聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書2章6節〜7節。
新共同訳新約聖書102ページ〜103ページです。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
「弱さが開く扉」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・導入:『てぶくろ』が教えるもの
クリスマスおめでとうございます。
今日はようこそ、大分教会のクリスマスキャンドル礼拝にお越しくださいました。
心から歓迎いたします。
このキャンドル礼拝では、毎年、絵本を用いて、聖書に語られていますクリスマスの出来事を覚えておりますが、今日は、もう一冊、絵本を読みたいと思います。
1、「てぶくろ」という絵本です。
ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
これは、ウクライナの民話をもとに作られた絵本です。
1965年に発売されて以来、今も、愛されている絵本です。
「てぶくろ」
2、おじいさんが、森を歩いていきました。
こいぬが後からついていきました。
おじいさんは、歩いているうちに、てぶくろを片方落として、そのまま行ってしまいました。
3、すると、ネズミがかけてきて、てぶくろにもぐり込んで言いました。
「ここで暮らすことにするわ」
そこへ、カエルが、ぴょんぴょん跳ねてきました。
「誰、手袋に住んでいるのは?」
「食いしんぼネズミ。あなたは?」
「ぴょんぴょんガエルよ。わたしもいれて」
「どうぞ」
4、ほら、もう二匹になりました。
うさぎが走ってきました。
「誰だい、てぶくろにすんでいるのは?」
「食いしんぼネズミと、ぴょんぴょんガエル。あなたは?」
「はやあしうさぎ。ぼくもいれてよ」
「どうぞ」
5、もう三匹になりました。
狐がやってきました。
「どなた、てぶくろに住んでいるのは?」
「食いしんぼネズミと、ぴょんぴょんガエルと、はやあしうさぎ。あなたは?」
「おしゃれぎつねよ。わたしもいれて」
6、もうこれで、四匹になりました。
おや、オオカミがやってきました。
「だれだ、てぶくろに住んでいるのは?」
「食いしんぼネズミと、ぴょんぴょんガエルと、はやあしうさぎと、おしゃれぎつね。あなたは?」
「はいいろオオカミだ。俺もいれてくれ」
「まあ、いいでしょう」
7、もうこれで、五匹になりました。
いのししがやってきました。
「ふるん、ふるん、ふるん。
だれだね、てぶくろに住んでいるのは?」
「食いしんぼネズミと、ぴょんぴょんガエルと、はやあしうさぎと、おしゃれぎつねと、はいいろオオカミ。あなたは?」
「きばもちいのししだよ。わたしもいれてくれ」
さあ、こまりました。「ちょっとむりじゃないですか」
「いや、どうしても入ってみせる」
「それじゃ、どうぞ」
8、もうこれで六匹です。
てぶくろは、ぎゅうぎゅうづめです。
そのとき、木の枝がパキパキ折れる音がして、くまがやってきました。
「だれだ、てぶくろにすんでいるのは?」
「食いしんぼネズミと、ぴょんぴょんガエルと、はやあしうさぎと、おしゃれぎつねと、はいいろオオカミと、きばもちいのしし。あなたは?」
「うおー、うおー。のっそりぐまだ。わしもいれてくれ」
「とんでもない。満員です」
「いや、どうしても入るよ」
「しかたがない。でも、ほんのはじっこにしてくださいよ」
これで七匹になりました。
てぶくろは、いまにもはじけそう。
9、さて、森を歩いていたおじいさんは、てぶくろが片方ないのに気がつきました。
さっそく探しに戻りました。
こいぬが先にかけていきました。
どんどんかけていくと、てぶくろが落ちていました。
てぶくろは、むくむく、動いています。
こいぬは、「わん、わん、わん」とほえたてました。
みんなは、びっくりして、てぶくろからはいだすと、もりのあちこちへ逃げていきました。
そこへ、おじいさんがやってきて、てぶくろをひろいました。
物語の展開に緊張感があって、読んでいてワクワクするような絵本だなと思います。
ちょっと、話を振り返りたいと思います。
最初にてぶくろ見つけたのは小さなねずみでした。
このねずみが、てぶくろに住むというところから、物語が展開していきます。
まず、やってきたのは、カエルでした。
カエルも、中に入りたいと言います。
手袋の中は、ねずみとカエルの二ひきになりましたが、まだ余裕がありそうです。
次にうさぎがやってきます。
すでにこの辺から、若干狭そうな感じがしますが、屋根ができたりして、手袋の家も、少しずつ家らしくなっていきます。
次にやってきたのは、キツネでした。
この辺から、少しずつ緊張感が高まっていきます。
体が大きというのもそうですが、一緒にいて大丈夫なんだろうか?食べられちゃうんじゃないの?という、そんなドキドキ感も、生まれてきます。
キツネの次は、オオカミでした。
わたしは、ここが一番、ドキドキしました。
狭いとかどうとかじゃなくて、そもそも逃げた方がいいんじゃないの?って感じましたけれども、
この辺から、「いいですよ」っていう言葉も、少しずつ重くなっていきます。
オオカミの次はいのししですけれども、いのししには、「ちょっと無理じゃないですか」って言っています。
それでも、どうしても入りたいというので、「それじゃあどうぞ」と、渋々受け入れている感じです。
最後は、クマでしたけれども、クマには「もう満員だ」と言っています。
実際、入れるような、隙間はありません。
というか、若干、破れかかっています。
でも、クマが、どうしても入るというので、彼らは、仕方なく受け入れたと書いています。
私は、この「しかたがない」という言葉を見ながら、ふと、思いました。
「もし、てぶくろを最初に見つけたのが、クマだったら、どうなっていただろうか。
ネズミやカエルは、手袋に入っていただろうか。」
皆さんはどう思うでしょうか。
わたしは、入っていないと思います。
これは、わたしの妄想ですが、そもそも、クマがてぶくろにいたら、きつねも、ウサギも来なかったと思います。
仮に、彼らが、入れてって言っても、クマは断ったんじゃないでしょうか。
ネズミから始まって、クマに至る、この展開は、この順番だからこそ、リアリティーがあるように思うんです。
ネズミとカエルとうさぎがいて、そこに来たのがキツネだったから、オオカミだったから、いのししだったから、クマだったから、だから、みんな受け入れられていったんじゃないか。
受け入れる側の動物たちは、断ることができない、弱い生き物だったから。
だからこそ、受け入れることができたんじゃないかって、そう思うんです。
そして、このことが、イエス様の話とも、重なって感じるんです。
・聖書の物語:宿屋と家畜小屋の対比
先ほど読んでいただきました、聖書の箇所には、イエス様が、お生まれになった時の様子が記されています。
そこには、生まれたばかりのイエス様が、飼い葉桶に寝かされたと書かれています。
飼い葉桶というのは、家畜の餌を入れる桶のことです。
このことから、イエス様がお生まれになった場所は、家畜小屋だったと言われています。
牛とか、ロバとかが、飼われていた。
当然、糞尿とかも、落ちていたと思います。
そういう不衛生な場所で、イエス様はお生まれになった。
なぜ、そんな場所で、生まれなければならなかったのでしょうか。
これについて聖書は、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからだ」と語っています。
きっと、町中の宿屋を、回ったんだと思います。
でも、ことごとく断られてしまった。
宿屋にも都合があったんでしょう。
本当に満員だったということもあったかもしれない。
忙しくて、受け入れる余裕がなかったのかもしれない。
一方、家畜小屋はどうだったでしょうか。
そこには、ロバや牛などの家畜たちがいました。
ちょっと、家畜の気持ちになって、考えてみたいと思います。
自分たちの居場所に、突然、マリアとヨセフがやってきた。
安心して、眠ることもできない。
さぞ、嫌な気持ちになっただろうと思います。
自分たちのスペースを奪われるだけじゃなく、そこで、出産を始めて、飼い葉桶まで取られてしまう。
家畜たちからしたら、迷惑な話です。
でも、彼らは、ダメって言えなかった。
絵本に出てくるネズミやカエルと一緒です。
彼らは、マリアとヨセフを拒めなかった。
でも、だからこそ、家畜小屋は、イエス様誕生の場となれたのです。
・『てぶくろ』と家畜小屋に見る弱さの祝福
弱さが、扉を開いた。
弱かったからこそ、受け入れることができた。
そう教えられているように思います。
ネズミやカエルやうさぎたちは、拒む力のない、弱い動物たちだったからこそ、あんなにたくさんの動物たちを、受け入れることができました。
それと同じように、家畜小屋にいた動物たちも、拒む力を持っていなかった。
だからこそ、救い主、イエス・キリストをお迎えする場所と、なることができたのです。
もし、家畜小屋の動物たちが、宿屋の主人のように拒む力を持っていたなら、
「ここは満員だ」「他をあたってくれ」って言えたとしたら、救い主がその場所に宿ることはなかったでしょう。
拒否できない。
拒む力を持たない。
そういう弱いものたちだっただからこそ、救い主をお迎えするという栄誉に、あずかることができたのです。
・断れなくて良かったこと
実は、私にも、断れないことがあります。
長男の初が、教会に、友達を連れてくることです。
昨日も、連れてきましたし、実は、今日も、連れてきました。
初くんは、いつも、学校から帰ってくると、私に、「今日、教会で遊んでいいですか」って、聞きにきます。
頼んでいるように聞こえますが、もう決定事項で、すでに友達と教会で遊ぶ約束をしてるんですね。
ですから、私がダメと言っても、友達はくるわけです。
しかも、聖書には、子どもたちを拒まず受け入れるイエス様の話とか書いてあるわけですね。
そういう話をしている私がダメって言ったら、教育上良くないと思いまして、いつも、断れず受け入れているんですが、
でも、実は、今日、そのお友達が、キャンドル礼拝に来てくれていまして、本当に、断れなくて良かったなと思っています。
・断れない苦労
仕事でも、断れないことがあります。
教会には、時々、相談に来られる方がいらっしゃったり、相談の電話があったりします。
その対応は、牧師としての大事な働きですので、しないといけないのですが、特に夜中の電話は、とるのがとても怖くなります。
夜中にかかってくる電話で、良い知らせっていうのは、ほとんどありません。
大体が、緊急対応の電話で、誰々が亡くなったっという電話が多いように思います。
でも、もちろん断れませんので、電話に出て、葬儀の準備をしたりするわけですけれども、そんな時には、断れないということの重荷を感じます。
そのように、世の中には、断れないということで、苦労されている人たちが、たくさんいると思います。
病院なんかは、本当に大変だと思います。
先日、あるお医者さんが、自分の勤めている病棟で、コロナ感染があったと、おっしゃっていまして、その時まだ1名だったんですが、今日の時点で12名まで広がっていると、連絡がありました。
早くおさまるように、祈ることしかできませんが、
そうやって、断れないような現場で、苦労されている方というのは、たくさんいらっしゃると思います。
今日、覚えたいのは、そんなお一人お一人にこそ、神様の祝福があるということです。
弱さのゆえに、拒むことができなかった、そんな家畜小屋の動物たちのもとに、救い主がお生まれになったように、
この世の中で、断れずに重荷を負っておられる方々と共に、神様はおられる。
そして、いつか、「断れなかったけれど、それで良かった」と、思える日が来る。
断れない弱さを持っている者だけが、受けられる祝福がある。
そのように、聖書は、語っているのだと思います。
・結論:弱さが扉を開く
クリスマスの出来事は、私たちに、弱いことの尊さと、神様が、そのような一人一人を、祝福してくださることを教えています。
「てぶくろ」に登場した小さいネズミは、その弱さのゆえに、沢山の動物たちを受け入れる、広い器となることができました。
同様に、家畜小屋の動物たちも、拒む力がなかったからこそ、神の救いを迎える場所となることができました。
断る力も拒む力もなく、弱さの中で重荷を背負いながら歩んでおられるお一人お一人へ、
聖書は、その弱さこそが、神の祝福を受ける扉を開くのだと、語りかけています。
クリスマスを祝うこの時、世界中で、重荷を背負って歩んでおられるお一人お一人に、神様からの祝福が豊かに与えられるように、共に、祈りを合わせましょう。
お祈りいたします。