聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書22章7節〜13節。
新共同訳新約聖書153ページです。
22:7 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。
22:8 イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。
22:9 二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、
22:10 イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、
22:11 家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』
22:12 すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」
22:13 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
「主の山に備えあり」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は、みんなと一緒に覚えたい言葉があります。
それは、「主の山に備えあり」っていう言葉です。
みんなは、山に登ったことがありますか。
山登りの楽しみといえば、なんでしょうか。ー自然と触れ合えること。美味しい空気が吸えること。山頂で食べるお弁当。
いろんな楽しみがあると思いますが、中でもやっぱり楽しみなのは、山頂から見える景色だと思います。
良い景色が見たい。
そう思って、山に登る人が多いんじゃないでしょうか。
これは、大分の久住山から撮った写真だそうです。
すごい良い景色ですよね。
雲がすごく近く見えます。
頂上に着いたら、こんなすごい景色が見れると思ったら、どうでしょう。
頑張って登ってみようって、気持ちになるんじゃないでしょうか。
一方で、こんな天気の時は、どうでしょう。
霧がかかってて、景色も全然見えません。
もしも、登っている最中に、こんな天気になったとしたら、登りたいって思うでしょうか。
きっと、思えないと思います。
そもそも危ないですし、登っても、良い景色が見れないって思ったら、頑張って登ろうって気持ちにもなれないと思います。
そんなふうに、ゴールにあるものを、どう想像するかによって、私たちの気持ちっていうのは、全然変わってくるわけです。
頂上に着いたら、すごい景色が見れる。
そう思ったら、頑張って登ろうって気持ちになるでしょうし、
逆に、登ったって、どうせ良い景色なんて見れないって思ったら、帰りたいって気持ちになるでしょう。
これは、学校に行くのだってそうだと思います。
今日、好きな授業があるとか、好きな給食が出るとかって思ったら、行きたいって気持ちになると思いますが、
逆に、今日テストがあるとか、今日の給食、嫌いなものだって思ったら、行きたくないなって気持ちになると思います。
そんな私たちだからこそ、今日、覚えておきたいのが、「主の山に備えあり」っていう言葉です。
これは、神様が、私たちのために、良いものを用意してくださっているっていう意味の言葉です。
私たちの歩みの先に、私たちに必要なもの、私たちにとって良いものが、用意されている。
だから、信じて生きていきなさいって、神様は言っています。
信じて生きていってほしいと思います。
辛い時も、苦しい時も、私たちに必要なものを、神様はちゃんと用意してくださっている。
素敵なプレゼントを、神様は、用意してくださっている。
そうやって信じる気持ちが、私たちの生きる力になります。
信じて生きていきましょう。
お祈りします。
・備えの時を過ごす私たち
11月も最後の日曜日になりました。
いよいよ来週から12月に入ります。
そして、キリスト教の暦では、来週から、アドベントが始まります。
アドベントは、イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスに向かって、待ち望みつつ備える期間です。
私たちの教会でも、すでに、様々な準備がすすめられています。
先週は、礼拝の後、クリスマスの飾り付けを行いました。
クリスマスに向けて、チラシ配りも行いました。
様々なプログラムの準備も進んでいます。
そんなふうにしながら、クリスマスに向かって私たちは歩んでいます。
同時に、この時期は、新しい年を迎えるための備えの時でもあります。
受験生にとっては、受験本番に備えて、緊張し始める時期でもあるでしょう。
そんなふうに、備えの時を過ごす私たちにとって、今日の箇所は、とても大事な箇所であると思います。
・祭りの準備をする弟子たち
今日の箇所には、イエス様の弟子たちが、過越祭の準備をする様子が記されています。
過越祭とは、ユダヤ教の三大祭りの一つで、イスラエルの民が、エジプトから解放されたことを記念するお祭りです。
その準備をするために、イエス様は、弟子のペトロとヨハネに、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われました。
これに対して、二人は「どこに用意したらよいでしょう」と言いました。
過越祭の期間中、エルサレムは、人で溢れていました。
この時期には、各地に散らばっているユダヤ人たちが、巡礼者として、エルサレムに集まってきていたからです。
そんな日に、過越の食事ができる場所を探すなんて、もう遅い。
どこに場所があるだろう。
弟子たちは、そんなふうに思っていたのかもしれません。
でも、そんな弟子たちに、イエス様は言われました。10節
22:10 イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、
22:11 家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』
22:12 すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」
この言葉を聞いて、弟子たちは、どう思ったでしょうか。
なぜ、水がめを運んでいる男と出会うって、知ってるんだろうか。
家までついて行って、怒られないだろうか。
家の主人は、知っている人なんだろうか。
「食事をする部屋はどこか」って、そんな言い方で良いんだろうか。
なぜ、二階の広間に案内してくれるって、そんなことがわかるんだろうか。
弟子たちの頭の中は、きっと、はてなマークでいっぱいだったと思います。
でも、とりあえず、彼らは、行ってみることにしました。
すると、イエス様の言われた通りのことが起こったと、聖書には書いてあります。
水瓶を運んでいる男と出会い、ついて行くと、家の主人に会い、『先生が、「過越の食事をする部屋はどこか」と言っています。』そう言ったら、2階の広間に通された。
イエス様が言った通りの出会いと出来事が、目の前に起こって行ったわけです。
弟子たちは、さぞ驚いたことでしょう。
やっぱりイエス様は、ただもんじゃない。
あの人についていけば間違いない。
あの人の言うことは、実現するって、きっとそう思ったでしょう。
そういう出会いや出来事が待っている。
イエス様の言葉に従って行ってみると、そういう出会いや出来事を経験することができる。
聖書はそんなふうに教えているのだと思います。
「行ってみる」。
イエス様の言う通り、とりあえずやってみる。
最初は、弟子たちも、半信半疑だったと思います。
水瓶を運んでいる男と出会って、ついて行ったら、部屋に案内してもらえるなんて、そんなことあるだろうか。
そんな都合よく行くだろうか。
弟子たちは、きっとそう思っていたでしょう。
でも、とりあえず行ってみた。
そうしたら、本当にそうだった。
この経験は、行かなければできなかった経験です。
行ってみたからこそ、出会えたし、行ってみたからこそ、経験することができた。
とりあえず行ってみる。
何が待っているかはわからないけれど、とりあえずやってみる。
この姿勢の大切さを、聖書は私たちに語りかけているのではないでしょうか。
・備えてくださる神
先週、クリスマスのチラシ配りをしました。
町内を中心に、1000枚、クリスマスのチラシを配りました。
この辺は、マンションがいっぱいありますので、チラシ配りがしやすいんですが、でも、結構、「チラシお断り」って貼り紙のしてあるマンションもありまして、断念することもあります。
でも、今回は、諦めずに、管理人さんに、配って良いか、聞くようにしました。
そしたら、ほぼ全て、「どうぞ」と言ってもらうことができました。
前にダメって言われていたところも、なぜか今回は、「良いよ」と言ってもらえました。
一件だけ、断られたんですけど、その代わり、マンションの掲示板に貼ってくれるということで、チラシをお渡しすることができました。
あるマンションではですね、デカデカと、「チラシお断り」って書いてあったんですが、管理人さんに話してみると、「チラシ置いてってください。
入れて良いところと悪いところがあるので、後で、私入れておきますから」と言って、57枚、チラシを受け取ってくださった管理人さんもいました。
嬉しくなってですね、その管理人さんにも、「良ければ来てください」って、チラシを渡しましたら、「行けるかわからないけど、いっぱい集まったら良いですね」と、声をかけてくれました。
その時にですね、神様が備えてくださるって、こういうことなのかなって、そう感じました。
私たちの歩みに先立って、神様が働いてくださる。
神様が、備えていてくださる。
これは、礼拝メッセージの準備をする時、毎回、思うことでもあります。
牧師になって10年以上経ちますけれども、礼拝メッセージの準備をする時、毎回私は、頭を抱えています。
礼拝メッセージができるだろうか。
原稿が完成するだろうか。
毎週、不安になります。
いつも、まず最初に、聖書を黙想することから始めますが、この聖書の箇所から、何を話したら良いだろう。
話すことなんてあるだろうかって、毎回、そう思います。
月曜日は、まだ、希望があります。
日曜日まで、まだ、時間があるからですね、なんとかなるかなって思うんですが、火曜日、水曜日、木曜日・・・。
金曜日ぐらいになりますと焦り始めまして、土曜日の夜に絶望するなんて時も、多々あります。
そんな綱渡りのような歩みなんですが、でも、そんな時も、礼拝前には、原稿が整えられるという、
これが自分でも不思議なんですが、そういうことを毎週、経験しています。
自分の力で原稿を整えているようでいて、そうじゃないというかですね。
これもまた、神様が備えてくださるということだと思います。
・主の山に備えあり
そんなふうに、神様が備えてくださる。必要を満たしてくださる。
聖書は、そのように私たちに、語りかけています。
このことを信じることによって、私たちは、前に進む力を得ることができます。
自分の力だけでやらなきゃいけない、整えなきゃいけないと思うと、苦しくなりますし、できるかどうか不安になります。
でも、私たちの歩みに先に、すでに神様が用意してくださっているものがある。備えてくださっているものがある。
そう思うと、気持ちが楽になります。
説教の準備も、次はどんなメッセージが与えられるだろうかって、少しは前向きになることができますし、チラシ配りも、そうでした。
神様が先に行って、働いてくださってる、そう思うと、勇気が湧いてきました。
今日の説教題、「主の山に備えあり」という言葉は、そんなふうに、私たちの歩みに先立って、神様が備えていてくださるということを覚えるための合言葉です。
この言葉は、神様が、アブラハムの信仰を試すために、息子イサクを献げなさいと言われた、その場面で言われた言葉でした。
息子を献げるなんて、とんでもないことをさせるなと思いますが、アブラハムは、神様に言われた通り、山に登り、イサクを祭壇の上に載せました。
そして、いよいよ手を下そうとしたその時、御使いの声がするわけです。
「アブラハム、アブラハム、手を下してはいけない。あなたが神を畏れる者であることがわかった。」
その声に導かれながら、辺りを見回すと、木の茂みに一匹の雄羊が、とらわれているのを見つけます。
アブラハムは、息子の代わりに、その雄羊を祭壇で献げ、そしてその場所を、ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名づけたわけです。
この場所こそ、後に、エルサレム神殿が建てられる場所でした。
人々は、神殿に登る時、この出来事を思い返しながら、ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と、合言葉のように、使っていたそうです。
厳しい巡礼の旅路も、ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と信じて、乗り越えて行ったのです。
私たちも、そのような者でありたいと思います。
クリスマスへの備えも、年末年始への備えも、このことを心に留めながら、のぞめたら良いなと思います。
確かに、私たちにはやらないといけないことがあります。
全部、神様がやってくれるわけではありません。
それに、最初に言いましたように、やってみないと、神様の備えにあずかることもできません。
弟子たちは、イエス様の言葉に従って、行ってみることを通して、備えてくださるイエス様の恵みに、あずかっていきました。
そのように、私たちには、私たちのやるべきことがあります。
チラシ配りをする、礼拝メッセージの準備をする、クリスマスの準備をする、受験勉強をする。
色々、すべきことが、あると思いますけれども、その時に、同時に、神様の備えがあるということを、忘れないでいたいと思うのです。
神様が用意してくださっているということを覚えつつ、そのことに向かっていくような、そんな気持ちでのぞんでいけたらいいなと思います。
先の見えない私たちですが、備えていてくださる神様を信じることが、私たちの歩みを前進させます。
今日も明日も、私たちの歩みの先には、神様の備えがある。
主の山に、備えあり。
そのことを合言葉にしながら、備えてくださる神様に向かって、共に、歩んでいきたいと思います。
お祈りします。