聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書10章38節〜42節。
新共同訳新約聖書127ページです。
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
「最も必要なこと」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
1、今日は、「最も必要なこと」っていうお話をしたいと思います。
2、イエス様は、ある村を訪れました。
そこには、マルタとマリアという姉妹がいました。
この姉妹は、イエス様のことが大好き。
特にマルタは、イエス様が来られると喜んで出迎えました。
3、そして、マルタは、イエス様をもてなすために、大急ぎで、家の中を整えます。
片付けをしたり、
4、飲み物や食べ物を準備したり、もう大忙し。ところが・・・
5、マリアは、イエス様のところに座り込んで、話に聞き入っていました。
その姿を見て、マルタは思っていました。
「なんでマリアは何にもしないんだ!私は、こんなに忙しく働いているのに。」
次第に、その怒りは、イエス様にも向けられます。
「イエス様も、イエス様よ。なんで、マリアを注意してくれないの!」
6、とうとうマルタは我慢できず、イエス様に言いました。
「イエス様、マリアはわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。
手伝うように言ってください!」
イエス様が来てくれたことが嬉しくて、喜んでもてなしていたはずのマルタでしたが、そのイエス様に、怒りをぶつけてしまいました。
なんで、こんなことになってしまったんでしょうか。
なんででしょう。
マリアが悪いんでしょうか。
手伝おうとせずに、黙ってイエス様の話を聞いているマリアが、悪いんでしょうか。
マルタは、イエス様に言いました。
「マリアはわたしだけにもてなしをさせている。」
本当にそうでしょうか。
イエス様を迎え入れたのも、もてなしたのも、マルタです。
誰かにさせられたのではなくて、彼女が、進んで始めたことです。
イエス様を迎え入れたい。もてなしたい。イエス様に喜んで欲しい。そう思って始めた。
それなのに、いつの間にか、「させられている」「やらされている」と思うようになってしまった。
ここに、怒りの原因があったんじゃないかと思うんです。
みんなもそうだと思いますが、やりたいと思うことをやっている時は、嬉しいし、楽しい。
でも、やらされている、させられていると思うことは、楽しくないし、嫌だって思うんじゃないでしょうか。
問題は、なんで、やりたくてやっていたことが、させられていると思うようになってしまったかということです。
なんででしょう。
それは、もっとやりたいと思うことに、気付いたからじゃないでしょうか。
マリアが、イエス様のところに座って、話を聞いているのを見て、私も聞きたいって思った。
その瞬間、自分がやっていることが、やりたいことから、やらされていることに、変わっちゃったんじゃないでしょうか。
7、イエス様は、マルタに言いました。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」
イエス様の言う通りだったと思います。
マルタは、心の中で思っていたでしょう。
「マリアと同じように、私も、イエス様の話を聞きたい。
でも、部屋も片付けないといけない。
食事の準備もしないといけない。
あ、飲み物も無くなっている。早く、つぎにいかないと。」
本当は、イエス様の話を聞きたいのに、あれもしないと、これもしないとって、心の中が引き裂かれていた。
そんなマルタに、さらにイエス様は言いました。
「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
この時、マルタの心には、「もてなさないといけない」という想いがあったのだと思います。
イエス様の話を聞きたいけど、もてなすことの方が大事だって、そう思っていた。
そんなマルタに、イエス様は、いやそうじゃないよって。
「お客さんをもてなすことは、とっても大事なこと。
でも、私の言葉を聞くことは、もっと大事なこと。
だから、私の言葉を聞くことを、選んでもいいんだ。」って、そう言われたんです。
マルタと同じように、私たちにも、「しないといけない」と思っていることがあると思います。
宿題もそう。自由研究もそう。家のお手伝いも大事です。
でも、イエス様の言葉を聞くこと。
それ以上に、大事なことはない。
そのためなら、しなきゃいけないと思っていることを、横においてもいいんだって、イエス様は、そう言われているんだと思います。
それぐらい、イエス様の言葉を聞くと言うことは、とても大切なことなんだということです。
なぜか、それは、イエス様の言葉には、私たちが生きるために必要なことがあるからです。
その話は、また、改めてしたいと思いますが、イエス様の言葉は、私たちの命に関わる、大事なことなんだ。
今日は、そのことを、覚えておきたいと思いますし、その大切さに気づくことができるように、祈りたいと思います。
お祈りします。
・
今、話しました通り、今日の箇所には、マルタとマリアの話が記されています。
聖書は、マルタを中心に、話を展開していますが、マリアを中心に、この話を見ていくこともできるでしょう。
イエス様を出迎え、一生懸命もてなすマルタとは違って、マリアは、イエス様の足もとに座って、話に聞き入っていました。
家父長制で、男性中心的な社会の中で、女性が、客のもてなしをせずに、座って話を聞くというのは、非常識な行為だったと思います。
イラっとしていたのは、おそらく、マルタだけじゃなかったでしょう。
マリア自身も、そのことは、よくわかっていたと思います。
でも彼女は、イエス様の足もとで、話を聞くということを選んだんです。
何か選ぶということは、同時に、それ以外のものを手放すということでもあります。
大切なものをいくつも抱えながら、選ぶことはできません。
マリアは、もてなすか、イエス様の話を聞くかという選択を迫られて、イエス様の話を聞く方を選んだのです。
これは、大変覚悟のいる選択だったと思います。
厳しい目で見られたり、厳しいことを言われるのを覚悟して、イエス様の話を聞く方を選んだのです。
・
それに比べて、マルタは、ちゃんと選ぶことができたんでしょうか。
マルタは、イエス様を歓迎し、もてなしました。
それも、彼女の選びだったわけですが、
しかし、そもそも彼女の中に、もてなさずに、イエス様の話を聞くという選択肢があったんでしょうか。
マリアを見て初めて、「え、そんな選択肢もあるの?」って思ったんじゃないでしょうか。
そして、それによって、彼女の心が動揺し始めたのだと思います。
「私も、マリアと同じように、イエス様の足もとで、話を聞きたい。
でも、部屋も片付けないといけないし、食事の準備もしないといけない。」
大切なことがいっぱいで、心が引き裂かれてしまった。
・
そんなマルタに、イエス様は言いました。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」
このことから、まず教えられるのは、抱えすぎると、心を乱すということです。
あれもしないといけない。これもしないといけない。
いくつも抱えていると、心が乱れる。
この心の乱れを解消するためには、選ばないといけない。
選ぶということは、手放すということです。
何かを選びためには、何かを手放さないといけない。
でも、この手放すということは、簡単なことではありません。
私自身、この教会の仕事だけでなく、連盟や連合の仕事もしています。
それも、この教会の牧師として、大切な仕事だと思ってしていますが、
しかし、行事が重なったり、忙しくなってくると、抱えきれなくなってしまうことがあります。
そんな時に、大事なのは、優先順位をつけることです。
何が一番大事か。
優先すべきものがわかっている人は、迷わず選択することができます。
イエス様は、「必要なことはただ一つだけである。」と言われました。
この、必要なただ一つのことを持っている人は、選ぶことができます。
マリアは、それを持っていました。
だから、選ぶことができました。
対して、マルタは、そのことに、気づいていませんでした。
「必要なただ一つのこと」とは、一体なんでしょうか。
私は、命だと思います。生きることだと思います。
そして、そのために、マリアは、良い方を選択したのです。
良い方とは、イエス様の言葉を聞くことです。
イエス様は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。
イエス様の言葉は、私たちが生きるための、エネルギーです。
車がガソリンなしで走れないように、私たちも、イエス様の言葉なしでは走れないんです。
無理に走ろうとすると、壊れてくる。
マルタもそうだったのだと思います。
マルタの心が乱されたのは、大切なものをたくさん持ちすぎたからだということもありますが、
もう一つは、マルタを突き動かしていた力が、無くなってしまったということも、あったのだと思います。
マルタが、イエス様を歓迎したのは、イエス様を心から慕っていたからでしょう。
なぜ、そのようになったのかは、わかりません。
でも、そこには、イエス様との出会い、あるいはイエス様の言葉との出会いがあったのだと思います。
イエス様によって救われた経験、感動、それが力となって、マルタを突き動かしていったのです。
その力が、無くなってしまった。
イエス様の言葉によって突き動かされていたのが、いつからか、義務感、ねばならないで動くようになっていた。
皆さんにも、そういう経験があると思います。
やりたいと思ってやっていたことが、いつの間にか、やらないといけないと思うようになっていた。
教会の奉仕も、最初は、何かできることをしたいと思って始めたけれども、続けていくうちに、義務感が強くなって、なんで私ばっかり、あの人は何もしていない、マルタのような気持ちになってしまう。
そんなことが、あるのではないでしょうか。
ねばならないという義務感から、行動するのか。
イエス様によって救われた。その恵みから、行動するのか。
何から始めていくか、何をエネルギーとしていくかによって、私たちの生き方も、心も、大きく変わっていくのではないでしょうか。
奉仕をすることも、仕事をすることも、子育てや介護をすることもそう。
最も根本的な、生きるということも、イエス様の言葉、恵み、福音から始めていく。
イエス様の言葉には、私たちを生かす力があります。
生きようとか、他者を愛そうとか、奉仕を献げようと、そう思わせる力があります。
その力を受けて始めていく時に、苛立ちや人を裁く思いから解放され、喜びを得ることができるのだと思います。
改めて、イエス様の言葉を聞くこと、そこから始めていくという姿勢を、大事にしたいと思います。
・取り上げられている人を、解放する
最後にもう一つ、これは、教会に言われていることですが、
イエス様は、マルタに対して、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言われました。
必要なことに気づいており、そのために、良い方を選び取りたいと思っていても、時に、それができない人たち。
その機会を、取り上げられている人たちがいます。
私たちは、今日、イエス様の言葉を聞くために、ここに集まっています。
イエス様の言葉を聞くという、生きていく上で最も重要なことが、できている。許されている。
でも、この世の中には、それが、したくてもできない人。
取り上げられている人がいるということを、覚えたいと思います。
仕事や介護、子育てもそう。
病気などは、特にそうです。
手放したくても、手放せない。
そうやって、イエス様の言葉を聞きたくても、聞けない人がいる。
その機会を、取り上げられている人たちがいる。
そのことを、覚えておかねばならないと思います。
本当は、そういう人たちこそ、イエス様の言葉が必要なのだと思います。
イエス様は、そういう人たちとこそ共におられるし、そういう人たちにこそ、み言葉を語っておられる。
どうしたら、その人たちに、その言葉を、福音を、届けることができるでしょうか。
生きることに、思い悩んでいる人。
行き詰まりを覚えている人。
なぜ生きるのか、わからなくなっている人。
そういう人々こそ、イエス様の言葉からやり直していくことが、必要なんだと思います。
どうしたら、そういう人々が、イエス様の言葉に出会うことができるでしょうか。
どうしたら、そういう人々が、イエス様の言葉を選び取っていくことができるでしょうか。
これは、教会に与えられている、大きな課題であると思います。
イエス様の言葉を聞くことの大切さを覚えると同時に、
その大切なものを得る機会を持てずに、苦しんでいる人たちがいる。
そのことに、教会が、どうアプローチしていけるか。
そのことが、問われているのだと思います。
お祈りします。