聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書20章20節〜26節。
新共同訳新約聖書149ページ〜150ページです。
20:20 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。
20:21 回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の 道を教えておられることを知っています。
20:22 ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
20:23 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。
20:24 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、
20:25 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
20:26 彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。
「『神のもの』として生きる」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
私たちの読んでいる聖書には、旧約聖書と新約聖書があります。
新約聖書には、主に、イエス様がお生まれになった後の話が書かれています。
今日読んでいますイエス様のお話とか、イエス様の弟子たちの話が書かれています。
一方、旧約聖書には、イエス様がお生まれになる前の話が書かれています。
そこには、神様が選んだ人々、神の民と呼ばれる人たちの話が記されています。
神の民って、聞こえは良いですが、とっても弱い民でした。
数も少ないし、力もない。
そんな弱い民を、神様は愛し、導いていかれたんですが、
しかし、民は、弱かったので、いっつも、周りの国々に怯えながら過ごさなきゃいけませんでした。
あっちの国には、大勢の軍隊がある。
こっちの国には、強力な武器がある。
怖いな、大丈夫かな、攻めてきたらどうしよう…って、いつも、怯えながら過ごさなきゃいけませんでした。
そんな人々に、神様は、「恐れるな。私が共にいる」って、いつも語りかけるんですが、人々は、なかなか信じられません。
それで、神様の言うことを聞かずに、あっち行ったり、こっち行ったりしている間に、とうとう、強い国に支配されてしまうようになります。
アッシリア、エジプト、バビロン。
その時代の強い国に、支配されていきます。
イエス様の時代には、ローマっていう国に支配されていました。
これまた、すごい強い国で、とても太刀打ちできない。
反乱を起こしても、すぐに鎮圧されてしまう。
どんなに酷いことをされても、受け入れる以外にない。
イエス様の時代というのは、そんな時代だったんですが、でも、イエス様は、その力に怯えたり、ひれ伏したりせず、自由に生きた人でした。
なんで、自由に生きられたのか。
それは、この世界の支配者は、神様だけだって、信じていたからです。
どんなにローマが強くても、永遠には続かない。
神様の前では、皇帝だろうが、王様だろうが、私たちと同じ、ただの人間だって、そう思っていた。
だから、恐れず、自由に生きられたのです。
神様を信じることは、自由に生きるための第一歩です。
神様は、怖がりな私たちに、勇気と希望を与えてくれます。
神様に比べれば、どんな力も、恐れるに足らず…とまではいかないでしょうけど、でも、どんなに力がある人も、神様の前では、ただの人。
そう思うだけで、勇気と希望が湧いてきます。
どんなに力がある人も、神様の前では、みんな同じ、ただの人。
今日は、そのことを、心に覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・
先日来、私たちは、イエス様がエルサレムにやってきた場面を続けて読んでいます。
エルサレムにやってきたイエス様は、まず、神殿から商人を追い出されました。
これは、当時の神殿体制を批判する、象徴的な行為でした。
商人たちが売っていたのは、神殿で礼拝を献げる時に、犠牲として献げられていた動物でした。
マルコによる福音書では、鳩だったと書いています。
当時の礼拝は、今と違って、犠牲を献げることが中心でしたから、犠牲の献げものがないと、礼拝できないわけです。
家から、献げものを持って来れる人はいいですが、遠くから神殿に来る人たち、いわゆる巡礼の旅をしてくる人たちにとっては、とても大変なことでした。
それで、その人たちのために、犠牲の動物が売られていたわけですが、そんな神殿のことを、イエス様は、「強盗の巣」と言われいました。
きっと、法外な値段で売られていたんでしょう。
神殿の外で買えば、安く手に入れられるようなものを、礼拝用の動物ということで、法外な値段で売っていたのかもしれません。
そのように、商売人たちは、礼拝を献げる人々の信仰心を利用して、金儲けをしていたわけです。
さらに、その利益は、神殿を取り仕切る人々の懐にも入っていました。
もちろん彼らは、神殿の中で、商売している人々がいたことを知っていました。
でも、咎めることはありませんでした。
なぜなら、その商売によって、神殿が、神殿を取り仕切る人々の懐が、潤っていたからです。
当時の神殿は、そうやって回っていたのです。
イエス様は、そんな神殿を、「強盗の巣」と呼びました。
「祈りの家」と呼ばれるべき神殿を、「強盗の巣」にしてしまっていると言って、厳しく批判しました。
これは、商売人たちだけでない、当時の神殿体制そのものに対する、強烈な批判でした。
そうやって、エルサレムに入っていったイエス様は、毎日のように神殿の境内で教えていました。
民衆たちは、その教えに聞き入っていたと、聖書には書かれています。
神殿体制を批判し、勝手に振る舞うイエス様が民衆に支持されている。
これは、神殿を取り仕切っている人たち、祭司長や律法学者たちにとっては、まずいことであったわけです。
祭司長や律法学者たちは、どうにかしなければいけないと、危機感を募らせていました。
どうしたら、イエス様を陥れることができるか、思い巡らしていたわけです。
今日の箇所には、そんな彼らが遣わした回し者たちと、イエス様とのやりとりが記されています。
・
20節
「そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。」
祭司長や律法学者たちは、「正しい人を装う回し者」要するに、スパイを、イエス様のもとに送り込むわけです。
敵であることを隠して、イエス様に従う弟子のふりをして、彼らは、イエス様に近づき、話しかけます。
21節
「回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。」
さも、イエス様を信奉する弟子のような言い方ですが、そんなふうに近づいて、彼らは、イエス様を陥れるための罠を仕掛けるわけです。
22節
「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
回し者たちは、イエス様を陥れるために、「皇帝に税金を納めることは律法に適っているか」と質問をしました。
もちろん、答えなど求めていません。
この質問は、イエス様を陥れるための罠でした。
なぜ、この質問が罠となるのか。
それは、どう答えても、イエス様に不利に働くよう仕組まれていたからです。
この問いは、当時、ユダヤ人を二分していた問いでした。
ユダヤ人の中でも、特に、律法に厳格な人たちは、ローマ皇帝に税金を納めることを律法違反だと考えていました。
それは、ローマの支配に屈することであり、ローマの奴隷になること。
ひいては、ローマ皇帝を崇拝することだと考える人もいました。
当時使われていたお金。
デナリオン銀貨ですけれども、そこには、何が書かれていたか。
24節で、イエス様が、質問されていますが、そこには、ローマ皇帝の顔と、ローマ皇帝の名前が彫られていました。
しかも、単に名前が書いてあったのではなく、そこには、「神の子」と記されていました。
ただの貨幣ではなく、「皇帝は神である」という宗教的な主張を持った貨幣だったのです。
当時は、そんなお金が使われていたわけですが、ユダヤ人にとって、それは、屈辱的なことでした。
ローマ皇帝を崇め奉るようなお金を使わなくてはならない。そうしなければ、生活していけない。
十戒の第一戒には、「わたしをおいてほかに神があってはならない」と記されています。
申命記17章15節にも、「必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない」と記されています。
ユダヤ人たちは、デナリオン銀貨を使うたびに、王でないものを王にしてしまっている。
律法に背いていてしまっている。
そういう負い目を負わされていたのです。
そんな状況の中で、さらに民衆たちを苦しめていたのが、税金でした。
人頭税、土地税、家屋税、さらに通行税、市場税、港湾税。
ありとあらゆるものに税金がかけられ、それが、人々の暮らしに役立てられるならまだしも、奪うばっかりで、人々の生活は、苦しくなる一方でした。
抵抗する人たちによって、各地で、暴動も起こっていました。
民衆たちの中には、そのような支配からの解放を、イエス様に期待する人々もいました。
税金を納めることを肯定した場合、彼らの支持を失うことは、明らかです。
彼らを敵に回すことになって、命を狙われるなんてことも考えられます。
でも、だからと言って、律法に適っていないと答えたら、今度はローマを敵に回すことになります。
皇帝に対する反逆罪で、訴えられることになります。
それは、祭司長たちの狙っていたことでした。
このように、回し者たちが持ってきた問いというのは、どう答えても、イエス様に不利になるように、仕組まれていたわけです。
・
これに対して、イエス様は、どうお答えになったか。
一方では、反ローマ派の人たち、もう一方では、親ローマ派の人たち。
両者からの視線が注がれる中で、イエス様は、どうお答えになったか。
23節
20:23 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。
イエス様はすでに、彼らのたくらみをご存知でした。その上で24節
20:24 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、
20:25 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
皇帝の肖像と銘が刻まれたデナリオン銀貨を見せながら、まずイエス様は、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われました。
これは、納税を認めるどころか、積極的に勧めているとも取れる発言です。
民衆たちの顔色が、一瞬曇ったかもしれない。
でも、それで終わりではありません。
続けてイエス様は、「神のものは神に返しなさい」と言われました。
皇帝のものと、神のものを分けて、返答された。
そこには、暗に、皇帝は神ではないというメッセージが、込められています。
皇帝のものは皇帝にと言うことで、皇帝の権威を、ある程度認めつつも、神のものは神にと言うことで、皇帝は神ではないということを語られた。
ローマの支配は認めつつも、その支配は、絶対でもなければ、永遠でもないということを、暗に語られたわけです。
この答えに、回し者たちは、何も言えませんでした。
イエス様は、うまく、彼らの罠を逃れたわけです。
でも、単に逃れたというので、終わらさせてはいけない。
このイエス様の言葉には、私たちにとって、大切なメッセージが込められています。
このイエス様の言葉を思います時に、私は、「バプテストの父」と言われた、トマス・ヘルウィスの言葉を思い出しました。
私たちの教会が掲げています「バプテスト」というのは、プロテスタントの一教派の名前ですが、その歩みは、17世紀、イングランドで始まりました。
当時、イングランドでは、政治と宗教が一体となって、国王が、人々を支配する体制が、つくられていました。
国王の想い一つで、聖書の解釈も、祈りの言葉も変えられてしまう。
それに従わなければ、国家権力でもって、人々を捕え、処刑していくというような、そんなことが行われていたわけですが、
これに抗って、聖書の示す真の教会を求めて、国教会を出て、自分たちの教会をつくったのが、バプテストの先達たちでした。
そして、その最初の指導者の一人であったのが、トマス・ヘルウィスでした。
彼は、国の迫害から逃れるため、一度はオランダに逃れますが、迫害覚悟で、祖国イングランドに戻り、バプテスト教会を始めました。
わずか10名ほどの群れであったと言われていますが、キリストの教会として、何一つ欠けたものはないと信じて、歩みを始めました。
その時に、ヘルウィスは、「邪悪のミステリー」と題した一冊の本を執筆し、時の国王であったジェームズ一世に献呈しました。
そこには、次のような言葉が記されていました。
「聴き給え、わが王よ。貧しき者の訴えを軽んじることなく、その嘆きを御前に至らしめて下さい。王は死ぬべき人間であって、神ではありません。ゆえに、王は臣民の不滅の魂に対して、法令を作って魂を服従させたり、彼らの霊的主となる力はないのです。…王は神に従うべきであり、王の貧しき臣民に辛く当たることがありませんように。」
ヘルウィスはその後ただちに投獄され、その4年後に獄中でなくなりました。
しかし、彼の精神は受け継がれ、やがて、「信教の自由と政教分離」の礎となっていきました。
そして、その思想の根底にあったのが、神と、神でないものとの分離でした。
「王は死ぬべき人間であって、神ではない。」
今日の、イエス様の言葉からも、同様のメッセージを、聞き取っていくことができるのではないでしょうか。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」
いかにローマ皇帝であろうとも、その支配は絶対でもなければ、永遠でもない。
やがては死ぬべき、一人の人間に過ぎないと、イエス様は、言っておられるのです。
これは、ローマに服従させられていた人々に、勇気と希望を与える言葉だったのではないでしょうか。
・
この世には様々な力があります。支配があります。
国レベルの大きなものもあれば、小さい交わりの中にも、力があり、支配があります。
でも、それらの権威というのは、絶対的なものではありません。
聖書が語る通り、この世の権威は、必ずや、移り変わっていきます。
時代は変わっていく。
イエス様は、この世にある権威を否定はしていません。
しかし、同時に、この世のあらゆる権威を神の権威と区別し、絶対化せずに生きるようにと、教えています。
現実を受け止めつつも、それに飲み込まれてはいけない。
あらゆる権威に勝るお方、神の存在を、神の支配を、心に覚えておきたいと思います。
そして、この世に生きつつも、神の支配を生きていくものでありたいと願います。
この世のものでありながらも、神のものとして生きていく。
そのように生きる時、私たちは、この世の様々な支配から解放され、自由に生きることができます。
そのような生き方へと、今日私たちは、招かれています。
そのためにも、私たちが覚えておきたいのは、神様を神様とする態度です。
礼拝を大事にするというのもその一つです。
あるいは、聖書のみ言葉を大事にするというのもその一つでしょう。
それが、何よりも、皇帝を神としない、他のものを神としない態度へと繋がっていくのです。
神以外のものを神としないためにも、まず何より、神様を神様としていくということを大事にしていきたいと思います。
そこから、私たちの自由な歩みが始まっていくのです。
お祈りします。