2024年12月22日クリスマス礼拝「不安な時代を、信頼に生きる」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、マタイによる福音書2章1節〜8節。

新共同訳新約聖書2ページです。

2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、

2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者と なるからである。』」

2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。

2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

「不安な時代を、信頼に生きる」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日は、クリスマス礼拝にお越しくださり、ありがとうございます。

いつも通り、最初に子どもメッセージをしたいと思いますが、最初に一つ、聞いてみたいと思います。

クリスマスって、実は、ある人の誕生日なんですが、誰の誕生日か知ってますか。

そう、イエス様の誕生日です。

クリスマスっていうのは、イエス様がお生まれになったことをお祝いする日です。

聖書には、イエス様が生まれたっていうことを聞いて、お祝いに駆けつけた人たちの話が二つ記されています。

今日は、その一つ、東の国の博士たちのお話を、紙芝居で、読んでみたいと思います。

1、「東の国の博士たち」

遠い遠い東の国で、博士たちが、不思議な星を見つけました。

「なんて大きい星だろう。あんなによく光る星は、今まで見たことがない。」

「何か特別なことがあったしるしかもしれないぞ。」

「きっと、新しい王様が生まれたしるしでしょう。さあ、新しい王様を拝みにいきましょう。」

2、東の国の博士たちは、星に導かれるまま、長い長い旅に出かけました。

星は、エルサレムの都で、止まりました。

そこで博士たちは、新しい王様が生まれる場所を聞くために、今の王様のところに行きました。

3、博士たちの話を聞いて、今の王様は、「ベツレヘムに行きなさい。そして、赤ちゃんを見つけたら、私に知らせてほしい。私も拝みに行きたいから」と言いました。

博士たちは、王様の言う通り、ベツレヘムへと出かけていきました。

4、ベツレヘムに近づいた時、再び、星が動き始めます。

星の導くまま、進んでいくと、

5、小さい家がありました。

家の中には、お生まれなったばかりのイエス様。

「本当にお会いできました!

イエス様、ぜひ、私たちのプレゼントを受け取ってください!」

博士たちは喜んで、持ってきたプレゼントをあげました。

イエス様の誕生をお祝いした、博士たちのお話でした。

このお話を読んで、私は、この博士たちのことを、すごいなって思います。

何がすごいか。

星を信じて、出かけて行ったっていうのがすごいなって思います。

博士たちは、星の導きを信じて、長い旅に出ました。

どこに行くのかも、何もわからない。

でも、星が「こっちだよ」って示すのを信じて、一歩一歩進んでいきました。

そして、その信じる心があったからこそ、イエス様に会うことができました。

博士たちのように、私たちも、信じる人になりたいと思います。

信じる心を、大事にしたいと思います。

どこに行けばいいかわからない時、信じる心が、道を開いてくれる。

今日は、そのことを、覚えておきたいと思います。

お祈りします。

・不安を抱いた

改めまして、ようこそ、大分教会のクリスマス礼拝にお越しくださいました。

心から歓迎いたします。

先ほども言いました通り、クリスマスというのは、イエス・キリストの誕生を祝うお祭りです。

大変おめでたい日です。

教会では、この日のために、数ヶ月前から、準備を始めます。

12月は、クリスマス一色で、様々な行事が行われ、今日も、この礼拝の後に、祝会と愛餐会を予定しています。

お時間許される方は、ぜひ、ご一緒に楽しめればと思いますが、そんなふうに、クリスマスは、教会にとって、大変喜ばしい、お祝い日のです。

でも、今日の箇所を読んでみますと、イエス様誕生の知らせを受けたヘロデ王は、不安を抱いたと記されています。

救い主がお生まれになったという知らせを受けて、不安になった。

今日は、この不安に注目したいと思います。

ヘロデはなぜ不安になったのか。

そして彼は、その不安に、どうやって向き合っていったのか。

そのことをご一緒に読みながら、私たちは、不安に対して、どう向き合っていったら良いかを、聖書の言葉から、考えていきたいと思います。

・ヘロデはなぜ不安になったのか。

まず、ヘロデは、なぜ不安になったのか、ということですけれども、それを考える前に、そもそもヘロデとは一体何者かということについて、話したいと思います。

今日の箇所を見てみますと、ヘロデは、王と、呼ばれていますが、正確には、当時、ユダヤを支配していた、ローマの信任を受けて、ユダヤの統治を任されていた人物です。

政治家としては、非常に優秀な人物だったようで、多くの偉業を成し遂げています。

有名なもので言えば、エルサレム神殿の改築、現在は嘆きの壁と言われる西側の壁しか残っていませんが、それもヘロデが作ったものですし、カイサリアという港を開港したのもヘロデです。

おかげでカイサリアは、商業の一大中心地として発展し、ユダヤ経済を潤しました。

無類の建築好きだったヘロデは、他にも、宮殿や要塞、競技場、野外劇場など、様々な建物をつくりましたが、その一つ一つがとても美しく「ヘロデの建物を見ないものは、美しさを見ないものだ」という言葉が残っているほど、彼のつくったものは高く評価されました。

もちろん好きだから建てたというだけではありません。

建築物というのは、支配力を示す一つのステータスでした。

ヘロデは、自らの力を示すために、それらのものを建てていったのです。

彼は、イドマヤ人と言って、パレスチナの南部地方に生まれましたので、ローマ人でも、ユダヤ人でもありませんでした。

そんな彼が、ここまでの力を持つためには、大変な努力が必要でした。

一方では、ローマ皇帝をヨイショして、他方ではユダヤ人のご機嫌も取らないといけない。

先程カイサリアという港の名前を言いましたけれども、それは、ローマ皇帝カエサルの名にちなんでつけられた名前です。

宮殿や競技場、劇場などをつくったのも、ギリシャ・ローマ文化を広めるためでした。

そのようにしてローマからの評価を勝ち取りながら、ユダヤ人たちに対しては、エルサレム神殿をつくったり、税金を三分の一にしたり、ユダヤで大飢饉が起こったときには、自腹で大量の穀物をエジプトから買い集め、民衆に配ったりしながら、支持を集めていきました。

ユダヤ人でないというハンディキャップを埋めるために、ユダヤの名家であったハスモン家の娘を嫁に迎えるなんてこともしています。

そうやって彼は、王と呼ばれるまでの地位を獲得していったわけですが、しかし同時に彼は、その地位に心を囚われていきました。

彼は、築き上げた地位を守るために、多くの人々を処刑しました。

自分の地位を脅かす可能性があるならば、たとえそれが家族であったとしても、処刑していきました。

姑、妻、そして、実の息子でさえも、手にかけたと言われています。

晩年、彼の呼び名は「殺意に満ちた老人」だったそうです。

頑張って、頑張って、やっとの思いで掴んだ王という地位、富、権力。誰にも渡したくない。

その異常なまでの執着心と、人を疑う心で、彼の心は、いっぱいでした。

そんなヘロデに、イエス様誕生の知らせが届くわけです。

しかもその知らせは、「ユダヤ人の王が生まれた」と言って届けられました。

喜べるはずがありません。

「ユダヤ人の王は、俺一人のはず。

ユダヤ人の王が生まれたなんて、そいつは、一体、どこの誰なんだ。」

そうやって、ヘロデは、不安になったのです。

・不安にどう向き合ったか。

この不安に、ヘロデは、どう向き合ったでしょうか。

4節「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした」と記されています。

メシア、救い主は、どこに生まれることになっているのか、そのことを、調べ始めました。

そして、どうやらベツレヘムで生まれることになっているということがわかると、博士たちを呼び出し、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言いました。

もちろん、それは、嘘です。

拝むつもりなんて、ありません。

見つけ次第、捕えて、亡き者にしようと考えていました。

つまりヘロデは、不安を払拭するために、不安要素を消していく方法を選んでいったということです。

彼は、いつもそうでした。

不安をもたらすものを、徹底的に排除することで、平安を得ようとしました。

しかし、その方法で、彼は、平安を得ることができたでしょうか。

一つの不安を消しても、また新たな不安が湧き上がる。

彼は生涯、疑いの心に取り憑かれながら、孤独と恐れの中で、その生涯を閉じることになります。

・不安を消すことは、できない

不安に対して、どう向き合うべきかを、問われます。

ヘロデのような極端なやり方は論外ですが、不安材料をなくしていく、リスクを管理していくということは、私たちもしていることです。

たとえば、災害に備えて、保険に入っておくとか、大病を患わないように、健康診断を受けるとか、緊急事態に備えて、お金を貯めておくなんていうのも、不安に対する健全な対処方法だと思います。

ただ、人間にできることには、限界があります。

全ての不安要素をなくすことなど、できません。

ヘロデを通して教えられるのは、どんなに強大な力をもってしても、不安を消し尽くすことはできないということです。

不安を無くそうと思えば思うほど、人間は強引になり、暴力的になり、悲劇的な結果をもたらしてしまう。

そして、不安はより一層深く、人々の心に取り憑いていくのだと、教えられます。

では、どうしたら良いのでしょうか。

不安に対して、私たちは、どう向き合い、生きていったら良いのでしょうか。

そのことを考える時、救い主誕生の知らせを届けた、博士たちの行動に、そのヒントがあるように思います。

・博士たちの行動=信頼

博士たちの行動から見えてくるもの、それは、信頼です。

星の導きを信じて、エルサレムまでやってくる。

ヘロデの言葉を聞いて、ベツレヘムへと、出かけて行く。

今日の箇所の少し先ですが、12節には、夢のお告げを受けて、別の道を通って、帰って行ったと記されています。

そのように、彼らは、先の見えない道のりを、いつも、信頼をもって行動していきました。

このような、博士たちの生き方を、皆さんは、どう思うでしょうか。

信じすぎだと、思うでしょうか。

もっと、慎重に、疑い深くあるべきだと思うでしょうか。

確かに、彼らの行動には、危うさもあるかもしれません。

でも、彼らの姿を通して、信頼する心を失ってはならないと、呼びかけられているように感じます。

・不安な時代を、信頼に生きる

最近は、誰の言葉を信じていいか、なんの情報を信じていいか、よくわからない時代です。

非常に痛ましい事件、それも、何でそんなことをしたのか、理解できないような恐ろしい事件も起こっています。

災害もいつ起こるかわかりません。

能登半島で起こった地震から、もう直ぐ1年になりますが、いつまた、大きな地震が起こるかもわからない。

そんなことを考えると、本当に不安になります。

戦争も終わらないし、私たちの生活も、よくなる見通しは、なかなかたちません。

そんな先の見えない人生、石橋を叩いて渡るように、注意深く、慎重に、歩んでいかなければならないと、と思います。

こっちの道はどうだ、こっちは大丈夫か。

あの人は信用できるか、この人はやめたほうがいいか。

そうやって、疑いの心を持って、慎重に歩いていかないと躓いてしまう。騙されてしまう。

そんな時代を、私たちは、生きているのかもしれません。

でも、そんな私たちに、今日、聖書は、信頼することの大切さを教えているように思います。

ヘロデのように、疑り深く、不安を排除していくような生き方では、平安を得ることはできない。

不安を無くそうと思えば思うほど、人間は強引になり、暴力的になり、悲劇的な結果をもたらしてしまう。

そして、不安はより一層深く、私たちの心を支配していく。

博士たちを見なさい。

先の見えない道のりを、信頼を持って、歩んで行った彼らの姿を。

信頼こそ、私たちの歩みを導く杖であり、弱い私たちを支える力になるんだと、そんなふうに呼びかけられているように感じます。

私が大切にしている言葉の中に、「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」という言葉があります。

これは、アフガニスタンで医師として活躍された、中村哲さんの言葉です。

もう5年が経ちますが、2019年12月4日、哲さんは、凶弾に倒れました。

追悼集会の中で、生前の哲さんの映像が流されましたが、その中で、哲さんは、次のように言っておられました。

「いろんな人に裏切られたり、盗まれたり、いろんなことがあった。

でも、人の中にある真心というのは、信頼に足るものだと思う。

それは、誰の中にもある。

たとえ、殺人を犯す人であったとしても、その人の中にもあるように思う。

逆に、どんな善人であっても、影は必ずある。

それをひっくるめても、人間というのは、愛するに足るものだ。

真心というのは、信ずるに足るものだ」と、そうおっしゃっていました。

疑心暗鬼に陥りやすいこの時代を生きて行く上で、忘れてはならない言葉だと思います。

信頼がなければ、人との関係を築いていくことはできません。

信頼がなければ、私たちは孤立し、不安や恐れに支配されてしまいます。

たしかに、信頼にはリスクが伴います。

信頼した結果、裏切られることや、傷つくこともあるかもしれません。

しかし、それでもなお、信頼しなければ得られないものがあります。

それは、平安であり、希望であり、愛です。

博士たちは、先の見えない道のりを、星の導きを信じて歩みました。

その先に待っていたものは、救い主イエス・キリストとの出会いでした。

彼らの信頼は無駄にはなりませんでした。

それどころか、その信頼によって、彼らの人生は大きく祝福されたものとなりました。

私たちも、信頼を持って、歩み出したいと思います。

神様は、その歩みを、きっと祝福してくださる。

そう信じて、神を信じ、人を信じて、今日、またここから、新しく歩み出していきましょう。

お祈りします。

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