2024年11月3日主日礼拝メッセージ「神の視点」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書20章41節〜21章4節。

新共同訳新約聖書150ページ〜151ページです。

20:45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。

20:46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。

20:47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

21:1 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。

21:2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、

21:3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。

21:4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

「神の視点」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・こどもメッセージ

今日の聖書の箇所には、「貧しいやもめ」が出てきます。

やもめって、どんな人か、知っていますか?

やもめっていうのは、夫を失った女性のことです。

イエス様の時代、女性が一人で生きていくっていうのは、とっても大変でした。

なぜか。ろくな仕事に就けなかったからです。

女性は家にいて、家のことをする。

男性は外に出て、仕事をし、お金を稼いでくる。

それが当たり前の社会だったので、女性にできる仕事って、なかなかなかったんです。

じゃあどうやって生きていくか。

もう一回結婚するか、もといた自分の家に戻るか・・・。

それができれば、少しは安心ですが、それもできなければ、一人で生きていくしかありません。

夫もいない、仕事もない、頼れる人も全然いない。

そんな中で生きていくのは、とても大変なことでした。

今日の聖書に出てくるやもめも、きっと、そんな人だったんだと思います。

彼女は、レプトン銅貨2枚しか、持っていませんでした。

日本円にすると、大体100円ぐらいだそうです。

100円しか持っていなかった。

彼女はそれを、神様のために、献金したって書いてあります。

その様子を、周りの人たちは、どんなふうに見ていたでしょうか。

彼女の周りでは、お金持ちの人たちが献金をしていました。

ある人は五千円、ある人は1万円、ある人は10万円、いや、それ以上、献金していた人もいたかもしれない。

そんな中で、彼女の献げた100円は、どう見えたでしょう。

「たった100円」。そうとしか見えなかったと思います。

でも、イエス様は、言われたんです。

「確かに言っておく。この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。

あの金持ちたちは、有り余る中から献金したが、この人は、貧しい中で、持っている生活費を全部入れたからである。」

イエス様は、そう言われました。

「たった100円」じゃない。彼女にとっては、大事な大事な100円だ。

きっと、その100円には、彼女の想いが、たくさん込められていたと思います。

その想いを、イエス様は、ちゃんと見ておられたんです。

もちろん、人の想いなんていうのは、目には見えません。

でも、その目に見えないところを、見ておられる。

結果とか、成果とか、目に見える部分じゃなくて、見えない部分。

どれだけ頑張ったかとか、どれだけ苦労したかとか、そういうところを、大事に見ていてくださる。

それが、イエス様であり、神様なんだと思います。

手を抜いて、楽してとった一等賞よりも、たとえビリになったとしても、頑張って、一生懸命走る姿を、神様は喜んでくださる。

今日は、そのことを、一緒に覚えておきたいと思います。

お祈りしましょう。

・二つの話

今日の聖書の箇所には、イエス様に関する、二つの話が記されています。

一つは、律法学者を非難する話。

もう一つは、やもめの献金を賞賛する話です。

非難する話と賞賛する話という意味では、対照的な二つの話ですけれども、今日は、この二つの話から、“神の視点”について、共に考えてみたいと思います。

神様は、どこを見ておられるのか。

どこに目を注いでおられるのか。

ご一緒に、聖書から聞いていきたいと思います。

・律法学者に対する非難

まず最初に律法学者を非難する話ですけれども、

そもそも律法学者とは、どのような人々だったかということを、おさえておきたいと思います。

律法学者と言われる通り、彼らは、律法の専門家であり、研究者でした。

律法に関する優れた知識をもち、律法を解釈することが許されていました。

律法を解釈するというのは、現代的に読み直すということでもあり、古い律法を時代に合った形に解釈し直し、日常生活の中で、実践できる形に読み直す作業も、彼らに委ねられていました。

つまり、彼らこそが、ユダヤ教社会の規範であり、模範であった。

彼らの言うことは、正しいことであり、彼らがユダヤ教社会のルールだったということです。

ユダヤ教社会の中で、どれだけ彼らが力を持っていたか、ということが想像できると思います。

イエス様が非難されたのは、そういう人たちでした。

公に、権力者を非難するというのは、もちろん、大変、危険を伴うことです。

この非難の言葉が、十字架への歩みを加速させたことは、間違いないでしょう。

全ての律法学者がそうであったということではないと思いますが、彼らの中には、気をつけなければならない人々がいました。

どんな人々か。イエス様は次のようにおっしゃっています。

46節「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。」

「長い衣」は、律法学者のトレードマークだったそうです。

それを見れば、律法学者だとわかるような、特徴的な服だった。

それを着て歩き回る目的は一つ。律法学者という自分の肩書きを、見せびらかすためでしょう。

そうすることで彼らは、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座るという望みを、満たしていました。

このように、人からの賞賛、人からの尊敬こそが、彼らの望みでした。

律法とは、本来、神との約束であり、神に救われ、生かされた者の歩むべき姿が記されているものです。

その律法の専門家が、神でなく、人の評価ばかりを気にして生きていた。

これが、当時の社会を歪めていました。

彼らは、律法を説くことで、人々を神へと導くことを委ねられていましたが、

その律法を利用して、また律法学者という立場を利用して、彼ら自身の欲求を満たしていたのです。

47節には、「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」と記されています。

やもめと言えば、孤児や、外国人寄留者と合わせて、当時、最も社会的身分の低い人々でした。

律法には、そんな彼らを、保護するようにと書いてあります。

たとえば、申命記24章19節には、

「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」と記されています。

あるいは、出エジプト記22章20節~22節には、

「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。」

と記されています。

そのやもめを食い物にする人々がいた。

「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」とイエス様は、彼らの行為を、厳しく非難しています。

これらの言葉を通して教えられていることは、どんなに長い衣で着飾っても、どんなに長い祈りによって信仰深く見せても、神様の目を騙すことはできないということです。

どんなに人の目を騙すことができても、神様は騙せない。

神様は全てをお見通しである。

昔、嘘をついたり、ごまかしたりしようとすると、よく父に「人の目は騙せても、神様の目は騙せない」と言われたことを思い出します。

嘘をついている時にこの言葉を言われると、心がドキッとしたことを覚えています。

見えない部分を大事にしているでしょうか。

見られる部分は繕って、見えない部分は手を抜きたくなる。それが人間だと思います。

誰も見てないからいいや、そう思ってしまう。

でも、神様は見ておられる。

どんなに綺麗に着飾っても、神様の目には、丸裸である。

どんなに上手に演じていても、神様の目は、騙せない。

律法学者に対する非難の言葉には、見えないところに目を注いでおられる、神様の視点が語られています。

・やもめの献金

このことは、やもめの献金の話にも言えることだと思います。

イエス様は、賽銭箱にお金を入れる人々の姿を眺めていました。

当時、神殿には、ラッパのような形をした容器が13個置かれていて、そこに、献金が献げられていたそうです。

金属の容器だったようで、お金入れると、音が鳴ったとも言われています。

きっと、金持ちたちは、ジャラジャラと、音を響かせていたことでしょう。

そんな中で、やもめは、レプトン銅貨二枚を献金しました。

レプトン銅貨は、ユダヤのお金の中で、最も小さい額の硬貨でした。

現代のお金の価値でいうと、1枚50円ぐらいだと言われます。

ですから2枚で100円ぐらいになります。

たったの100円。

それを彼女は、献金箱に入れました。

金持ちたちが、ジャラジャラ音を響かせていたのに対して、彼女の献金の音は、どうだったでしょう。

カランカランと、何枚入れたかもわかるような、そんな音だったんじゃないでしょうか。

イエス様は、そんな彼女の姿を見て、言われました。

3節「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」

もちろんこれは、金額のことではありません。

4節「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

そうイエス様が言われている通り、彼女にとって、100円は、全財産だった。

「生活費」と書いてある通り、そのお金は、彼女にとって、生きていくためのお金でした。

その重み、大きさに、イエス様は、目をとめておられたのです。

もちろん、お金持ちたちの献げた献金が少ないとか、全財産献げなさいとか、そういうことではありません。

100円に込められた、彼女の想い。

彼女の献げる想い。

その大きさに、目をとめられたのです。

子どもメッセージで言いました通り、もちろん、人の想いなんて、目には見えません。

でも、その目に見えないところを、見ておられる。

見えないところを、大事にしてくださる。

それが、イエス様の視点であり、神様の視点だということです。

きっと、神様は、私たちのこの礼拝も、そのような視点で、ご覧になっているのではないでしょうか。

良い礼拝とは、どんな礼拝でしょうか。

人数が多い礼拝でしょうか。

献金額が多い礼拝でしょうか。

素晴らしい奏楽が奏でられている礼拝でしょうか。

讃美歌が上手に歌われている礼拝でしょうか。

どれも、大事な礼拝の要素かもしれませんが、神様が見ておられるのは、そういう目に見える部分ではない。

目に見えない部分。

今日も、この礼拝のために、見えないところで、奉仕はじめ、様々なものが献げられています。

奏楽を担ってくださっている方は、その奉仕のために、ずいぶん前から練習を重ねておられます。

お花登板の方は、お花を選んだり、いけたりしながら、時間や想いを献げてくださっています。

今日なんかは、早く来て、主の晩餐式の準備をしてくださっている方もいます。

また、この礼拝を献げるために、1時間以上かけて、この場所に来てくださっている方もいます。

この礼拝を献げるために、一週間の過ごし方を考えているという方もおられます。

病気を抱えておられたり、さまざまな課題を背負いながら、必死な想いで、礼拝を献げられている人もいます。

仕事をしておられる方にとって、日曜日の朝は、貴重な休みの時間でしょう。

その時間を、礼拝のために、献げておられる方もいます。

ご家族を家において、家族との時間を献げて、この礼拝に来られている方もいます。

そういう目に見えない献げもの、献身の姿を、神様はちゃんと見ておられる。

そういうお一人お一人によって献げられる礼拝を、神様は、喜んで受け取ってくださるのです。

・神は見ておられる

ここまで、私たちは、二つの話を見てきました。

律法学者を非難する話、やもめの献金の話。

共通しているのは、見えないところを見ておられる、イエス様の目です。

それは、律法学者の立場と、やもめの立場では、180度違う響きをもっています。

律法学者の立場で言えば「人の目は騙せても神の目は騙せない」という厳しい響きを感じますし、やもめの立場で言えば、「見えないところの努力や、想いを神は知っておられる。」

「わかってくださっている」。

そういう、嬉しい言葉に聞こえます。

この両方の響きを、私たちは忘れないでいたいと思います。

神様が見ておられるという緊張感と、知ってくださっている、見ていてくださっているという励ましを得ながら、歩んでいきたいと思います。

人の目を気にして生きるのではなく、神の前に真実に生きるものでありたいと思います。

・「見せかけの律法学者に気をつけろ」と「寡婦の想いを見逃すな」

そして、同時に、今日の話を通して、私たち自身の視点、何を見ているかということにも、想いを向けたいと思います。

イエス様は気をつけろと警告されました。

その警告は、見えるものばかりに目を奪われてはならない、騙されてはならないという警告でした。

見えないところにちゃんと目を注げるか。

長い衣のその内側に、注意を向けられるか。

献金の額ではなくて、そこに込められた想いに目を向けられるか。

パウロは、「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

と言っています。

私たちは、つい見えるところばかりに注意を向けがちですが、実は、見える部分よりも、見えない部分が大事なのだと教えられます。

見えないところ、隠れたところに目を向けることの大切さを覚えたいと思います。

もちろん、目で見えないものは、どんなに目を凝らしても見えないわけですが、

しかし、私たちは、想像したり、考えたり、感じたりすることはできます。

やもめはどんな想いで、レプトン銅貨二枚を献金したんだろうか。

全財産を手放すって、どんな気持ちだったんだろうか。

見えない部分に目を向けようとするだけで、いろんな視点が生まれてくるのではないでしょうか。

見えないところを大事に生きる。

見えないところにこそ、注意を、関心を向けて生きていく。

そのことの大切さを、心に留めて、新しい一週間を歩み出していきましょう。

お祈りします。

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