聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、マタイによる福音書1章22節〜25節。
新共同訳新約聖書2ページです。
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
「あなたは決してひとりじゃない」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
みんなは、夜寝ている時に、夢を見たことがあるでしょうか?
どんな夢を見たことがありますか?
今日の主人公であるヨセフさんも、夢を見たそうです。
しかもその夢は、ヨセフさんの人生を、大きく変えてしまうほど、すごい夢でした。
実は、ヨセフさん、この時、すごく悩んでいました。
何を悩んでいたかというと、結婚相手のマリアさんのお腹に、赤ちゃんができちゃった。
しかもその赤ちゃんね、ヨセフさんの子どもじゃなかったんです。
誰の子かわからない子を、マリアさんは身ごもってしまった。
ヨセフさん、とても悩みました。
「マリアと結婚していいんだろうか。別れるべきだろうか。」
とっても悩みました。
悩んで、悩んで、悩み抜いた末に、別れることを、決心したんです。
そして、眠りにつきました。
すると、ヨセフさん、夢を見たんです。
どんな夢か。
天使が出てきたそうです。
天使が夢の中に出てきて、ヨセフさんに言ったそうです。
「ヨセフ、ヨセフ、何も、恐れることはない。
お腹の子も一緒に、妻マリアを迎え入れなさい。
マリアのお腹の子は、私の子だから。
大丈夫、私が一緒にいるから。」
眠りにつく前、ヨセフさんは、一人で悩んでいました。
「マリアと結婚していいんだろうか。別れるべきだろうか。
結婚するってことは、マリアさんのお腹の子のお父さんになるってことだ。
そんなこと、自分にできるだろうか。
お父さんとして、ちゃんとその子を、育てることができるだろうか。」
一人で悩んでいました。
一人で背負い込んでいました。
そして、「そんなことできない、無理だ」っていって、諦めようとしていたんです。
でも、ヨセフさん、夢を見て気づいたんです。
私には、神様がいる。
私は一人じゃないって、気づいた。
そしたら、ヨセフさん、勇気が湧いてきたんです。
神様がいるなら、なんとかなる。神様が大丈夫って言うんだから、大丈夫だって。
そして、マリアさんと結婚することを決めたんです。
このヨセフさんと一緒にいる神様は、私たちとも一緒にいてくださっています。
目には見えない。声も聞こえません。
でも、いつも、私たちと一緒にいる。
そして、私たちのことを、守ってくださっている。
見えない力によって、いつも、私たちは守られています。
ヨセフさんと同じように、私たちも、決して、一人じゃありません。
今日は、そのことを、一緒に覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・序
先週に続き、イエス・キリスト誕生の次第を読んでいきます。
先週は、妻マリアが聖霊によってみごもったと知らされて、密かに縁を切ろうとした夫ヨセフの話を読みました。
今日の箇所はその続きですが、24節を読んでみますと、そこには、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、妻を迎え入れ」と記されています。
眠る前は、縁を切ろうと決心していたのに、目を覚ました後には、妻マリアを迎え入れることを決心するわけです。
眠る前と後とで、考えが180度変わっていることがわかります。
一体、ヨセフに、何があったのか。
これが、今日のテーマです。
このことについて、ご一緒に考えていきたいと思いますが、
・夢
さて、皆さんは、ヨセフのように、眠る前と後とで、考えが変わったということが、あるでしょうか。
人間の脳は寝ている間に、記憶の整理を行うそうです。
必要のない記憶と、大事な記憶の仕分けをして、必要な記憶は定着させ、そうでない記憶は消去するという、寝ている間に、そういうことが行われているそうです。
ですから、眠ることによって、考えが整理され、迷いがなくなったり、解決策が浮かんだりすることは、本当にあるそうです。
私も、寝ることで、おさまることは、よくあります。
特に怒りですね。
怒りなんかは、寝て起きたら、大体、おさまっていて、ありがたいなと思ったりします。
私の恩師なんかは、説教で困った時には、とにかく寝ろと言っていました。
寝ればなんとかなる。
その言葉を信じて、私も困ったら、とりあえず寝ることにしていますけれども、
そんなふうに、眠るということで、考えが整理されたり、冷静になったりすることは、確かにあるようです。
でも、ヨセフの場合は、そういうことではありませんでした。
マリアを迎え入れるという考えは、ヨセフの中から生まれてきたものではなかったのです。
それは、夢で現れた天使のお告げでした。
・天使の知らせ
天使は、ヨセフに言いました。
「ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」
先週はこれを、一人じゃないという神様からのメッセージとして聞きました。
「マリアのお腹の子は、聖霊によって宿った。つまり、私の子だ。
私が、あなた方と共にいる。
私も、一緒に育てるから、だから、大丈夫。
恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」
そういうメッセージとして聞きました。
このお告げを聞くまで、ヨセフは一人で悩んでいました。
マリアのことも、お腹の子のことも、一人で背負い込んでいました。
そして、その重荷に耐えきれず、離縁する道を選んだのです。
そんなヨセフに、神様は、天使を通して「あなたは決して一人じゃない」と言いたかった。
「私が、あなた方と共にいる。だから大丈夫。」
この言葉を聞いて、ヨセフは、目覚めました。
ヨセフの目覚めは、単なる朝の目覚めではありません。
心の目が開かれる瞬間でした。
自分は決して一人じゃない。人生の重荷を、共に背負ってくださっているお方がいる。
そのことに目覚めたことによって、ヨセフは、マリアとお腹の子を、迎え入れることができたのです。
・知らなかった
この話を黙想している時、私は、創世記に記されています、ヤコブの物語を思い出しました。
ヤコブも、夢によって、「自分は一人じゃない、神が共にいる」ということに、目覚めさせられた人物です。
創世記28章10節~の箇所に、その話が記されています。
かいつまんで話しますと、当時、ヤコブは、逃げていました。
父親を欺いて、兄エサウが受けるはずの祝福を、騙し取ったからです。
怒った兄エサウは、ヤコブの命を狙います。
そのことを知って、ヤコブは、逃げるわけです。
故郷を追われ、帰る場所を失ったヤコブ。
不安と絶望が支配する中、石を枕にして、眠りにつきます。
その夢の中で、神様は、語りかけるわけです。
その言葉が、今日の招詞で読んでいただきましたみ言葉でした。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
眠りから覚めた後、ヤコブは言いました。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
まさか、逃亡中の自分に、神様が伴ってくださっているなんて、思わないわけです。
故郷を追われ、帰る場所を失い、石を枕にして寝なければならない。
そんな自分に、神様が共にいてくださっているなんて、考えもしなかった。
私たちもそうだと思います。
うまくいった時、解決の道が与えられた時、そういう時には、神様いるなと思ったりすることもあるかもしれません。
でも、辛い時とか、落ち込んでいる時には、見えないんです。
神様が見えなくなる。
神様は、一体どこにいるのか。
なぜ、一緒にいてくださらないのか。そんなふうに思ってしまいます。
でも、聖書は語っているわけです。
神様は、良い時だけじゃない。
悪い時、絶望の時にこそ、共にいる。
ヨセフもそうでしたし、ヤコブもそうでした。
インマヌエル、神は我々と共におられる。この真実は、私たちが気づかない時にも、真実である。
そう、聖書は教えているのです。
・あしあと
皆さんは、「あしあと」という詩をご存知でしょうか。
マーガレット・パワーズさんという方が、書いた詩です。
讃美歌にもなっておりまして、新生讃美歌の570番にあります「たとえばわたしが」、鳥栖教会の野中宏樹牧師が作った讃美歌ですが、その讃美歌のもとになった詩でもあります。
ちょっと読んでみたいと思います。
「あしあと」
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
「あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていたんだ。」
人生で一番辛く、悲しい時、足跡は一人分しかなかった。
作者は、一人で歩いているのだと思っていた。
でも、そうじゃなかった。
そのあしあとは、神様の足跡だった。
神様が、苦しんでいた作者を背負って歩く、その足跡だった。
きっと、皆さんの歩みにも、足跡が一つだけだったと感じる時があると思います。
辛い時、苦しい時、私たちの心は、孤独に支配されます。
「誰も私のことをわかってくれない」「私は一人で頑張らなければいけない」そう思い込んでしまうことがあります。
でも、あしあとが一つしかないと思える時、実は私たちは一人ではないのです。
神様が、私たちを抱え、背負いながら歩いていてくださっている。
一人だと感じる時こそ、私たちは、一人ではないのです。
見えていない。あるいは知らないだけで、私たちは、決して一人ではない。
・自分の経験。
先週、メッセージの中で、光さんが福岡で、仲間たちと一緒に、コンサートをすることになったという話をしました。
12月20日、姪浜にあります、スターバックスで、行う予定ですが、
その練習のために、先週礼拝後、光さんは、福岡へ旅立っていきました。
せっかくの機会なので、快く送り出さないとと思っていましたが、内心、私は、不安でした。
仕事が色々残っている。
それなのに、一人で、二人の子どもをみなければならない、そう思っていました。
でも、違いました。
子どもたちは、私の助けなど必要ないくらい成長し、ちゃんと留守番をしていました。
一人で二人をみるのではなく、三人で、留守を守ることができました。
これは、私にとって、目が開かれる経験でした。
神様が、共にいて、私の目を開いてくださったんだと、感じています。
だから、20日も、安心して、光さんを送り出したいと思います。
・結論
一人だ、孤独だ、と感じる時、私たちの目は、閉ざされています。
見えなくなっています。
ヨセフは、見えていませんでした。
全ての重荷を、一人で背負っていると思い込んでいました。
そして、その重荷に、潰されそうになっていました。
でも、天使のお告げを聞いて、自分は一人じゃないということに、目が開かれていきました。
神様が共にいるということに、目覚めさせられていきました。
そして、それが、彼に勇気を与え、妻マリアを迎え入れる決心へと、導いていったのです。
ヨセフの目覚めは、単なる朝の目覚めではなく、心の目が開かれる瞬間でした。
彼は、天使のお告げを通して、「インマヌエル」、つまり「神が共にいる」ことを知り、人生の重荷を一人で背負う必要がないと悟りました。
私たちも日々、担いきれない重荷を抱え苦しんだり、孤独に悩むことがあるかもしれません。
しかし、そこに伴っておられるお方がいること。
支えてくれる友がいることを、心に留めたいと思います。
インマヌエル。
私たちは、決して一人ではないことに、今日、私たちも目覚めて、新しい一週間の歩みに出掛けていきましょう。
お祈りいたします。