2023年8月6日礼拝メッセージ「隣る」

お読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書10章25節〜37節。

新共同訳新約聖書126ページ〜127ページです。

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、

10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、

10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

「隣る」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・はじめに

最初に、今日は、時間の都合上、子どもメッセージも大人メッセージも一緒にさせていただきたいと思いますので、ご了承ください。

さて今日の礼拝は、創立記念礼拝です。

大分教会の誕生日と言ってもいいでしょう。

大分教会は、1950年に教会組織をし、大分教会として誕生しましたので、今年で73歳になります。

最初に使っていた教会堂は、こんな建物でした。

アメリカ南部バプテスト連盟よりジュラルミン製の組み立て式教会堂を与えられたそうです。

2代目の教会堂は、こんな建物でした。1968年に建てられました。

そして、今使っています教会堂が、3代目になります。

2006年の10月に建てられましたので、もう直ぐ17年になります。

今年、建物の修繕をする予定ですが、大きな補修箇所もなく、守られていることを感謝します。

このように、この73年の歩みの中で、建物も変わっていますし、その中に集う人たちも変わっています。

しかし、変わることなく、今日もこうして礼拝が献げられ、み言葉が分かち合われていることを、改めて、凄いことだなと思います。

73年の歩みの中には、幾度となく困難な時があったと聞いています。

私は、そのうちの10年しか知りませんが、しかし、この10年の間にも、様々なことがありました。

それを乗り越えて、あるいは引きずりながらかもしれませんが、しかし、今日まで、歴史が紡がれてきたことを、主に感謝いたします。

これからも、変わることなく私たちを導き、養ってくださるイエス様を信じて、共に、歩んでまいりたいと思いますが、

今日の聖書の箇所は、そんな私たちにとって、非常に大切な箇所であると思います。

今日の箇所には、「よいサマリア人のたとえ」と呼ばれるイエス様のたとえ話が記されています。

キリスト教界では、大変有名なたとえ話ですが、このたとえ話には、神様が求める生き方について、語られています。

神様は、私たちに、どのように生きることを求めておられるのでしょうか。

まず、この「よいサマリア人のたとえ」を、紙芝居で、読み直してみたいと思います。

前に紙芝居を写しますので、見ながら、聞いていてください。

「よいサマリア人」

①ある人が旅をしている時、二人の強盗が近づいてきました。

②彼らは、旅人を殴り、持ち物を奪い、ボロボロにして立ち去っていきました。

③するとそこに、身分の高い祭司が通りかかりました。

祭司はぼろぼろになった旅人を見ましたが、道の向こう側を通り過ぎていきました。

④またそこに、先祖代々神様に仕えているレビ人が通りかかりました。

しかし、このレビ人も、旅人を見ながら、道の向こう側を通り過ぎていきました。

⑤3人目に通りかかったのは、旅をしていたサマリア人。

彼は、ボロボロの旅人を見て、かわいそうに思いました。

⑥そこで近寄って、水を飲ませ、傷の手当をし、⑦ロバに乗せて、近くの宿屋につれていき、お世話をしてあげました。

⑧翌日、サマリア人は用事があったので、宿屋の主人にお金を払って言いました。

「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」

これが「よいサマリア人のたとえ」です。

この話をした後、イエス様は「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と律法学者に聞きました。

律法学者は「その人を助けた人です。」と答えました。

イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われました。

「行って、あなたも同じようにしなさい。」これが、今日の話の結論です。

「行って、あなたも同じようにする」とは、よいサマリア人のようにするということです。

それが、御心にかなった生き方、神様の求めておられる生き方だということですが、

しかし、よいサマリア人のようにするとは、どういうことでしょうか。

倒れている人を助けるということでしょうか。

困っている人に親切にするということでしょうか。

もし、そうならば、なかなかハードルが高いなと思います。

倒れている人を助けるという以前に、そんな人と出くわす機会が、そもそもなかなかないからです。

これは、結構、現代的な問題だとも思います。

倒れている人がいないからと言って、助けを必要としている人がいないかというと、そうではありません。

助けを必要としている人は、たくさんいます。

なんなら、みんな、何かしら抱えながら生きています。

何も抱えずに生きている人の方が珍しいと思いますが、それが、わからない。

あるいは、わかりにくくなっている、見えにくくなっているというのが、今の社会の問題なのだと思います。

見た目ではわからない。

一見、何の問題もないように見えて、実は、食べるものがないとか、仕事がない。

親から暴力を振るわれているとか、学校でいじめを受けているとか、介護の課題も、子育ての課題もそうです。

なかなか目には見えにくい。

本当は助けて欲しいのに、助けてと言えない。

本当は話を聞いて欲しいのに、愚痴をこぼせる相手がいない。

本当は大丈夫じゃないのに、大丈夫と言ってしまっている人。

そうやって一人で抱え込んで、苦しんでいる人が、この世の中には、たくさんいるのではないでしょうか。

そういう時代の中で、助けてっていう人を待っていても、なかなか、そんな出会いはないかもしれません。

よいサマリア人のたとえのようなシュチュエーションを待っていても、そんな出会いは、なかなかないでしょう。

それじゃあ、よいサマリア人にはなれないのか。御心にかなった生き方はできないのか。

そうではありません。

一足飛びに、人助けみたいに思うと、難しくなるわけですが、もっと手前に、大事なことがあるように思います。

それは、近寄るということです。

サマリア人は、倒れている人に近寄りました。

祭司やレビ人が道の向こう側を通っていったのに対して、サマリア人は、道のこちら側に渡ってきました。

このことが、大事なのだと思います。

つまり、隣人になるということです。

今日の説教題にしました、隣るということ。隣にいるということ。

それが、今日を生きる私たちにとって、そして教会にとって、大変重要なことなのだと思います。

東八幡教会の奥田知志牧師が、「もうひとりにさせない」という本の中でこんなことを仰っています。

「助けるにも、介抱するにも『道のこちら側を通る』ことから始まる。

『隣人』、この存在こそが、ホームレス状態に置かれた人々が求めていることに他ならない。

訪ねたところで、すぐさま問題が解決するわけではない。

出会ったその日に入居できる家もない。

しかし、そもそも『訪ねる』こと自体に意味があると思っている。

全てはそこから始まる。」

『道のこちら側を通る』ことから始まる。

『訪ねる』こと自体に意味がある。

全てはそこから始まる。

逆に言えば、近寄ることなしには、何も始まらないということです。

近づくこと、隣ること、全てはそこから始まるということです。

助けが必要なのにわからない、わかりにくくなっているということの1番の原因は、距離感なんじゃないでしょうか。

人と人との距離が、遠くなっている。

関係が希薄になっている。

コロナで、より一層その課題が深刻になっているように思います。

先日、ある方の家を訪問させていただきました。

いつも教会でお会いしている方ですが、改めて訪問させていただくと、いろんな話を聞くことができました。

「え、そんなことあったんですか。そんな大変だったんですか」、知らないこと、気づいていなかったことを、色々と聞かせていただきました。

改めて、訪問することの大切さを感じました。

祈祷会では、毎回、聖書の学びの後に、互いの近況を分かち合う時間を持っています。

コロナで、交わりの機会が減っているということで、始めた時間なんですが、これが結構面白くて、参加者の皆さん、いろんなことを話してくださいます。

得意料理を話してくださる方もいますし、夫に置いて行かれたという話をしてくださった方もいます。

絶対に話さないといけないわけじゃありません。

人の話を聞くだけでも大丈夫ですので、ぜひ、参加していただければと思いますけれども、

そのように、近くにいる、一緒にいるだけで、見えなかったことが、見えてくるようになる。

気づかなかったことに、気づけるようになるということが、あるのだと思います。

助けるとか、親切にするとかの前に、まず、どうしたら近づけるのか。

互いの距離感を埋めるにはどうしたらいいのか。

そのことを考えることが、重要なのだと思います。

「よいサマリア人のたとえ」を通して、イエス様が言いたかったことも、そこにあるのだと思うのです。

そもそもこのたとえ話は、イエス様と律法学者とのやり取りの中で、話された話でした。

律法学者は、イエス様に聞きました。

「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

これはまさに、神様が喜ばれる生き方、御心にかなう生き方は何ですかという問いかけです。

この問いに対して、イエス様は、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返しました。

イエス様は、この律法学者が、答えを知っていて試しているのだということに気づいておられたんだと思います。

それで、答えずに、問い返したのだと思います。

その通り、彼は、即座に答えます。

「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

これに対して、イエス様は、「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言われました。

この時点で、もう答えは出ています。

「神を愛し、隣人を愛する」。

あとは、実行するだけだということなんですが、律法学者は、「では、わたしの隣人とは誰ですか」と問うわけです。

隣人とは、誰ですか。

誰を愛したらいいんですか。

どこに行ったら、その人に会えますか。

この問いかけは、隣人を待っている人の問いかけです。

道端に倒れている人との出会いを待っている。

助けてって言われるのを待っている人の問いかけです。

これに対して、イエス様が言いたいのは、待っているんじゃなくて、自分から渡っていきなさいということです。

向こうが近づいてくるのを待つんじゃなくて、あなたの方から近づいていきなさい。

隣人になりなさいということ、隣なさいということです。

「よいサマリア人のようになる」というのは、そういうことだと思います。

これが、私たちに招かれている生き方です。

出会いを待つのではなく、出会っていくということ。

近づいていくということ、隣るということ。

これが、今日の結論、神様に招かれている生き方です。

ただ、このことを考える上で、私たちが忘れてはいけないことが、一つあります。

それは、何よりもまず、イエス様が、私たちの隣にいてくださっているということです。

神の身分を捨て、人となってまで、この世に来てくださった。

そんなイエス様を、人々は十字架に架けて殺してしまうわけですが、それでもなお、イエス様は、共にいてくださっている。

よいサマリア人になろうと思う前に、そのことを覚えたいと思います。

つまり、イエス様こそがよいサマリア人であり、私たちは傷ついた旅人なんだということです。

傷ついた旅人に近づき、隣人になったサマリア人のように、イエス様は、わたしたちのもとに来て、共にいてくださっている。

そのことを、しっかり心に留めながら、私たちも、隣人になっていきたいと思います。

隣る人に、共に生きる人に、なっていきましょう。

お祈りします。

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