聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書13章18節〜21節。
新共同訳新約聖書135ページです。
13:18 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
13:19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
13:20 また言われた。「神の国を何にたとえようか。
13:21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
「神の国の広がり方」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・祈り
2024年、新しい年になりました。
心機一転、また新しく、歩み出していきたいと思いますが、新年早々、悲しいニュースが続いています。
能登半島で、最大震度7という、最大規模の地震が発生し、死者126名、安否不明者が210名ということです。
また、その被災地に支援物資を運ぶ予定だった海上保安庁の飛行機が、他の飛行機と衝突し、5名の方々が亡くなられたということもありました。
亡くなられた方々の魂の平安と、これ以上被害が広がらないこと、必要なところに助けが届けられることを祈りたいと思います。
また、支援の呼びかけが整いましたら、お知らせしたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
被災された方々のことを祈りに覚えつつ、今年も、み言葉に聞いていきたいと思います。
・神の国のたとえ
今日の聖書の箇所には、イエス様が語られた神の国の話が記されています。
神の国とは、その名の通り、神様の国、神様が考えておられる理想の世界のことです。
それは、イエス様が語られたことの中でも、非常に大切なテーマでした。
神の国とはどういうものなのか。
どのようにして、実現していくものなのか。
今日の箇所にも、そのことが教えられています。
今日の箇所では、特に、神の国が、からし種とパン種に似ていると言われています。
イエス様はよく、神の国を、聴衆にとって身近なものにたとえて語られますが、今日の箇所では、からし種とパン種にたとえて、語られています。
この二つは、当時のパレスチナに生きる人々にとって、大変身近なものだったと言われています。
からし種とは、クロガラシの種子のことで、パレスチナ・シリア地域では、よく栽培されていたと言われています。
パン種は、発酵したパン生地のかけらのことで、それを新しい生地に混ぜて焼くと、全体が膨らみ、ふっくらとしたパンになります。
イエス様は、そのからし種とパン種に、神の国がよく似ていると言われました。
そこには、どんなメッセージが込められているのでしょうか。
ご一緒に考えてみたいと思います。
・からし種とパン種の共通点
まず注目したいのは、からし種とパン種の共通点です。
この両者には、共通点が少なくとも二つあります。
一つは、目に見えないところから大きくなっていくこと、もう一つは、混ざり合いながら大きくなっていくことです。
両方とも、大きくなっていくというところがポイントで、イエス様は、からし種とパン種を用いて、神の国がどのように大きくなっていくのか、どのように広がっていくのかを教えておられるということがわかります。
二つの仕方で、大きくなっていく。
一つは、目に見えないところから大きくなっていく。
もう一つは、混ざり合いながら大きくなっていく。
この二つのことに注目しながら、神の国がどのように大ききくなっていくのか、聞いていきたいと思います。
・①目に見えないこと
まず一つ目の目に見えないところから大きくなっていくということですが、からし種は、パレスチナ・シリア地域で栽培されていた種の中で、最も小さい種類だったと言われています。
その大きさは、約0.5ミリ。
1ミリもないほどの大きさです。
私も、実物を見たことがありますが、手で取った瞬間、見えなくなってしまう。
一度地面に落ちたら、どこに落ちたかわからなくなる。
それほど、小さい小さい種です。
そんな目に見えないほど小さい種ですが、成長すると3m~5mほどの灌木になり、大きな藪になります。
仮に5mとすると、種の大きさの1万倍ということになります。
からし種には、それだけの成長する力があるということです。
目に見えないという意味では、パン種も同じです。
パン種の場合は、目に見えないほど小さいわけではありませんが、パン生地に練り込まれていくことで、目に見えなくなります。
イエス様は、「三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」と言われていますが、この混ぜると訳されている言葉は、「隠す」という言葉だそうです。
パン生地に隠れて、見えなくなってしまう。
それがパン種だということです。
しかし、これも、からし種と同じように、見えないところで効力を発揮し、やがて大きなパンになります。
このパン種、あるいはからし種と、神の国が似ていると、イエス様は言われます。
それは、神の国も、見えないところから、大きくなっていくということです。
からし種やパン種のように、神の国も、最初は、目に見えないものである。
目に見えないというのは、気づかないと言い換えてもいいかもしれません。
日常、気づかずに通り過ぎてしまうような出会いや出来事、子どもたちが発するような小さな声の中に、神の国の種はあるということです。
そして、そこから、神の国は大きく広がっていくのだということです。
ここから、与えられるメッセージ。
それは、些細な出会いや出来事、小さな声を大事にするということです。
忙しい時や慌ただしい時、つい通り過ぎてしまうような出会いや声を大事にするということです。
そのことを思いますときに、私は、この地域にお住まいのあべさんとの出会いを思い出します。
3年前、ちょうど新型コロナウイルスの流行が始まった頃、その出会いは与えられました。
当時は、祈祷会もお休みで、教会活動は礼拝だけという状況でした。
正直、私も、非常に暇でした。
そんな中、テレビで、ワクチン接種の予約ができないというニュースが流れていました。
予約の受付は電話とインターネットで行われていましたが、電話は繋がらないし、インターネットから予約するのは難しいということで、多くの高齢者が困っているというニュースでした。
私は、時間がありましたので、自治会長に、インターネットの予約のお手伝いならできますよと、連絡しました。
そのときに来てくださったのが、あべさんでした。
結局、インターネットでも予約が埋まっておりまして、何のお手伝いもできなかったのですが、そこから、あべさんとの関わりが始まりまして、あべさんは、私が暇な人間だと思ったようで、ことあるごとに、私に声をかけてくれるようになりました。
実際、当時私は、時間がありましたので、一緒に釣りに行ったり、一緒にお茶をしたりしました。
その交わりの中で生まれたのが、クリスマスコミュニティーコンサートでした。
先日のコンサートで3回目になりますが、毎年、満員御礼で、多くの地域の方々が集まってくださっています。
神の国の種は、あべさんとの出会いの中にも、撒かれていたのだなと、思わされます。
もし私が忙しかったら、あべさんのお誘いに応えてはいなかったかもしれません。
そういう些細な出会い、交わりの中に、神の国の種は撒かれているのです。
普段私たちが、気づかずに通り過ぎているような出会いや出来事、小さな声を大切にしたいと思います。
そこから、神の国は、大きくなっていくのです。
これが1つ目のメッセージです。
・②混ざり合いながら大きくなっていく
それから、もう一つ、注目したいポイントがあります。
それは、混ざり合いながら大きくなっていくということです。
からし種も、パン種も、混ざり合いながら大きくなっていきます。
先ほども言いました通り、からし種は、目に見えないほど小さい種ではありますが、非常に生命力が強く、野生化してところ構わず育ち、広く拡散していく植物だそうです。
私たちがよく知っているもので言えば、スギナとか、ドクダミのように、一度生えると、どんどん繁殖していく、厄介な植物です。
農地などに繁殖すると、作物をだめにしてしまう危険もあり、繁殖すると、完全に取り除くことは、不可能だと言われています。
そのようなことが起こらないために、からし種には、植える場所を規制する律法があったそうです。
畑で他の穀物から離して植えるのは許されていますが、庭は狭いので、境界線を保てないため、植えてはならないとされていました。
からし種は、すぐに境界線を破り、異なる種と混ざってしまい、自然の秩序を侵す危険で厄介な植物だということで、不浄なものという否定的なイメージもありました。
ですから、神の国を語るのに、からし種が用いられるのは、常識を覆すことだっただろうと言われています。
実は、これは、パン種も同じで、パン種も、不純物とか、不浄なものというイメージがあったようです。
そもそもパン種は、発酵したものでありまして、腐敗のイメージがありましたし、
さらにそこに、イスラエルの民がエジプトから脱出する時、パン種を入れないパンを持って逃げたということがありました。
パン種を入れて、発酵させるのには時間がかかります。
エジプトから脱出するときに、そんなことをしている時間はなかったわけで、それで、パン種を入れないパンを持って逃げるよう、神様はお命じになったのですが、それ以来、パン種は、宗教的にも、不浄なものというレッテルがつけられるようになりました。
ですから、パン種を用いて、神の国を語るというのも、非常に、衝撃的なことだったと思います。
イエス様は、あえてそのような否定的なイメージのあるものを用いて神の国について語られました。
それらが混ざり合うことを通して、神の国が広がっていくのだと、語られました。
これは、私たちの思い描く、神の国の広がり方を、覆すものだと思います。
つまり、神の国は、汚れや不純物が徹底的に取り除かれた先にあるのではないということです。
むしろ、そういうものが混ざり合い、交わり合う中に、育まれていくものなのだということです。
神の国と聞くと、汚れや罪が全くない、清く正しい世界だと思ってしまいます。
そして、そのような世界の広がり方は、汚れや罪を排除していくような、そういう仕方で広がっていくのだと思ってしまいますが、そうではないということです。
むしろ、そういう汚れや罪が混ざり合い、交わり合う中に、育まれていくものなのだと言われているのです。
これは、現実社会でも確かにそうで、清く正しく美しい、そんな完璧な人間像を求める集団の中には、入っていきにくいものです。
そういう集団は、意図しなくても、弱さや汚れを排除していきます。
イエス様が生きられた当時のファリサイ派の人々と、イメージが重なります。
罪や汚れを遠ざけて、そういう人々と交わらずに、正しさや、宗教的清さを保とうとする。
彼らは、そうやって、神の国の到来を待ち望んでいたわけですが、イエス様は、そうではないと言われるのです。
罪や汚れ、弱さ、そういうものが、混ざり合い、交わり合う中に、神の国は広がっていくというのです。
使徒パウロが残した手紙の中に、「正しい者はいない。一人もいない。」という言葉があります。
この言葉が教えているように、人間は、どんなに努力しても、完璧にはなれません。
弱さがあり、ダメなところがある。
でも、そんな私たちが、互いの弱さ、ダメなところを受け入れ合い、交わり合う中に、神の国は広がっていくのです。
パウロは、キリストの体なる教会について語るとき、「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのだ」と語りました。
そういう部分が受け止められ、大事にされていくときに、互いを思いやる心、配慮の心が与えられ、教会は固く結び付けられていくのだと、そう語りました。
これは、大変重要なことだと思います。
教会もそうですし、私たちもそうですが、ともすると、私たちは、完全を目指したくなる。
清く正しく美しくなろうとする。
でも、それでは、神の国は広がらないのです。
そうではなく、むしろ、弱さやダメなところを互いに受け入れ合う。
そして、大事にしあう。
これは、罪を犯して良いというのではありません。
罪はやはり罪であって、改められるべきものですが、それでもなお、罪を犯さずにはいられない。
知らない間にも、人を傷つけてしまったり、踏みつけてしまう。
そんな私たちが、そのダメさを共感し合い、互いに受け入れ合い、交わり合っていく。
そこに、神の国は広がっていくのだということです。
これが、今日、共に覚えたい二つ目のメッセージです。
・結論
今日は、この二つのことを覚えておきたいと思います。
もう一度覚えたいと思います。
1つは、普段私たちが、気づかずに通り過ぎているような出会いや出来事、小さな声を大事にするということ。
もう1つは、弱さやダメなところを、互いに受け入れ合い、交わり合っていくということ。
そうやって、神の国は広がっていくのだということを覚えながら、小さな出会いを大事に、弱さやダメなところを受け入れ合い、共に生きるものとなっていきましょう。
お祈りします。