2024年10月20日主日礼拝メッセージ「死んでも終わらないつながり」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書20章27節〜40節。

新共同訳新約聖書150ページです。

20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。

20:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばな らない』と。

20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。

20:30 次男、

20:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。

20:32 最後にその女も死にました。

20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、

20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。

20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。

20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。

20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

20:39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。 20:40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

「死んでも終わらないつながり」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日もまず、子どもメッセージからしたいと思いますが、今日のタイトルは、「死んでも終わらないつながり」です。

「死んでも終わらないつながり」。

これは、誰と誰のつながりのことか、わかりますか?ーこれは、私たちと神様のつながりをあらわす言葉です。

神様と私たちのつながり。

神様と私たちのつながりを考える時に、よくするのが、神様の握手です。

これがその握手ですが、普通の握手とどう違うでしょうか。ーそうですね。普通の握手は、手を握りますが、神様の握手は、腕を掴みます。

神様は、私たちの腕を掴んでおられる。

そうするとどうなるかというと、どんなに私たちが手を離しても、きれなくなります。

普通の握手だと、どちらか一方が手を離すと、つながりがきれてしまいますが、神様の握手はきれない。

神様がつかんでくださっている限り、どんなに私たちが手を離しても、つながりが切れることはありません。

これが、神様と私たちのつながりです。

聖書を読んでいくと、人間がいかに手を離しやすいかということが書かれています。

人間は、何かがあるとすぐに、手を離してしまう。

気に入らないことがあると、すぐに手を離してしまう。

他に興味が湧いてくると、すぐに手を離して、そっちの方に行ってしまう。

そんな弱い私たちですが、しかし、そんな私たちの腕を、神様はちゃんとつかんでくださっている。

どんなに私たちが手を離しても、神様は離さない。

切っても切れないつながりが、ここにはあります。

これが、神様と私たちのつながりです。

今日覚えたいのは、このつながりが、死んでも終わらないということです。

皆さんは、死んだらどうなるかって、考えたことありますか。

私は、小さい頃、死っていうのを、リアルに想像することができませんでした。

小さい頃の私にとって、死は、アニメとか、ゲームの世界のことだったからです。

ドラゴンボールとかよく見ていましたけれども、ドラゴンボールの世界では、死んでも頭の上に輪っかができるだけ。

しかも、この世とあの世を行ったり来たりするし、ドランゴボールですぐに蘇ることもできます。

これは、ゲームの世界でもそうで、死んでもすぐに蘇る。

そのせいかわかりませんが、おじいちゃんの遺体をみた時は、とてもショックでした。

分かってはいたけど、アニメとか、ゲームの死とは全然違う。

硬くなって動かないし、呼びかけても、返事もない。

目の前にいるんだけど、目の前にいないような、不思議な感覚で、とても怖くなったことを、今でも覚えています。

死んだら、どうなるか。

それは、誰にもわかりません。

わからないからこそ、怖いってことがあると思います。

そんな中で、聖書は、神様とのつながりがあるって教えています。

決して、一人ぼっちになることはない。

神様とのつながりは、死んでも終わらない。

そうやって言ってくれているって、ありがたいことだなって思います。

私たちは、死んでも終わらないつながりを信じることへと、招かれています。

神様とのつながりは、死んでも終わらない。

今日は、そのことを心に留めたいと思います。

お祈りします。

先日来、私たちは、イエス様がエルサレムにやってきた場面を、続けて読んでいます。

エルサレムにやってきたイエス様は、毎日のように神殿の境内で教えていました。

祭司でも律法学者でもないのに、何の権威もないのに、勝手に教えている。

しかも、民衆たちは、その教えに聞き入っている。

このままではまずいと思った祭司長や律法学者たちは、イエス様を陥れるために、刺客を遣わし、意地の悪い質問をぶつけてきました。

今日の箇所にも、その様子が記されています。

今日の箇所には、サドカイ派と呼ばれる人々が出てきます。

彼らは、ユダヤ教の一派で、ファリサイ派と並ぶ2大勢力の一つでした。

ファリサイ派が、農民、商人などの中産階級を代表する人々であったのに対して、サドカイ派の人々は、貴族階級を代表する人々でした。

サドカイという名前は、ダビデの時代の大祭司、ツァドクから来ていると言われていますが、そのように、ダビデの時代から伝統的にエルサレムの神殿の祭司を司る家柄の子孫で、大祭司の家系や地主、有力貴族出身者で構成されていました。

聖書では、祭司長や長老と言われる人々が、サドカイ派の人々です。

ユダヤの最高自治機関であった最高法院も、三分の二は、彼らによって構成されていましたし、そのトップである大祭司も、彼らの中から選ばれました。

いかに彼らが、特権的な地位にあったかということがわかります。

そのようなことも影響していたと思いますが、彼らの信仰は、非常に現世的なものでした。

彼らは、トーラーと言われるモーセ五書のみを、聖典としていました。

聖書の最初に記されています5つの書物、創出レビ民申命記の5つです。

それ以外の書物は認めず、また、天使や霊、復活があることも否定していました。

復活にのぞみをかける必要がないほど、現世の生活で十分満たされることができた、ということかもしれません。

復活信仰というのは、報われない人生を歩んだ人々、このままでは終われない、終わって良いはずがない。

イエス様こそ、まさにその代表でありますが、そういう人々にとっての希望として、信じ、継承されてきました。

そんなことを考えると、貴族階級にあったサドカイ派の人々が、復活を否定していたというのも、よくわかるように思います。

でも、そんな彼らが、イエス様に、復活についての問いを投げかけるわけです。

29節から、

20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。

20:30 次男、

20:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。

20:32 最後にその女も死にました。

20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。

当時は、兄の家系を存続させるために、弟が死んだ兄の妻によって子をもうけるという決まりがありました。

レビラート婚と言われています。

詳しくは、申命記25章に記されています。

家を存続させる。

そのために、多くの女性たちが、好きでもない男性と結婚させられ、子をもうけるよう強いられていきました。

しかも、男の子をもうけるよう、強いられてきました。

しかし、どんなに願っても与えられないこともあるわけです。

そういう夫婦は、神の恵みにあずかることができなかった者として、負い目を感じながら生きなければならないような、そんな社会でした。

そのことで、傷ついている人々が、聖書には、何人も出てきます。

サドカイ派の質問からは、そういう痛みに対する配慮が、全く感じられません。

七人の夫に先立たれた妻の想い。

子を授かることができなかった悲しみや痛み。

そういう者に対する感覚が、全く欠けている。

それは彼らが、イエス様を陥れることだけを考えていたからです。

彼らは別に、答えを求めていたわけではありません。

復活というのが、いかに、愚かな思想であるか。

非現実的な思想であるかということを、イエス様に突きつけ、イエス様に恥をかかせたかった。

七人の夫に先立たれた女性の話は、その手段でしかなかったのです。

そんなサドカイ派の質問に対して、イエス様は、どうお答えになったでしょうか。

34節から

20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、

20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。

20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。

20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。

20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

ここには、二つのことに対する答えがあります。

一つは、34節~36節、そこには、サドカイ派の質問に対する答えがあります。

七人の夫に先立たれた女性は、一体誰の妻になるのかという問いに対して、イエス様は、「めとることも嫁ぐこともない」と言われます。

そこには、この世において負わされてきた義務や責任からの解放があります。

「天使に等しい者」となるということも、語られています。

最初に言いました通り、サドカイ派の人々は、天使の存在も認めていませんでした。

もちろんイエス様は、そのことを知っていたと思います。

知っていてなお、天使のようになると言われたのは、彼らの信仰に対する挑戦であると思います。

この世を前提として、次の世、すなわち神の世、神の世界を、語ることはできないということです。

この世の秩序と神の世の秩序は、違う。

現実世界に囚われていては、神の世界を想像することはできないのだと、そう言われているように思います。

新しい秩序、新しい関係が、そこにはあるということです。

この世においては、敵同士として、競い合ったり、争い合ったりした相手でも、来たるべき次の世では、友として歩むことができる。

そんな希望を持つこともできるかもしれません。

イエス様の答えは、これで終わらず、さらに37節からは、死者の復活そのものの正当性について、お答えになります。

しかも、その根拠として、モーセの「柴」の箇所を引用されています。

モーセの「柴」の箇所というのは、出エジプト記3章のことです。

モーセが、神様と出会って、イスラエルの民を解放するという使命を与えられる箇所です。

大変有名な箇所で、もちろん、サドカイ派の人々も、知っていたでしょう。

そこで神様は、モーセに対して、ご自身のことを、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。

アブラハム、イサク、ヤコブというのは、イスラエル民族の偉大な父祖たちの名前です。

もちろん、モーセの時代には、とっくに亡くなっていた人たちです。

でも、神様は、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」と、過去形で語るのではなく、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形で語られた。

つまり、今もまさに、彼らの神であると言われたのです。

アブラハムやイサクやヤコブは、神にとって、過ぎ去った過去の存在ではない。

今もなお、神は、彼らの神であり、彼らもまた、神の民として存在している、生きているということです。

死者である彼らが生きているということは、すなわち、甦りはあるということだ。

あなた方が、大事にしているモーセ五書にも、そう書いてあるではないかと、そうイエス様は、語られたのです。

今日は、特にこのことを、心に覚えたいと思います。

死んでもなお、神は、私たちの神であり、私たちもまた、神の民として生きていくのだということを。

先に召された方々は、まさに今、その恵みに生かされている者であると、そうイエス様は、教えています。

この世においても、あの世においても、神との確かなつながりの中で、生きる者であることを覚えがなら、新しい一週間の歩みも、神と共に、歩んでまいりましょう。

お祈りします。

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