聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書20章41節〜21章4節。
新共同訳新約聖書150ページ〜151ページです。
20:45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
20:46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。
20:47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
21:1 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。
21:2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、
21:3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
21:4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
「神の視点」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・こどもメッセージ
今日の聖書の箇所には、「貧しいやもめ」が出てきます。
やもめって、どんな人か、知っていますか?
やもめっていうのは、夫を失った女性のことです。
イエス様の時代、女性が一人で生きていくっていうのは、とっても大変でした。
なぜか。ろくな仕事に就けなかったからです。
女性は家にいて、家のことをする。
男性は外に出て、仕事をし、お金を稼いでくる。
それが当たり前の社会だったので、女性にできる仕事って、なかなかなかったんです。
じゃあどうやって生きていくか。
もう一回結婚するか、もといた自分の家に戻るか・・・。
それができれば、少しは安心ですが、それもできなければ、一人で生きていくしかありません。
夫もいない、仕事もない、頼れる人も全然いない。
そんな中で生きていくのは、とても大変なことでした。
今日の聖書に出てくるやもめも、きっと、そんな人だったんだと思います。
彼女は、レプトン銅貨2枚しか、持っていませんでした。
日本円にすると、大体100円ぐらいだそうです。
100円しか持っていなかった。
彼女はそれを、神様のために、献金したって書いてあります。
その様子を、周りの人たちは、どんなふうに見ていたでしょうか。
彼女の周りでは、お金持ちの人たちが献金をしていました。
ある人は五千円、ある人は1万円、ある人は10万円、いや、それ以上、献金していた人もいたかもしれない。
そんな中で、彼女の献げた100円は、どう見えたでしょう。
「たった100円」。そうとしか見えなかったと思います。
でも、イエス様は、言われたんです。
「確かに言っておく。この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
あの金持ちたちは、有り余る中から献金したが、この人は、貧しい中で、持っている生活費を全部入れたからである。」
イエス様は、そう言われました。
「たった100円」じゃない。彼女にとっては、大事な大事な100円だ。
きっと、その100円には、彼女の想いが、たくさん込められていたと思います。
その想いを、イエス様は、ちゃんと見ておられたんです。
もちろん、人の想いなんていうのは、目には見えません。
でも、その目に見えないところを、見ておられる。
結果とか、成果とか、目に見える部分じゃなくて、見えない部分。
どれだけ頑張ったかとか、どれだけ苦労したかとか、そういうところを、大事に見ていてくださる。
それが、イエス様であり、神様なんだと思います。
手を抜いて、楽してとった一等賞よりも、たとえビリになったとしても、頑張って、一生懸命走る姿を、神様は喜んでくださる。
今日は、そのことを、一緒に覚えておきたいと思います。
お祈りしましょう。
・二つの話
今日の聖書の箇所には、イエス様に関する、二つの話が記されています。
一つは、律法学者を非難する話。
もう一つは、やもめの献金を賞賛する話です。
非難する話と賞賛する話という意味では、対照的な二つの話ですけれども、今日は、この二つの話から、“神の視点”について、共に考えてみたいと思います。
神様は、どこを見ておられるのか。
どこに目を注いでおられるのか。
ご一緒に、聖書から聞いていきたいと思います。
・律法学者に対する非難
まず最初に律法学者を非難する話ですけれども、
そもそも律法学者とは、どのような人々だったかということを、おさえておきたいと思います。
律法学者と言われる通り、彼らは、律法の専門家であり、研究者でした。
律法に関する優れた知識をもち、律法を解釈することが許されていました。
律法を解釈するというのは、現代的に読み直すということでもあり、古い律法を時代に合った形に解釈し直し、日常生活の中で、実践できる形に読み直す作業も、彼らに委ねられていました。
つまり、彼らこそが、ユダヤ教社会の規範であり、模範であった。
彼らの言うことは、正しいことであり、彼らがユダヤ教社会のルールだったということです。
ユダヤ教社会の中で、どれだけ彼らが力を持っていたか、ということが想像できると思います。
イエス様が非難されたのは、そういう人たちでした。
公に、権力者を非難するというのは、もちろん、大変、危険を伴うことです。
この非難の言葉が、十字架への歩みを加速させたことは、間違いないでしょう。
全ての律法学者がそうであったということではないと思いますが、彼らの中には、気をつけなければならない人々がいました。
どんな人々か。イエス様は次のようにおっしゃっています。
46節「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。」
「長い衣」は、律法学者のトレードマークだったそうです。
それを見れば、律法学者だとわかるような、特徴的な服だった。
それを着て歩き回る目的は一つ。律法学者という自分の肩書きを、見せびらかすためでしょう。
そうすることで彼らは、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座るという望みを、満たしていました。
このように、人からの賞賛、人からの尊敬こそが、彼らの望みでした。
律法とは、本来、神との約束であり、神に救われ、生かされた者の歩むべき姿が記されているものです。
その律法の専門家が、神でなく、人の評価ばかりを気にして生きていた。
これが、当時の社会を歪めていました。
彼らは、律法を説くことで、人々を神へと導くことを委ねられていましたが、
その律法を利用して、また律法学者という立場を利用して、彼ら自身の欲求を満たしていたのです。
47節には、「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」と記されています。
やもめと言えば、孤児や、外国人寄留者と合わせて、当時、最も社会的身分の低い人々でした。
律法には、そんな彼らを、保護するようにと書いてあります。
たとえば、申命記24章19節には、
「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」と記されています。
あるいは、出エジプト記22章20節~22節には、
「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。」
と記されています。
そのやもめを食い物にする人々がいた。
「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」とイエス様は、彼らの行為を、厳しく非難しています。
これらの言葉を通して教えられていることは、どんなに長い衣で着飾っても、どんなに長い祈りによって信仰深く見せても、神様の目を騙すことはできないということです。
どんなに人の目を騙すことができても、神様は騙せない。
神様は全てをお見通しである。
昔、嘘をついたり、ごまかしたりしようとすると、よく父に「人の目は騙せても、神様の目は騙せない」と言われたことを思い出します。
嘘をついている時にこの言葉を言われると、心がドキッとしたことを覚えています。
見えない部分を大事にしているでしょうか。
見られる部分は繕って、見えない部分は手を抜きたくなる。それが人間だと思います。
誰も見てないからいいや、そう思ってしまう。
でも、神様は見ておられる。
どんなに綺麗に着飾っても、神様の目には、丸裸である。
どんなに上手に演じていても、神様の目は、騙せない。
律法学者に対する非難の言葉には、見えないところに目を注いでおられる、神様の視点が語られています。
・やもめの献金
このことは、やもめの献金の話にも言えることだと思います。
イエス様は、賽銭箱にお金を入れる人々の姿を眺めていました。
当時、神殿には、ラッパのような形をした容器が13個置かれていて、そこに、献金が献げられていたそうです。
金属の容器だったようで、お金入れると、音が鳴ったとも言われています。
きっと、金持ちたちは、ジャラジャラと、音を響かせていたことでしょう。
そんな中で、やもめは、レプトン銅貨二枚を献金しました。
レプトン銅貨は、ユダヤのお金の中で、最も小さい額の硬貨でした。
現代のお金の価値でいうと、1枚50円ぐらいだと言われます。
ですから2枚で100円ぐらいになります。
たったの100円。
それを彼女は、献金箱に入れました。
金持ちたちが、ジャラジャラ音を響かせていたのに対して、彼女の献金の音は、どうだったでしょう。
カランカランと、何枚入れたかもわかるような、そんな音だったんじゃないでしょうか。
イエス様は、そんな彼女の姿を見て、言われました。
3節「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」
もちろんこれは、金額のことではありません。
4節「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
そうイエス様が言われている通り、彼女にとって、100円は、全財産だった。
「生活費」と書いてある通り、そのお金は、彼女にとって、生きていくためのお金でした。
その重み、大きさに、イエス様は、目をとめておられたのです。
もちろん、お金持ちたちの献げた献金が少ないとか、全財産献げなさいとか、そういうことではありません。
100円に込められた、彼女の想い。
彼女の献げる想い。
その大きさに、目をとめられたのです。
子どもメッセージで言いました通り、もちろん、人の想いなんて、目には見えません。
でも、その目に見えないところを、見ておられる。
見えないところを、大事にしてくださる。
それが、イエス様の視点であり、神様の視点だということです。
きっと、神様は、私たちのこの礼拝も、そのような視点で、ご覧になっているのではないでしょうか。
良い礼拝とは、どんな礼拝でしょうか。
人数が多い礼拝でしょうか。
献金額が多い礼拝でしょうか。
素晴らしい奏楽が奏でられている礼拝でしょうか。
讃美歌が上手に歌われている礼拝でしょうか。
どれも、大事な礼拝の要素かもしれませんが、神様が見ておられるのは、そういう目に見える部分ではない。
目に見えない部分。
今日も、この礼拝のために、見えないところで、奉仕はじめ、様々なものが献げられています。
奏楽を担ってくださっている方は、その奉仕のために、ずいぶん前から練習を重ねておられます。
お花登板の方は、お花を選んだり、いけたりしながら、時間や想いを献げてくださっています。
今日なんかは、早く来て、主の晩餐式の準備をしてくださっている方もいます。
また、この礼拝を献げるために、1時間以上かけて、この場所に来てくださっている方もいます。
この礼拝を献げるために、一週間の過ごし方を考えているという方もおられます。
病気を抱えておられたり、さまざまな課題を背負いながら、必死な想いで、礼拝を献げられている人もいます。
仕事をしておられる方にとって、日曜日の朝は、貴重な休みの時間でしょう。
その時間を、礼拝のために、献げておられる方もいます。
ご家族を家において、家族との時間を献げて、この礼拝に来られている方もいます。
そういう目に見えない献げもの、献身の姿を、神様はちゃんと見ておられる。
そういうお一人お一人によって献げられる礼拝を、神様は、喜んで受け取ってくださるのです。
・神は見ておられる
ここまで、私たちは、二つの話を見てきました。
律法学者を非難する話、やもめの献金の話。
共通しているのは、見えないところを見ておられる、イエス様の目です。
それは、律法学者の立場と、やもめの立場では、180度違う響きをもっています。
律法学者の立場で言えば「人の目は騙せても神の目は騙せない」という厳しい響きを感じますし、やもめの立場で言えば、「見えないところの努力や、想いを神は知っておられる。」
「わかってくださっている」。
そういう、嬉しい言葉に聞こえます。
この両方の響きを、私たちは忘れないでいたいと思います。
神様が見ておられるという緊張感と、知ってくださっている、見ていてくださっているという励ましを得ながら、歩んでいきたいと思います。
人の目を気にして生きるのではなく、神の前に真実に生きるものでありたいと思います。
・「見せかけの律法学者に気をつけろ」と「寡婦の想いを見逃すな」
そして、同時に、今日の話を通して、私たち自身の視点、何を見ているかということにも、想いを向けたいと思います。
イエス様は気をつけろと警告されました。
その警告は、見えるものばかりに目を奪われてはならない、騙されてはならないという警告でした。
見えないところにちゃんと目を注げるか。
長い衣のその内側に、注意を向けられるか。
献金の額ではなくて、そこに込められた想いに目を向けられるか。
パウロは、「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
と言っています。
私たちは、つい見えるところばかりに注意を向けがちですが、実は、見える部分よりも、見えない部分が大事なのだと教えられます。
見えないところ、隠れたところに目を向けることの大切さを覚えたいと思います。
もちろん、目で見えないものは、どんなに目を凝らしても見えないわけですが、
しかし、私たちは、想像したり、考えたり、感じたりすることはできます。
やもめはどんな想いで、レプトン銅貨二枚を献金したんだろうか。
全財産を手放すって、どんな気持ちだったんだろうか。
見えない部分に目を向けようとするだけで、いろんな視点が生まれてくるのではないでしょうか。
見えないところを大事に生きる。
見えないところにこそ、注意を、関心を向けて生きていく。
そのことの大切さを、心に留めて、新しい一週間を歩み出していきましょう。
お祈りします。