聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、コリントの信徒への手紙一9章19節〜23節。
新共同訳新約聖書311ページです。
9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
「共に福音にあずかる」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
皆さんは、人とコミュニケーションをとることに、悩んだことがあるでしょうか。
伝えたいことがあるんだけどうまく話せない、話しているのにうまく伝わらない、そんな経験がないでしょうか。
私は、日々、そのことに悩んでいます。
特に、私は、こうやって、みんなのまで話すのが一番苦手です。
まず、すごく緊張しますし、それに、なんかこう間違ったことを言っちゃいけないような、この雰囲気が、一番苦手で、いっつも、悩んでいます。
それから、会議の時の話しも苦手です。
今日も、礼拝の後で、総会がありますけれども、そういう場所では、とっても緊張してしまって、思うように話せなくなってしまいます。
言いたいことがあるのに、何も言えずに終わってしまうってことも、たくさんあります。
じゃあ、リラックスして話せる時は、うまく話せるかというと、そうでもありません。
そういう時はそういう時で、ついつい言わなくても良いことまで言ってしまうことがあります。
誰かが失敗した時に、「だから言ったのに…」って言ってしまったり、一生懸命頑張っている人に対して「何でそんなこともできないの…」って言って、傷つけてしまったり。
そんな時は、何であんなこといっちゃたんだろうって、とても後悔します。
そんなふうに、言葉っていうのは、とても難しい。
伝え方一つで、相手を傷つけたり、嫌な気持ちにさせてしまうことがあります。
きっと、皆さんも、思うように伝えられず、後悔したこと、こんなはずじゃなかったのにって思ったこと、あるんじゃないでしょうか。
実は、今日の主役であるパウロさんも、伝え方に失敗したことがありました。
パウロさんと言えば、イエス様のことを、たくさんの人たちに伝えて、たくさんの教会をつくっていった人ですけれども、そんなパウロさんも、伝えることに失敗した経験があるんです。
どんなふうに失敗したか。
失敗した原因の一つは、パウロさんの生い立ちにありました。
そもそもパウロさんは、幼い頃からエリートとして育ちました。
身分の高い家に生まれて、勉強もよくできたし、成績も優秀だった。
そんなパウロさんは、イエス様を伝える時も、どこか持っている知識とか、身分とかを使って、力づくで教えようとした。
たとえるならば、東大出身の人がですね「私は東大出身で、成績も優秀。
だから、私の言うことは真実です。
皆さんの知らないことを教えてあげましょう!」って、極端にいうと、そんなふうに、伝えていったわけです。
そしたら、どうなるでしょうか。
東大のことを知っている人たちは、すごいねって聞いてくれるかもしれない。
でも、そんなこと、全然知らない人たちは、どうでしょうか。聞いてくれないよね。
実際、パウロさんと同じユダヤ人の中には、パウロさんの言葉を聞いて、イエス様を信じる人たちもいました。
でも、そんなこと全然知らない外国の人たちには、通用しなかったんです。
話しても、全然伝わらない。聞いても、もらえない。
それでパウロさん、自信を失いました。
伝えることが怖いって思うほど、自信を失ってしまった。
もはや、力強く語ることができなくなってしまった。
でも、実はこれが、良かったんです。
パウロさんは、一方的に伝えるスタイル、「俺の話を聞け」ってスタイルから、「あなたはどう思う」って、相手と一緒に考えるスタイルに変わっていきました。
自分の考えを押し付けるんじゃなくて、相手の意見にも耳を傾けるようになっていった。
すると、今まで聴いてくれなかった人たちが、足を止めるようになり、伝えられなかった言葉が、伝わるようになっていったんです。
このことから、教えられるのは、自分の考えを押し付けているだけじゃ、伝わらないってことです。
「論破する」なんて言葉、皆さんも、聞いたことがあるかもしれません。
相手を、力づくで説き伏せる。
それは、語っている方からすると、気持ちの良いことかもしれませんが、しかし、それじゃあ何にも伝わらないってことです。
相手の意見も聞きながら、一緒に考えていく。一緒に聴いていく。
そうやって、心を合わせていくことが大事なんだ。
今日は、そのことを、心に覚えたいと思います。
お祈りします。
・伝える
今日のテーマは、「伝える」というこというです。
これは、クリスチャンかどうかに関わらず、全ての人に関わる、普遍的なテーマだと思います。
私たちは、関係の中で生きています。
家族、友人、学校、会社、地域、そういうつながりの中で生きています。
そうである以上、コミュニケーションは、避けて通れません。
どうしたら、自分の想いや考えを、相手に伝えることができるか。
これは、私たちが生きていくために、避けては通れないテーマだと思いますが、とりわけ、教会にとっては、欠かすことのできないなテーマです。
なぜなら教会は、福音を「伝える」ということを使命としているからです。
2000年以上もの長い間、教会は、絶えず、福音を伝えてきました。
伝えるということに、チャレンジし続けてきました。
もちろん、大分教会もそうです。
大分教会のミッションステートメントの中にも、「宣べ伝えます」という項目があります。
そこには、こう宣言されています。
宣べ伝えます:主の福音を聞いて私たちに喜びと平安が与えられたように、私たちもこの救いの知らせをすべての人に伝えます。
「すべての人に伝えます」って、すごい宣言だなと思いますけれども、それだけ「伝える」ということを大事にしているということです。
そんなふうに、特に教会にとって、「伝える」というテーマは、欠かすことのできない中心的なテーマです。
今日は、その大事なテーマについて、パウロを通して、考えてみたいと思います。
パウロといえば、キリスト教の歴史の中でも、最も偉大な福音宣教者の一人だと思いますが、一体どうやって福音を伝えていったのか。
伝える上で、パウロは、何を大事にしていたのか。
そのことを、ご一緒に、聞いていきたいと思います。
・なぜ伝える?
最初に、短く、動機の部分から、話したいと思います。
パウロがなぜ、福音を伝える者になっていったのか。
それは、パウロ自身が、福音によって救われるという経験をしたからです。
ご存知のように、もともとパウロは、イエス様を信じる人たちを迫害する側の人間でした。
使徒言行録の9章に、パウロの回心の場面が記されていますが、そこにもパウロが、「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいた」と書いてあります。
そんなパウロでしたが、イエス様と出会って、180度人生を変えられていきました。
迫害者だったパウロが、イエス様の福音を伝える者になっていった。
それだけ、イエス様との出会い、そしてそこで示されていった福音は、パウロにとって、大きなものだったわけです。
イエス様の福音には、人を救う力がある。人を解放する力がある。人を生かす力がある。
そう確信して、パウロは、福音を伝えていきました。
今日の箇所にも書かれていますが、一人でも救われて欲しい、福音によって解放されてほしい、そう思いながら、パウロは、福音を伝えていきました。
・失敗
しかし、先ほども言ったように、パウロは、失敗してしまうわけです。
どこで失敗したかと言いますと、それは、第二回伝道旅行の終わり頃、アテネでの宣教においてでした。
パウロは、そこでも大胆に、イエス様のことを伝えたわけですが、結果は散々だったようで、失意のうちに彼は、その場を立ち去っていきました。
そして、やってきたのが、コリントだったわけです。
コリントに来た頃の状況について、パウロは、「衰弱し、恐れに取りつかれ、ひどく不安だった」と書いています。
あのパウロも、語ることが怖いと、そう思うことがあったんだということに、驚きますけれども、それぐらい大きな挫折を経験したわけです。
・挫折からの転換
でも、この挫折が、パウロを変えていきました。
それまでパウロは、幼い頃から培ってきた学識や教養、時には自分の出自すらも駆使して、説得しようと努めてきました。
この説得するとか、教える、上意下達的なやり方は、パウロ自身が受けてきた仕方だったのだと思います。
家父長制の中で、親が子を教える、親の言うことに子が従う。
それは、伝統的なユダヤのあり方だったのだと思います。
旧約聖書の伝統においても、預言者は、一方的に語ることが多いです。
相手が聞こうが聞くまいが構わないということさえある。
パウロ自身、そういう伝統の中で育ってきたので、教えるとか、説得するという姿勢は、ごく自然なことだったのだと思います。
でも、その方法が通用しないわけです。説得どころか、真剣に聞いてすらもらえない。
ある者は嘲笑い、ある者は無関心に、通り過ぎていきました。
パウロは自信を失いました。言葉の力も、失いました。
でも、この力を失うということが、大事だったんです。
それまでは、力によって、説得しようと努めてきたパウロですが、共感・共有のあり方へと変えられていきました。
一方的に語るのではなく、出会う人々の声を聞き、学んでいくようになりました。
一方的に変更を迫るのではなく、パウロ自身が、出会いの中で、変えられていきました。
それが、まさに今日の箇所で言われている、「奴隷になる」ということだったのだと思います。
続く箇所でパウロは、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになった」と書いています。
「律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになった。」
「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになった。」
「弱い人に対しては、弱い人のようになった。」
「すべての人に対してすべてのものになった。」
なんだか変わり身の術みたいに、まるでパウロが、相手に合わせて、キャラクターを変えっていったかのような、そんな書き方ですが、でも、パウロは、そんな器用な人間じゃなかったと思います。
パウロが意図的に変わっていったというよりも、むしろ、出会いの中で変えられていったということだと思うのです。
語ることに怖さを覚え、力強く語れなくなったパウロは、そうなることを通して、人の言葉に耳を傾けるようになっていった。
一方通行ではなく、双方向のやり取りが始まっていった。
そうやってやり取りをしていくうちに、自然と壁が取り払われ、心が通うようになっていった。
それが、「すべての人に対してすべてのものになった」ということだったんだろうと思うのです。
この転換が、パウロの宣教を、前進させていった要因だったのではないか。
福音を知っている者が、知らない者に対して、上から下へ、教えてあげるではなくて、一緒に考え、一緒に探し、一緒に見つけるようになっていった。
まさに「福音に共にあずかる」者へと、変えられていった。
これが、パウロの宣教を大きく前進させていったのです。
・出会いの中で変えられる
振り返ってみると、似たようなことが、私にもありました。
私自身、様々な出会いの中で、自分の考えや伝え方が問われたり、変えられるという経験をしてきました。
たとえば、子どもたちとの出会いもそうです。
子どもたちと一緒に礼拝することを通して、言葉が変えられたり、伝え方が変えられてきました。
子どもたちを通して、み言葉に開かれるということもありました。
最近でいうと、外国人の方々との出会いもそうです。
言葉が違う、持っている文化が違う、そういう方々に、どうしたらメッセージが伝えられるか。
問われていく中で、伝え方が変えられるということがありました。
そのように、一方的に語っても伝わらない、届かない。
どうやったら伝わるだろうか。
その試行錯誤の中で、自分自身が変えられるという経験を、時々に、与えられてきたように思います。
パウロは、その営みの大切さを、今日、私たちに、語っているのではないでしょうか。
・共に福音にあずかる
一方的に福音を伝えるというのではなく、一緒に考え、一緒に探し、一緒に見つけていく。
相手に伝えるだけでなく、自分も、共に、福音にあずかる者となっていくんだと、そうパウロは、語っています。
もちろん、パウロは福音を知っている者でした。
すでに、福音にあずかっている者でした。
でも、出会う人々と、双方向のやり取りをする中で、時に、相手の言葉によって教えられたり、救われたりする瞬間があったのだと思います。
伝える側、伝えられる側の壁が、いつの間にか取り払われ、共感・共有の喜びへと導かれていったのです。
これも、なんかすごいよくわかるなと思います。
私自身、こうして、毎週メッセージさせていただいていますが、時々、応答をいただくことがありまして、
今日のメッセージは面白かったとか、わかったとか、そういう言葉で、こちらが慰められたり、励まされたりすることが、多々あります。
毎週水曜日の祈祷会に、伊東さんがきてくださるんですが、伊東さんに「わかる」って言われると、とっても嬉しくなります。
もちろん、伊東さんだけじゃないですけれども、そうやって一緒に感動したり、共有したりできた瞬間が、私にとっては、一番嬉しい瞬間で、元気が湧いてきます。
そういう、共感共有の営みへと、今日、パウロは、私たちを、招いているのではないでしょうか。
一方的に伝える、「押し付け」的伝え方から、双方向のやり取りを通して生み出される「共感共有」へ。
挫折によって、力を失うことを通して、パウロは開かれていきました。
このことが、パウロの宣教を、大きく前進させていったということを、心に留めたいと思います。
力づくで伝わらない。
伝えたいと思えば思うほど、むしろ、力を抜いて、相手の言葉に耳を傾ける。
そして、一緒に考え、一緒に見つけていく。共にあずかっていく。共感し、共有するということを大事にしていく。
そこに、伝わる喜び、宣教の喜びがあるのだと思います。
この営みを、大切にしていきたいと思います。
お祈りします。