを見つけようとする、そのような営みを、否定されているわけです。
一体どういうことでしょうか。
大事なのは、この後にあります。
イエス様は、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」とおっしゃいます。
「神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
ここで注目したいのが、「間」という言葉です。
ここで「間」と訳されている言葉は、ギリシャ語でエントスという言葉ですが、これは「手の届く範囲」を指す言葉だそうです。
手の届く範囲、つまり、私たちのごく身近なところにあるということです。
神の国というのは、どこか遠くにあるのではなく、私たちの生きる現実の只中にあるということです。
神の国はいつ来るのかという問いに対して、イエス様は、もうあるじゃないか。
あなた方の手の届く範囲、ごく身近なところにあるじゃないかと、そう言われているわけです。
これは、神の国はまだ来ていないと思っている人たちにとって、非常に驚く答えであります。
神の国は、もうあるじゃないか。
あなた方の手の届く範囲に、あるじゃないか。
・
このことを考える上で、非常に大事な言葉があります。
すでに、私たち、この礼拝の中で読んできている言葉でもありますが、ルカによる福音書11章20節の言葉です。
これは、悪霊を追い出しているイエス様が、言われた言葉ですが、11章20節。
「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
今日の箇所で、イエス様がおっしゃっているのも、そういうことなのではないでしょうか。
悪霊に苦しむ人が解放されたり、病が癒やされたり、罪人が食卓に招かれたり、貧しい人たちがお腹いっぱい食べられたり。
イエス様の歩みの中で、もたらされてきたその現実。
そこにすでに神の国は実現しているじゃないかと、そうイエス様はおっしゃっているのではないでしょうか。
そういう現実、手の届く範囲にある現実を見ようともせずに、空ばっかり眺めても、神の国はわからないと、そう言いたいのではないでしょうか。
このイエス様の言葉を聞いて、ファリサイ派の人たちは、どう思ったでしょうか。
彼らが思い描く、神の国のしるし。
太陽と月と星に現れるしるし。
海がどよめき荒れ狂うしるし。
そういう非日常的なしるしに比べると、イエス様が言われたしるしは、すごくちっぽけなものに思えたかもしれません。
ローマ帝国からの解放という、彼らの悲願から比べると、あまりにもスケールの小さいものに思えたかもしれない。
でも、そういう身近な出来事。
手の届く範囲にある出来事の中に、すでに、神の国は実現している。
そうイエス様は言われるのです。
もちろん、それは、神の国の完成ではないでしょう。
ローマ帝国による支配、すなわち人間による支配によってもたらされている現実。
戦争、暴力、搾取、差別、そういった人間の罪によってもたらされる現実は、やがて滅ぼされる。
そして、神の国、神の支配が完成される日が来る。
それは、私たちが生きている世界とは違う、全く新しい世界だと、聖書は語っています。
でも、それは、イエス様がこの世に来られた時から、すでに始まっている。
神の国は、イエス様の到来と共に、始まっているのだということです。
そしてそれは、私たちの手の届く範囲、身近なところにあるのだということです。
この身近なところで実現している神の国を、ちゃんと見るようにと、イエス様はおっしゃっているのです。
・
大事なのは、非日常を夢見て、現実逃避することではありません。
イエス様の言葉と働きによって示される世界を見つめつつ、手の届く範囲のこと、日常を大事に生きよと、招かれているのだと思うのです。
確かに、この世界を見渡すと、神不在と思えるような現実が広がっています。
神様がいるのなら、なんでこんなことが起こるのか。
そう思えるような出来事が、毎日のように起こっています。
私たちの目は、そのような現実に奪われやすいものです。
そして、そのような現実に対して、何もできない自分を無力だと思ったり、できることさえ諦めたりしてしまう私たちが、いるんじゃないでしょうか。
確かに、今すぐ戦争を止める力はありません。
でも、身近な人との関わりを、大切にすることはできます。
家族を大切にするとか、日頃簡単に通り過ぎてしまっている些細な出会いを大切にするとか、そういうことはできます。
イエス様に導かれながら、手の届く範囲で、自分にできることをしていく。
隣人を愛する、壁を越えて出会っていく、違う価値観・考えの人と共に生きる。
そういう手の届く範囲の中に、小さい神の国を見出していくことはできるのだと、イエス様は、教えてくださっているのだと思います。
・
結論として、イエス様は、神の国がいつ来るのかという問いに、お答えになりませんでした。
でも、いつか来るということは語られました。
裏を返せば、いつ来ても良いように、今を、大事に生きよということではないでしょうか。
イエス様によって示される世界を見つめつつ、手の届く範囲のこと、日常、そして今を、大事に生きる。
神の国は、辛い現実から逃げるための道具ではなくて、辛い現実を生き抜いていくための希望です。
そして、その希望は、私たちの手の届く範囲にある。
そのことを信じて、手の届く範囲のことを大事に、今を生きていきたいと思います。
お祈りします。