聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書22章1節〜6節。
新共同訳新約聖書153ページです。
22:1 さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。
22:2 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。
22:3 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。
22:4 ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。
22:5 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。
22:6 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
「神に用いられた『裏切り者のユダ』」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は最初に一つ、質問をしたいと思います。
イエス様のお弟子さんに関する質問ですけれども、
イエス様には、十二人のお弟子さんがいたんですが、名前を知っている人はいるでしょうか。
ペトロとか、ヤコブとか、聞いたことがあるっていう人もいると思いますが、中でもユダって、聞いたことがあるでしょうか。
じゃあ、ユダって、何をした人か、知ってますか。
ユダは、よく、裏切り者って言われます。
裏切り者のユダって、聞いたことない?
2000年も前の人ですが、今も、裏切り者といえばユダって、そう言われるくらい、裏切り者で有名な人なんですけど、
じゃあ、誰を裏切ったかは、知ってますか?
そう、ユダさんが裏切ったのは、イエス様でした。
イエス様の弟子なのに、イエス様を裏切ってしまった。
裏切ったって、具体的に何をしたかというと、
イエス様を倒そうと狙っていた人たち、つまり、イエス様の敵に、イエス様を引き渡した。
イエス様を捕まえようと狙っていた人たちに、「今がチャンスだよ。今だったら捕まえられるよ」って、教える係。
それをユダはしたんです。
みんな、かくれんぼしたことあるでしょ。
かくれんぼで、鬼に、友達の居場所を教えるようなものです。
「あの子、あそこに隠れてるよ」って、ばらしちゃう。
これ、裏切りだよね。
ユダのしたことっていうのは、そういうことです。
もしみんなが、そんなことされたら、どう思いますか?ムカつくよね。もう友達じゃないって、思うかもしれない。
でも、イエス様はどうだったか。
イエス様、実は、ユダが裏切ること、知っていました。
気づいていたんです。
いつかユダが自分のことを裏切る日が来るって、気づいていた。
でも、ユダのことを、仲間はずれにしたりしませんでした。
どんなに裏切られても、ユダのことを、責めたりしなかった。
同じようにイエス様は、私たちのことも、受け入れてくれるお方です。
どんなに私たちが、悪いことをしたとしても、イエス様は、迎え入れてくださる。
教会はそんなイエス様のお家です。
どんなことがあっても、私たちには、帰る場所がある。
どんなことがあっても、私たちには、迎え入れてくれるお方がいる。
そのことを今日は、覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・序
これまで私たちは、イエス様がエルサレムにやってこられた時の様子を続けて読んできました。
エルサレムにやってきたイエス様は、終始、神殿で活動されました。
神殿の境内で、商売をしていた人たちを追い出したり、律法学者や祭司長たちと論争をしたり、やもめの献金の話もありました。
そんなエルサレム神殿での場面を終えて、今日からは、いよいよ十字架へと向かっていくことになります。
今日の箇所は、その始まりの場面です。
いよいよイエス様が、十字架へと向かっていかれる。
その口火を切ったのは、なんと、イエス様の弟子であったユダでした。
裏切り者として、大変有名な弟子ですけれども、なぜユダは、イエス様を裏切ったのか。
そこから、どんなことを学ぶことができるのか。
ご一緒に、聖書に聞いていきたいと思います。
・ユダの裏切り
2節から、読んでいきたいと思います。
22:2 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。
ここには、祭司長たちや律法学者たちが、イエスを殺すにはどうしたら良いか、思い悩んでいる様子が記されています。
なぜか。
それは、彼らが、民衆を恐れていたからです。
これまで読んできた箇所にも、民衆がネックで、したいようにできなかった、彼らの様子が記されてきました。
19章47節~48節
19:47 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、
19:48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
あるいは、20章19節
20:19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
民衆は皆、イエス様の言葉に聞き入っておりました。
今日の箇所の直前にも、「民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。」と書いています。
「朝早くから集まってきた」という言葉には、強くイエス様を求める、民衆たちの気持ちが、あらわれています。
そんな状況で、強引にイエス様を捕らえたりしたら、民衆たちが、何をするかわからない。
下手をすれば、暴動が起こるかもしれない。
自分たちの影響力にも、支障が出るかもしれない。
そんなふうに考えて、身動きが取れずにいたのです。
この膠着状態を動かしたのが、なんと、イエス様の弟子であったユダでした。
彼は、自ら、祭司長たちのところへ行って、どのようにしてイエスを引き渡そうかと、相談を持ちかけました。
これに対して、祭司長たちは、喜んだと書かれています。
そりゃそうでしょう。
彼らは、イエスを殺すにはどうしたら良いか、思い悩んでいました。
ユダヤの権力者たちが、何の肩書きも後ろ盾も持たないイエス一人に、振り回されていたんです。
彼らにとっては、相当屈辱的なことだったと思います。
イライラもしていたでしょう。
そんな時に、思いがけず、向こう側から、助け舟がやってきたわけです。
イエス様の側近であった、12弟子の一人を、仲間にすることができた。
これが、決定打となって、十字架への道が、開かれていくことになります。
閉ざされていた扉が開かれて、急速に、事態が進んでいくことになります。
この扉を開いたのが、ユダだったのです。
イエス様の弟子の中でも、ユダだけが「裏切り者」として記憶され続けているのは、ここに理由があるのだと思います。
・サタンが入った
でも、わからないのは、ユダの動機です。
なぜユダは、イエス様を裏切ったのか。
お金が欲しかったんでしょうか。
イエス様を信じられなくなってしまったのでしょうか。
あるいは、イエス様が本当に神の子なのか試そうとしたと、考えることもできるかもしれません。
可能性としては色々考えられますが、でも今日は、福音書記者ルカの言葉に注目したいと思います。
ルカは、「イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」と書いています。
これは、マタイやマルコには、書いていません。
ユダの裏切りに対する、ルカの解釈です。
なぜユダは、イエス様を裏切ったのか。
その説明として、ルカは、「サタンが入ったからだ」と書いたのです。
そう説明する以外に、説明のしようがないと思ったのでしょう。
と言いますのも、ユダは、弟子の中でも、金庫番という重要な働きを任されていました。
それだけ、信頼されていたということです。
ユダと聞くと、どうしても「裏切り者」というイメージが先に出てきてしまって、とんでもない悪いやつみたいに思ってしまうわけですが、
しかし、実際はそうじゃなかったんです。
彼は、弟子の中でも、一目置かれた存在だったのです。
「そのユダが、イエス様を裏切るなんて…」「信じられない」「まさかそんなことをするなんて」「サタンが入ったとしか考えられない」そんな福音書記者ルカの想いが、反映されているのだと思います。
・魔が差す
日本語でも、「魔が差す」という言葉があります。
「魔が差す」の「魔」も「悪魔」の「魔」です。
心の中に悪魔が入り込んだかのように、ふと悪い考えを起こす。普段では考えられないような出来心を起こしてしまう。
そういう意味の言葉ですが、まさにこの場面にぴったりの言葉だと思います。
どうでしょうか。
皆さんは、「魔が差した」と思うような経験があるでしょうか。
不倫報道なんかあると、時々、「魔が差した」なんていう人がいます。
年末年始になると、飲酒運転のニュースが流れたりしますが、それもまた、「魔が差す」ということかもしれません。
私も時々、「魔が差す」ことがあります。
息子を、近くのそろばん教室まで送っていく時のことです。
免許の入った財布が、手元にない。
取りに行くのも面倒くさい。
近くだし、止められることなんてないだろう。
そう思って、免許不携帯で、車を運転してしまったことがあります。
それに、学生時代、テストの点数を偽ったこと。
それもまた、「魔が差す」ということだったかなと思います。
学生時代、ギャンブルにハマった時期もありました。
大負けしまして、もう2度としないと決意したんですけれども、誘われるように、ふーっと、パチンコ屋に入って行ってしまって、ものすごく後悔した経験もあります。
そういうことは、一つや二つじゃありません。
皆さんも、身に覚えのあることが、一つや二つ、あるんじゃないでしょうか。
皆さんの傷をえぐりたいわけではありません。
言いたいのは、ユダの問題が、ユダだけの問題ではないということです。
結婚式のスピーチでよく、人生には三つの坂があるって話をされる人がいます。
ご存知でしょうか。
「上り坂」と、「下り坂」と、もう一つ、「まさか」がある。
私たちの人生には「まさか」がある。
これは、私たち自身にも言えることです。
自分でも「まさか」と思うようなことをしてしまうのが、人間なんだろうと思います。
・目を覚まして祈る
聖書において、サタンというのは、誘惑するもの、試みるものとして、記されています。
この世には、私たちを誘惑するものが、たくさんあります。
そのためにイエス様は、目を覚まして祈りなさいって、言われたんだと思います。
先週、困難な日々を生き抜いていくための秘訣を、イエス様の言葉から学びました。
覚えているでしょうか。
困難は、神の国が近づいているしるし。
そう信じて、視点、物事の見方を変えること。
日頃から、備えていること。
体の備え、心の備え、祈りによる備え。
そして、最後に、み言葉を信じること。
ユダの裏切りに先立って、イエス様が、これらのことを話されたのは、まさに、サタンの誘惑に備えるためでもあったのだと思います。
「魔が差してしまう」「まさか」と思うようなことをしてしまう。
そんな私たちだからこそ、改めて、目を覚まして祈っていることの大切さを覚えたいと思います。
・イエス様の祈りがある
それにもう一つ、今日の招きの言葉で読んでいただきました聖書の箇所には、イエス様が、弱い私たちのために、祈ってくださっているということが書かれています。
22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
これは、後々読む箇所なので、詳しくは話しませんが、サタンに誘惑されたのは、ユダだけじゃなかったんです。
他の弟子たちも皆、サタンの誘惑にあいました。
そして、飲み込まれました。
ペトロは、鶏が泣く前に、3度、イエス様を知らないって言いました。
「そんなこと絶対にない。死んでもあなたについていきます。」って言ってたのに、知らないって言ってしまった。
やっぱり「まさか」はあるんです。
どんなに、そんなことはないって言ってみても、魔が差してしまうことはあるんです。
でも、そんなペトロにイエス様は、言われたんです。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」
誰かに祈られているっていうのは、強力な支えになります。
私自身、そのことを日々感じています。
イエス様を裏切った弟子たちが、再び、イエス様を信じて、教会を立てあげていくことができたのは、その背後に、イエス様の祈りがあったからです。
この祈りがある限り、私たちは、何度もやり直すことができる。
立ち直ることができます。
そのことを、忘れないでいたいと思います。
・神の計画
このことの関連で、最後にもう一つ、覚えておきたいことがあります。
それは、ユダの裏切りも、ペトロが3度知らないっていうのも、イエス様は知っておられたということです。
知っていて、あえて、なるに任せられたということです。
なぜか。
それは、そこにも神の計画があると受け止めていたからです。
ユダの裏切り、ペトロの裏切り。
そこだけ見ると、サタンが勝利したように見えますが、そのことをも用いて、計画を実現されるのが神なのです。
確かにユダは、イエス様を裏切りました。
サタンの誘惑に負けました。
でも、それは、サタンの勝利を意味しない。
その出来事をも用いられるのが、神だからです。
私たちの生きる世界も、神の支配よりも、サタンの勝利、サタンの支配を感じることの方が、多いように思います。
でも、そんな現実をも用いて、御心をなされるのが神である。
決して、サタンは勝利しない。
どんなにサタンが暴れ回っても、神の計画を阻むことはできない。
神の計画とは何か。
それは、平和の計画です。
神と人、人と人、人と全ての被造物が、共に生きる世界。
調和している世界。
その世界の実現こそ、神の計画だと思います。
それに対して、サタンの思惑は、人と人とを分断し、対立させ、戦争を引き起こすことです。
今まさに、この世界は、サタンの力で満ち溢れています。
でも、どんなにサタンが暴れ回っても、神の計画を阻むことはできない。
そう聖書は教えています。
このことを、心に留めておきたいと思います。
目を覚まして祈ること。
私たちを覚えて、イエス様が祈ってくださっていること。
どんなにサタンが暴れ回っても、神の計画を阻むことはできない。
このことを心に留めながら、新しい一週間の歩みに出掛けていきましょう。