聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書20章27節〜40節。
新共同訳新約聖書150ページです。
20:41 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
20:42 ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。
20:43 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』
20:44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
「期待を超えて」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は、「期待を超えて」という題で、話をしたいと思いますけれども、ところで、皆さんは、アニメが好きですか?
どんなアニメが好きでしょうか?
私も小さい頃からアニメが好きでしたけれども、特に好きでよく見ていたのが、ドラえもんでした。
テレビでも見ていましたし、映画もよく観に行きました。
あれから30年ぐらい経ちましたけど、今も人気で、すごいなと思います。
最近は、インターネットでも観れるようになりまして、たまーに、見ることがあるんですが、見てみると、今も昔も、ストーリーはそんなに変わっていないように思います。
大体、のび太くんが、ジャイアンとスネ夫にいじめられるところから始まって、「ドラえもーん」って言いながら、のび太くんが、ドラえもんのところにやってくる。
「なんか良い道具出してよ!ドラえもん」って、ドラえもんに頼むと、ドラえもんが、道具を出してくれるわけです。
その道具が魅力的で、昔はよく、「ドラえもんがいたらいいな」って思っていましたけれども、
でもね、不思議なことに、ドラえもんって、いつもハッピーエンドとは、限らないんですよね。
ドラえもんはいつも、のび太くんの願い通りに、道具を出してくれるんですが、必ずしも、その道具が、のび太くんを幸せにしてくれるわけではないんです。
有名な話の一つに、「バイバイン」っていう道具の話があります。
どんな話かというと、ある時、のび太くんが、おやつのくりまんじゅうを見ながら、「食べても無くならないようにできなかな」って、言い出すんです。
そこで、ドラえもんが出したのが、「バイバイン」っていう道具だったんですが、
これ、どんな道具かというと、5分ごとに、倍にしてくれる道具なんです。
一つのものが二つに、二つのものが四つに、そうやって、5分ごとに倍になっていくんですけど、
最初は、増えていくくりまんじゅうを喜んでいたんですけど、すぐにお腹いっぱいになって、食べられなくなるんです。
そこで、お母さんにも分けたり、スネ夫やジャイアンにも分けたりするんですが、それでもどうしても食べられないで、残っちゃうんです。
どうしよう、どうしようって困っている間に、くりまんじゅうはどんどん増えていって、困ってしまったのび太くんは、もう知らないって言って、なんとそのくりまんじゅうを、ゴミ箱に捨てちゃうんです。
するとどうなるか。くりまんじゅうは、どんどん増えて、ゴミ箱を突き破り、部屋の戸を突き破り、とうとう家まで突き破って、それでも増え続けて、大変なことになるっていう、そういうお話なんですが、
そんなふうにね、願いが叶えば必ず幸せになれるかというと、そうでもないってことが、ドラえもんの話には、よく出てきます。
これは、今日の聖書のメッセージにも通じることだと思います
今日の聖書の箇所には、ユダヤの人々の願いが書かれています。
イエス様の時代、ユダヤの人々が願っていたのは、ローマの支配からの解放でした。
ローマという敵をやっつけて、自分たちを救ってくれる救い主を、人々は期待していました。
そんな人々に、イエス様は、それでいいのって、言ったんです。
ローマをやっつけて、今度は自分たちが、支配者になって、それでいいの?
それじゃあ、ローマと同じになっちゃうんじゃないの?
願いが叶えば、幸せになれるかというと、そうでもない。
私たちの願いは、決して、完全じゃありません。
神様は、私たちよりも、私たちに必要な物をご存じで、それを用意してくださるお方だって、聖書には書いています。
だから、自分の想いよりも、神様の想いが実現しますようにということを祈りたいと思います。
自分の願いよりも、神様の願いが叶いますようにって、そうやって、祈れる人でありたいと思います。
お祈りします。
・「メシアはダビデの子」
エルサレム神殿にやってきて以来、命を狙う人々と、論争をし続けてこられたイエス様ですが、今日はその論争の最後の場面になります。
そこでイエス様は、「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と言われました。
メシアというのは、ヘブライ語で、救い主、キリストを意味する言葉です。
つまり、「キリストはダビデの子である」ということですが、これは当時、民衆一般に広まっていた信仰でした。
そこには、大きく二つのことが含まれていました。
一つは、キリストが、ダビデの子孫としてお生まれになるということ。
これについては、旧約聖書においても、新約聖書においても語られていることですし、イエス様も、その点、否定されているわけではないと思われます。
問題は、もう一つの点です。
それは、キリストを、ダビデの再来、あるいは、ダビデの後継者として信じる信仰です。
人々は、単にキリストが、ダビデの子孫としてお生まれになるというだけでなく、ダビデの再来、あるいはダビデの後継者として、自分たちを、異邦人の支配から解放してくださる。
そして、イスラエル王国を復興させ、輝かしい時代を取り戻してくださると、信じ、期待していました。
イエス様が問われたのは、この点にありました。
なぜイエス様は、そのことを問われたのか。
そこには、どんなメッセージが込められているのか。
今日は、そのことを話したいと思いますが、そのことを話す上で、まず押さえておきたいのは、そもそもダビデとは、どういう人物であったかということです。
・ダビデとは?
人々が、期待し、待ち望んでいたダビデとは、一体どんな人物だったか。
ダビデは、紀元前1000年ごろ、サウル王につぐ、二代目の王として、イスラエルの王となった人物です。
当時、南北に分かれていたイスラエル民族を統一し、敵対的な異民族をも次々に征服。
イスラエル王国の輝かしい繁栄の礎を築きました。
そんなダビデに、神様は、「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」と約束されました。
その約束通り、ダビデの権威は、息子ソロモンに受け継がれ、彼の時代に、イスラエル王国は栄華を極めます。
イスラエル王国にとって、信仰の中心であった神殿もつくられます。
領土もさらに拡大し、周囲の敵も、イスラエルの支配下にありました。
・滅び、支配、「ダビデの子」待望
しかし、そんな時代も、長くは続きませんでした。
ソロモン王の死後、国は南北に分かれます。
それからは、滅亡への道を歩むことになります。
北王国は、紀元前721年、アッシリアによって滅ぼされます。
ダビデの系図を受け継いだ南王国も、紀元前586年、バビロンによって、滅ぼされてしまいます。
それ以降、イスラエルの民は、大国の支配下に置かれ続けます。
バビロン、ペルシャ、マケドニア、エジプト、シリア、そしてローマ。
政治的・経済的な圧政に加えて、神の民であるはずの自分たちが、異邦人の支配下に置かれ続けるということに、民は、大きな苦しみを覚えます。
でも、同時に、この苦しみは、永遠には続かない。
いつか、神様が、自分たちを救ってくださると、信じていました。
その根拠となったのが、メシア預言でした。
いくつか、そう呼ばれている箇所がありますが、たとえば、イザヤ書9章5節、6節。
9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/ 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱 意がこれを成し遂げる。
あるいは、エレミヤ書23章5節6節、ちょうど今日の聖書教育の箇所でしたけれども、
23:5 見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。
23:6 彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
こういう言葉が、国を追われ、自由を奪われた民に残された希望だったのです。
いつか、この苦しみは終わる。
いつか、自由になれる日が来る。
ダビデの子なるキリストがやってきて、自分たちを苦しめる敵をやっつけてくださる。
そして、もう一度、強いイスラエルをつくってくださる。
人々は、そんな期待を抱いていたわけです。
もちろん、1000年近く前のダビデの時代を知っている人はいませんので、彼らの期待は、想像の世界でしかないわけですが、でもだからこそ、彼らは、想像を膨らませながら、理想の世界を期待していたのです。
みなさんも、過去のことを振り返って、あの頃に帰りたいとか、あの頃は良かったとか言うことがあると思います。
過去というのは、美化されやすいものです。
人間というのは、大変都合の良い生き物でありまして、自分にとって都合の悪い思い出は消去して、都合の良い歴史だけを残そうとする。
そういうところがあると思います。
ダビデの時代もそうです。
ダビデの時代、ダビデの支配も、完璧なものではなかったと思います。
人々が思い描いていた通りの世界ではなかったと思います。
でも、彼らの願いはひたすらに、ダビデ王朝の再来だったのです。
いつか、ダビデの子なるキリストがやってきて、自分たちを解放してくださる。
そして、イスラエル王国を復興してくださる。
人々は、そんなキリストを、待ち望んでいたのです。
・ダビデの主
でも、イエス様は、そんな人々に言われるのです。
20:41 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
20:42 ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。
20:43 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』
20:44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
イエス様が引用されている詩編というのは、詩編110編の1節です。
その見出しには、ダビデの詩と書かれています。
ダビデが歌った歌。
ダビデ自身がつくった詩。
その詩の中で、ダビデがメシアを主と呼んでいるとイエス様は言われます。
42節のところですね。「主は、わたしの主にお告げになった」。
この最初に出てくる「主」は、神様のこと、「わたし」はダビデのことをあらわします。
そして、「わたしの主」これが、ダビデが仕える主人のことですが、父なる神とは違う主がいることを、ダビデが言っているわけです。
この「主」こそ「メシア」キリストです。
父なる神様から神の右の御座に座るように選ばれている「主」がいる。
敵を足台とすることのできる「主」がおられる。
そうダビデは、歌っているわけです。
それなのに、どうしてメシアがダビデの子なのかと、イエス様は言われるのです。
どうして、キリストが、ダビデの子なのか。
キリストは、ダビデの子孫ではあっても、ダビデの再来でもなければ、ダビデの後継者でもない。
それ以上の存在である。
その主なるキリストがもたらす救いも、過去の栄光を取り戻すようなものではない。
キリストのもたらす救いは、人々が期待するような、イスラエル国家に固執した、民族主義的な救いに終わらないのだと、
これは特にルカによる福音書が語っていることですが、
キリストの救いは、イスラエルだけの救いではない。
異邦人にとっても、全ての人にとっての救いであると、そのように言われているのだと思います。
・期待を超えて
つまり、キリストは、私たちの期待に応えるお方ではなく、私たちの期待を超えていくお方であるということです。
もう一度言います。「キリストは、私たちの期待に応えるお方ではなく、私たちの期待を超えていくお方である」。
子どもメッセージで、ドラえもんの話をしました。
時に私たちは、ドラえもんのようなキリストを求めてしまってはいないでしょうか。
私たちの願いを叶えてくれる、私たちの期待に答えてくれる、そんなキリストを求めてしまってはいないでしょうか。
誤った期待というのは、ひっくり返るものです。
今、期待されている人といえば、ドジャースの大谷翔平選手でしょう。
昨日から、ワールドシリーズが始まっておりまして、今日も、第二戦が行われていますが、きっとワールドチャンピオンになってくれるだろう。
しかも、すごいホームランをまた打ってくれるだろう。
昨日は、フリーマン選手が、逆転満塁サヨナラホームランという、それこそ、想像を超えたすごいホームランを打っていましたけれども、きっと大谷選手も、そんなホームランを打ってくれるだろう。
MVPもとってくれるだろう。
そんなふうに期待している人が、多いと思います。
でも、そういう期待が大きければ大きいほど、そうならなかった時の反響もまた、大きいものだろうと思います。
こうしてくれるって信じていたのに、こうしてくれるって期待していたのに…。
皆さんも、きっと、あると思います。
夫婦関係なんかでは特に、多いかもしれません。
こうしてくれるって思っていたのに、こうしてくれるって期待していたのに、全然してくれない。
期待が裏切られと感じて、悲しんだり、落ち込んだり、次第にその感情が、怒りや、憎しみに変わっていく。
それはイエス様に対する、弟子たちも、そうでした。
イエス様がエルサレムにやってきた時、弟子たちは、声高らかに賛美しました。
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。」
そうやって弟子たちは、イエス様に従って行ったわけですが、
しかし、その弟子たちが、イエス様を裏切るわけです。
来週は、いよいよ12弟子の一人であるユダが、イエス様を裏切る場面ですけれども、
おそらく彼らは、信じていたからこそ、裏切ったのだと思います。
仕事も家も、家族もおいてイエス様に従った。
それだけ信じていた、イエス様にかけていた。
なのに、イエス様は一向に、自分たちの求めに答えてくれない。
ローマを倒すどころか、敵を愛し、迫害するもののために祈りなさいと言われる。
そんなイエス様に、自分たちの方が裏切られた、騙されたという想いがあったのではないでしょうか。
イエス様が十字架に架けられ、息を引き取られた時、皆、思ったでしょう。
ああ、違ったんだ。
イエスはメシアではなかったんだ。
落胆したり、怒りを持った人もいたかもしれない。
でも、そうではありませんでした。
イエス様は、彼らの期待を超えて、救いの業をなされました。
その救いは、時代と共に、移り変わるものでもなければ、特定の誰かだけに当てはまるものでもない。
永遠に変わることのない、全ての人のため、全ての被造物ための救いを、成し遂げてくださいました。
そのように、キリストは、私たちの期待に応えるお方ではなく、私たちの期待を超えていくお方です。
だから私たちは、私たちの願いを超えて、神様の御心がなるようにと、祈り求めたいと思います。
私たちの考え、私たちの想いよりも、神の想いが実現することを、求めたいと思います。
そこには、私たちの想いを遥かに超えた、幸せの計画、平和の計画がある。
そのことを信じて、御心を求める者と、なっていきましょう。
お祈りしましょう。