2024年10月13日主日礼拝メッセージ「でも…、やっぱり独りじゃ生きられない」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、創世記2章18節。

新共同訳旧約聖書3ページです。

2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

「でも…、やっぱり独りじゃ生きられない」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日も、まず、子どもメッセージからしたいと思いますが、

みなさん、お気づきのように、今日は、下関教会の皆さんと一緒に礼拝を献げています。

ちょっと、呼んでみましょう。下関教会の皆さん!

このように、今日は、下関教会の皆さんと一緒に礼拝を献げられることを、感謝したいと思います。

ところで、みなさんは、お互いの教会がどこにあるか、知っているでしょうか?

せっかくなので、どこにあるかぐらいは、覚えておきたいなと思いますけれども、

この地図は、北九州地方連合の教会の地図です。

この星マークが付いているのが、同じ連合で、協力しあっている教会なんですが、まず、大分教会は、どこにあるかわかりますか?ーそう、ここです。

大分教会は、大分県の大分市にあります。

ちなみに大分県には他に、別府国際教会と、臼杵教会があります。

では次、下関教会は、どこにあるでしょう。ー正解は、ここにあります。

下関教会は、山口県にあります。

ちなみに、山口県にも、大分と同じく3つの教会があって、下関教会以外には、小野田教会と、防府教会があります。

さらに、北九州には、21個教会があります。

山口、北九州、大分、全部合わせると、27の教会があって、お互いに、助け合い、祈り合いながら、イエス様のことを伝えています。

これを、私たちは「協力伝道」って言っています。

協力して、伝道する。協力して、イエス様のことを伝える。

それが、協力伝道です。

でも、なんで協力するんでしょうか。

協力って、聞こえはいいですが、簡単なことじゃありません。

みんな、二人三脚ってやったことある?

あれはどうでしょう?走りやすいですか?ー走りにくいよね。

足が絡まったり、もつれたりして、なかなか前に進めません。

一人で走った方がよっぽど早く走れます。

そんなふうに、協力するっていうのは、そう簡単なことじゃありません。

協力するためには、相手のことを考えないといけない。

心を合わせないといけない。

そのためには、話し合いも必要です。

ちょうど明日も、その話し合いがありますけれども、そんなふうに、協力するためには、色々と面倒なことが出てくるわけです。

それでもなお、協力するのは、なぜか。

それは、一つの教会だけでは、立てないからです。

わかりやすいことで言えば、牧師を育てること。

これも、1教会だけじゃできません。

私は今、大分教会の牧師をしていますが、元々は、北海道の札幌にある札幌教会にいました。

そこで育てられ、祈られ、送り出してもらって、牧師になるための学校に行きました。

そして、そこでも、全国の教会の人たちに祈って、支えてもらいました。

そうやって、たくさんの教会の協力によって、牧師は、生まれているんです。

牧師だけじゃありません。

大分教会を今、支えている人たちの中には、私と同じように、他の教会で育てられて、この大分教会に来られた方々がたくさんいます。

そう考えると、今の大分教会があるのは、たくさんの教会のおかげだということがわかると思います。

確かに、協力するのは大変です。

でも、一つの教会だけでは、立てない。

これは、私たち、一人一人も同じです。

今日の聖書の箇所には、「人が独りでいるのは良くない」って書いてあります。

私たちも、決して、独りでは生きられません。

多くの人たちの支えによって生きています。

助けてもらうことや、支えてもらうことは、決して恥ずかしいことじゃありません。

生きていくために、必要なことです。

だから、独りで生きようとしない。

誰かを頼ること、助けてもらうこと。その大切さを、今日は、覚えておきたいと思います。

お祈りしましょう。

今日の説教題は、「でも…、やっぱり独りじゃ生きられない」とさせていただきました。

「でも」から始まるというのが、みそなんですが、

ご存知ように、「でも」というのは、接続詞です。

接続詞というのは、文章と文章をつなぐ、役割を担う言葉です。

ですから、本来であれば、説教題の「でも」の前には、何か別の文章があるべきなんですが、

ちょっと考えていただきたいと思います。

どんな文章が来ると思いますか。

「でも、やっぱり独りじゃ生きられない」の前にくる文章。

どんな文章が来るでしょうか。ー「独りの方がいい」「独りの方が楽」「独りになりたい」そんな文章を、私は、思い浮かべていました。

皆さんは、どうでしょうか。

今日、選ばせていただきました聖書の箇所には、「人が独りでいるのは良くない」と書いてあります。

でも、「独りの方がいい」「独りの方が楽」「独りになりたい」、そんなふうに思っておられる方は、いないでしょうか。

今の時代、「一人焼肉」や「一人カラオケ」など、一人で行動することを楽しむ風潮が広がっています。

皆さんの中にも、「一人焼肉」や「一人カラオケ」が好きだという方、いらっしゃるかもしれません。

先日テレビを見ていましたら、友達と、わざわざ集合して、「一人カラオケ」をしているという人がいるということを聞きまして、びっくりしました。

わざわざ友達と集まっているのにですね、別々の部屋に入って、「一人カラオケ」をする。

「じゃあなんで集まるの?」って思ってしまいましたが、でも、一人カラオケの魅力も、なんとなくわかるように思います。

まずなにより、気を遣わなくていいってことがあると思います。

友達と言っても、気は遣うものです。

盛り上がる曲を入れた方がいいかなとか、連続で入れたら、嫌われるかなとかですね。

上手く歌わなきゃいけないっていうのも、嫌ですね。緊張してしまいます。

それに、歌いたい曲を、誰かに歌われてしまう、なんてこともあるかもしれない。

「ああ、あの曲、歌いたかったのに・・・」って、ストレス発散にきたのに、かえってストレスが溜まってしまうなんてこともあるかもしれません。

その点、一人であれば、何も気にせず、自由に、自分のペースで歌うことができます。

そのように、「一人〇〇」が広がっている背景には、一人が楽。

自分のペースで、好きなようにできるというのがあるのだと思います。

誰かに合わせる必要もないし、気を遣う必要もない。

子どもメッセージで、二人三脚の話をしましたけれども、あれは、まさに、協力することの大変さを教えていると思います。

二人三脚で走るためには、相手と歩幅を合わせないといけない。

出す足も、揃えないといけない。

そういう煩わしさを避けて、自分のペースで、自由にやりたい。

そういう想いが、「一人〇〇」には、あるんじゃないかと思います。

でも、神様は、「人が独りでいるのは良くない」と言われるんです。

なぜか。独りでは生きられないからです。

人間は、独りでは生きられない。

これは、聖書の創造物語の中に、確かに、語られていることです。

皆さんは、聖書の中に、天地創造の物語が、二つあるというのをご存知でしょうか。

一つ目の天地創造は、創世記1章に記されています。

皆さんよくご存知だと思います。

「初めに、神は天地を創造された」から始まって、神の安息で終わる一週間の創造物語。

これが、第一の創造物語です。

第二の創造物語は、2章4節の後半から始まります。

今日読んでいる箇所も、その一部ですが、この二つの創造物語に共通していること。

それが、人間の弱さであると思います。

第一の創造物語を読むと、人間は、全被造物の中で、一番最後に、つくられています。

光をつくられ、空と海をつくられ、大地をつくられ、そして、そこに生きる生き物たちをつくっていかれて、最後に、人間がつくられている。

なぜか。

それは、人間が、自然なしでは生きられない弱い存在だからです。

第二の創造物語もそうです。

2章7節「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と記されています。

神様によって、息を吹き入れてもらわないと、生きられない。それが人間だということです。

確かに、赤ちゃんの一呼吸目は、吸うことから始まるそうです。

空気を吸って、肺が開いて、呼吸できる状態になるそうですけれども、

そのように私たちは、神様から、命の息を吹き入れてもらわなければ、生きられないということです。

そして、それに加えて、今日の箇所。

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と神様は言われます。

人間には、助ける者が必要なんだ。

助けられなければ、生きられない。

そういう弱い存在として、つくられたんだということです。

これは、現実問題、そうだと思います。

私たちは、人やもの、自然に助けられながら、日々生きています。

それがなければ生きられない。

つまり、人やもの、自然に、依存しながら生きる存在であるということです。

今、「依存」と言いましたけれども、「依存」と聞くと、良くないイメージを持たれる方が多いかもしれません。

何にも依存せずに、自分の力で生きる。

それが自立であって、そういう自立した人間になることが良いことだと、そう考える人が多いと思います。

でも、果たしてそんな人、いるのでしょうか。

誰にも頼らず、自分の力で生きている人、そんな人いるでしょうか。

医師であり科学者の熊谷晋一郎さんは、「自立は依存の反対語ではない。むしろ、依存先を増やすこと。それが自立なんだ」と仰っていて、ハッとさせられたことがあります。

「自立は依存の反対語ではない。むしろ、依存先を増やすこと。それが自立なんだ」

そう考えるようになったきっかけは、東日本大震災だったそうです。

熊谷さんは、幼い時の病気で、脳性麻痺がありまして、車椅子生活をされているんですが、東日本大震災の時、ビルの5階にいたそうです。

早く逃げなきゃと思って、エレベータに行ったけれども、動いていない。

一方で、歩ける人たちは、階段を使って、逃げていく。

その様子を見た時に、「ああ、あの人たちは、階段に依存できる人たちなんだ」「階段を頼れる人たちなんだ」ってそう思ったそうです。

その時に、自立した人っていうのは、何にも依存しない人じゃなくて、むしろ、たくさんの依存先を持っている人たちなんだって、そう気づいたんだそうです。

エレベーターも使えるし、階段も使える。万が一の時には、ハシゴを使うこともできる。

そういうたくさんの選択肢を持っている人。

それはつまり、たくさんの依存先を持っている人ということですけれども、そういう人が、自立した人なんだということです。

自立ということを考える時に、私たちは、誰の力も借りず、自分の力だけで立つことだと思いがちですが、それは、非現実的な考え方で、実際には、依存先を多く持っている人、それが自立した人なんだということです。

大事なのは、誰にも依存しないことではなくて、むしろ、依存先を増やすこと。頼れる相手を増やすことなんだ。

このことについては、私自身、間違ってきたなと思うことが多々あります。

自分でやらなきゃ、自分で頑張らなきゃ、そうやって自分で抱え込んでしまうことがよくあります。

でも、その先に待っているのは自立ではなく、孤立です。

本当の自立というのは、自分の力だけで頑張ることではない。

むしろ、誰かを頼ること。依存できる先を多く持っている人、それが自立した人なんだということです。

どうでしょうか。皆さんには、頼れる人がいるでしょうか。

困ったことがあった時、相談できる人はいるでしょうか。

腹が立つことがあった時、愚痴をこぼせる人はいるでしょうか。

いたとしても、それが一人の場合、その人に強く依存することになります。

その人がいなくなってしまったら、たちまちピンチに陥る。

そういう相手とは、健全な関係を築くことは難しいです。

たとえば、私は、高校時代、野球部に所属していましたが、最初、誰も知っている人がいなくって、唯一頼れたのが、同じクラスのA君だけでした。

彼がいなくなると困る。そう思うと、彼の顔色が気になってくるわけです。

「彼に嫌われないように」無意識にも、彼と同じ行動をとるようになってくる。

彼がこっちに行ったら、自分もそっちに行き、彼が向こうに行ったら、自分も向こうに行く。

そうやって、気づいたら、彼に支配されるようになっていたわけですけれども、

しかし、時間が経つにつれて、彼以外にも頼れる人ができてくるわけです。

そうすると、自然と、彼の顔色を伺うこともなくなって、自由になることができました。

そのように、健全な関係を築いていくためにも、依存先を増やすことが大事だということです。

今日の箇所に、「彼に合う助けるものを造ろう」っていう言葉がありますが、この「彼に合う」というのは、性格が合うとか、趣味が合うということではありません。

本来の意味は「向き合う者」で、「対等な者」を意味する言葉だそうです。

この対等な者、対等な関係を築いていくためにも、依存先がたくさんあるというのは、大事なことです。

依存先を増やしていくこと、頼れる相手が増えることを通して、私たちは、自由に、自立的に、そして、健全に生きていくことができる。

それが、創造の秩序に適った生き方なのだと思います。

ただし、忘れてならないのは、頼る相手もまた、同じ弱さのある人間だということです。

頼ることもあれば、頼られることもあるでしょう。

傷つけてしまうこともあれば、傷つけられることもあるでしょう。

「絆にはキズがともなう」東八幡教会の奥田知志牧師がよくおっしゃっていますけれども、本当にそうだなと思います。

最初に言いました通り、人間関係というのは、時に、煩わしいものです。

私たちには、一人になる時間が必要です。

でも、やっぱり人は、独りでは生きられない。

傷つきながらも、煩わしい思いをしながらも、それでも、やっぱり私たちは、他者を必要としている。

煩わしさや傷を覚悟で、それでも誰かと一緒に生きていこうとする、その一歩一歩を、神様は、支えてくださいます。

インマヌエル。神は、我々と共におられる。

「我々」ということは、つまり、私と他者の中に、共にいてくださるということです。

神様は、私たちの関係の中に、共にいてくださいます。

人間関係は脆く、破れやすいものですが、神様がその間にいて、結び合わせてくださる。

誰よりも、この神様に信頼して、共に生きる者となっていきたいと思います。

何より、私たちには、神様という依存先がある。

私たちの間にいて、私たちが離れないように、とりなしてくださっているお方がいる。 その恵みを何より心に覚えながら、共に生きる者となっていきましょう。

お祈りいたします。

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