お読みいたします。
聖書箇所は、イザヤ書2章1節〜5節。
新共同訳旧約聖書1063ページです。
2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
2:2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
2:3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/ 御言葉はエルサレムから出る。
2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
2:5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
「わたしたちはどう生きるか」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は、平和祈念礼拝です。
平和を祈り、平和について考えたいと思いますが、そのために今日は、ある絵本を読みたいと思います。
1、「せかいでいちばんつよい国」という絵本です。
「せかいでいちばんつよい国」と聞いて、皆さんは、どんな国を思い浮かべるでしょうか。
ちょっとそのことを想像ながら、絵本を聴いてみてください。
「せかいでいちばんつよい国」
2、むかし、大きな国がありました。大きな国の人々は、自分たちの暮らしほど、素敵なものはないと、固く信じていました。この国の兵隊は、大変強くて、大砲も持っています。そこで、大きな国の大統領は、いろんな国へ、戦争をしにいきました。
「世界中の人を幸せにするためだ。我々が世界中を征服すれば、みんなが我々と同じように暮らせるのだからな。」
3、他の国の人々は、命懸けで戦いました。けれど、どの国も、最後には負けて、大きな国に征服されてしまいました。
4、しばらくたつと、まだ征服されていない国は、たった一つになりました。あんまり小さい国なので、大統領は、これまで放っておいたのです。けれども、一つだけ残しておくのも気持ちが悪いものです。そこである日、大統領と兵隊たちは出発しました。
5、小さな国についた大統領は驚きました。なんと、この国には、兵隊がいなかったのです。これでは戦争ができないではありませんか。小さな国の人々は、大きな国の兵隊たちをお客のように歓迎しました。大統領は、一番立派な家をもらい、兵隊たちは、あちこちの家に泊めてもらうことになりました。
6、毎朝、大統領は、兵隊たちを連れて家の周りを行進しました。そのあとは、ふるさとに残してきたおくさんと息子へ手紙を書いて過ごしました。兵隊たちは、小さな国の人々と、おしゃべりをし、珍しい石蹴りを教えてもらい、昔話に耳を傾けました。小さな国の歌を習い、冗談を聞いて、笑い転げました。
7、この国では、食べ物も変わっています。兵隊たちは、台所に入って行って、味見をしました。「へえ、おいしい!」他にすることもないので、兵隊たちは、小さな国の人々の仕事を手伝うようになりました。
8、「けしからん!」大統領は、カンカンになって怒りました。すっかりたるんでしまった兵隊たちを国に送り返し・・・、しゃきっとした兵隊たちを呼びました。
9、ところが、しばらくたつと、この兵隊たちも全く同じことになりました。「ふむ、こんなちっぽけな国に、大勢の兵隊はいらないということか。」そう考えた大統領は、何人かを見張りに残して、国へ帰ることにしました。
10、大統領がいなくなると、見張りの兵隊たちは、さっさと普段着に着替えて、野原や畑に飛び出していきました。
11、一方大統領は、兵隊たちを率いて、いつものように勇ましく歌を歌いながら、国に帰ってきました。「世界を救う正義の味方!大きな国は強い国!」
12、なつかしいふるさとに戻った大統領は、ほっとしました。ところが、おやおや、なんだか様子が変です。あちこちの家から、小さな国で食べていた料理の匂いがしてきます。小さな国の石蹴りが流行っています。小さな国の服を着ている人もいました。大統領は、ニヤリと笑いました。「まあ、いいさ。どれもこれも、戦争でぶんどってきたものだからな。」
13、その晩、大統領の息子が「お父さん、歌を歌って」と言いました。そこで大統領は、目をつぶり、心に浮かぶ歌を次々に歌ってやりました。それは一つ残らず、彼が征服した、あの小さな国の歌でした。
これが、「せかいでいちばんつよい国」というお話です。
絵本の中には、大きな国と小さな国が出てきましたが、「せかいでいちばんつよい国」は、どっちだったでしょう。
大きな国には、大きな大砲があったり、たくさんの兵隊がいたりしました。
きっと、「世界で一番強い国」って聞いて、多くの人が思い浮かべる姿だったんじゃないでしょうか。
それに比べて、小さい国には、大砲もないし、兵隊もいませんでした。
戦うまでもなく、大きな国は、小さな国を、征服してしまいました。
でも、本当に征服できたんでしょうか?
絵本を読んでいると、征服されたのは、どっちだったんだろう?って思ってしまいます。
大きな国の兵隊は、みんな、小さな国が好きになっていました。
大統領も、小さな国の歌を歌っていました。
大きな国の人たちは、小さな国に行って、みんな、その心を、変えられてしまったんです。
果たして、どちらの国が、「世界で一番強い国」だったんでしょうか。
みなさんは、どちらの国に住みたいですか。
どちらの国がいいなっておもったでしょうか。
お祈りします。
・平和祈念礼拝
大分教会では、毎年、8月第二日曜日の礼拝を平和祈念礼拝として献げています。
昨年に続き、今年も、ロシアとウクライナの戦争が行われている、その只中での平和祈念礼拝となりました。
戦争が始まって以来、世界中に敵意と恐怖が広がっています。
自分たちの国は大丈夫だろうか。
対岸の火事では済まされない。
そういう不安や危機感を感じておられる方が、大勢いらっしゃるのではないでしょうか。
そのことを念頭におきながら、み言葉に聴いていきたいと思います。
・イザヤは、どんな時代に、何を語った預言者だったか
今日、選ばせていただきました聖書のみ言葉は、イザヤ書2章1節~5節です。
ここに書かれている言葉は、預言者イザヤの言葉です。
と言いましても、イザヤが考えた言葉ではなくて、イザヤに示された言葉です。
預言者というのは、言葉を預かる者と書きます。
神様から言葉を預かって語る者。それが預言者です。
旧約聖書には、そのような預言者が、何人も出てきますが、その中でもイザヤは、最も有名な預言者だといっていいでしょう。
名前を知っている、聞いたことがあるという方も、いらっしゃると思います。
でも、イザヤが、どんな時代に生き、どんな言葉を預かり、誰に対して語ったのかまで、知っておられる方は、少ないのではないでしょうか。
最初に、大まかにですが、その点を押さえておきたいと思います。
イザヤが預言者として立てられたのは、紀元前742年ごろだったと言われています。
その頃イスラエルは、南北に分かれていました。
北は北イスラエル王国、南は南ユダ王国。
イザヤは、南ユダで生まれ、南ユダで活動した預言者でした。
貴族出身で、高い政治的見識を持ち、預言者であると同時に、王の顧問として、王に助言するような立場にもありました。
当時、南ユダは、西のエジプト、東のアッシリアという大国に挟まれ、政治的には、非常に難しい判断を迫られていました。
特に、アッシリアは、紀元前9世紀~8世紀にかけて、大規模な軍事遠征を行い、近隣諸国を支配下に入れていきました。
この脅威に、どう相対するのかということが、喫緊の課題となっていたわけです。
アッシリアと戦うのか、それとも、アッシリアの支配を受け入れるのか。
北部のイスラエル王国は、交戦に出ました。
アラムの国々と手を組んで、反アッシリア同盟をつくりました。
南ユダ王国にも、それに加わるよう求めましたが、南ユダ王国は、参加しませんでした。
勝ち目がないと判断したのです。
そして、アッシリアの支配を受け入れる道を選び取っていきました。
今日の箇所は、そんな南ユダ王国の人々に対して、イザヤが語った言葉です。
・今日の箇所
そこには、イザヤが示された、南ユダの幻が語られています。
それは、終わりの日の幻で、世界中の国々から、多くの民が神の教えを求めて、エルサレムに集まってくる様子が語られています。
2:2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、2:3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/ 御言葉はエルサレムから出る。
大国アッシリアやエジプトに比べれば、南ユダは、実に小さい国です。
しかし、その南ユダに、やがて、世界中の国々から、人が押し寄せて来る。
大河のように、こぞって押し寄せてくる時が来る。
何のために押し寄せてくるかというと、それは、神様の教えを聞くためです。
神様の教え、み言葉を求めて、大河のように、人々が押し寄せてくる時が来ると、イザヤは語ります。
そして、その時、2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
争いを裁かれる。
戦争などするなと、戒められる。
それを聞いて、彼らは、剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
今年も、私たちは、敗戦記念日を迎えようとしていますが、戦時中は、これと真逆のことが行われていました。
鋤を剣に、鎌を槍に打ち直すという時代がありました。
これを、供出というそうです。
農機具や食器はもちろんのこと、お寺の仏像や鐘、教会の鐘も、武器を作るために供出させられたと言います。
学校では、「軍国教育」と言って、戦争に勝つための教育が行われていました。
国語では、お国のために戦って命を落とした兵士たちを讃える物語が教えられました。
体育では、銃剣で人を突く練習が行われていたといいます。
他にも、敵であるアメリカ人とイギリス人は人間ではない。
鬼や獣であるという意味の「鬼畜米英」という言葉を教わったり、万が一相手に捕まったら、死んだ方が良いと教わったりしたそうです。
学校から帰って、友達と遊ぶときも、兵隊ごっこ。
上級生は日本兵、下級生はアメリカ兵になって、戦いの遊びをしていたそうです。
イザヤの生きた時代も、そんな時代だったかもしれません。
生活品は奪われ、武器が作られていく。
人々には戦い方が教えられる。
そんな時代に、イザヤは、今日のみ言葉を示され、人々に語ったのです。
「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」
そんな時代が、いつかくる。
だから、「ヤコブの家よ、南ユダの民よ、主の光の中を歩もう」そう呼びかけるのです。
主の光の中を歩むというのは、主に信頼して、主に従って生きるということです。
大国の脅威を恐れ、大国の支配にひれ伏すのではなく、
神の民として、神を信頼し、神の支配に生きるようにと呼びかけるのです。
今月、読んでいます、交読文「詩篇46編」の作者の言葉と重なって響きます。
「主のなしとげられることをあおぎ見よう。主はこの地をあっとうされる。
地のはてまで、たたかいをたち、弓をくだき、やりをおり、たてをやきはらわれる。
力を捨てよ、知れ、わたしは神。国ぐににあがめられ、この地であがめられる。」
大国の脅威に対する不安をうめるために力を求める。
大国にひれ伏したり、軍備を増強したりする。
そんな民に対して、畏れるべきは大国ではなく神である。
神を畏れ、神を信頼せよ。
大国の支配にひれ伏すのでなく、神の支配に生きろと、イザヤは、そう呼びかけたのです。
南ユダの民や王は、その言葉を、どのように聞いたのでしょうか。
現実離れした、綺麗事。
まさに夢、幻に過ぎないと、そのように受け取ったのでしょうか。
結局、イザヤの声は、王には届きませんでした。
南ユダの王は、アッシリアの支配を受け入れ、大国に依存した政策を選びとっていきました。
・わたしたちはどう生きるか
私たちは、このイザヤの言葉を、どう聞くでしょうか。
昨年12月、防衛費の増額や反撃能力の保有などを盛り込んだ新たな防衛3文書が閣議決定されました。
ロシアによるウクライナ侵攻、中国が台湾に軍事侵攻するのではないかという危機感を背景に、防衛費が増額され、沖縄に自衛隊基地やミサイルが配備されています。
南ユダ王国と同じように、私たちも、不安や恐れを抱いています。
そして、力を求めています。
そうでなければ、大切な人を守れないと思うからでしょう。
何かあった時に、軍隊がなかったらどうするのか?
戦う力がなければ、緊張関係を維持することもできなのではないか。
抑止力とか言いますけれども、そのために力が必要だと考える人もいるでしょう。
そんな私たちはイザヤの呼びかけをどう聞くでしょうか。
「主の光の中を歩もう」というイザヤの呼びかけに、私たちは、どう応えていくでしょうか。
私たちの中にある不安や恐れ、近隣諸国に対する不安や恐れと、どう向き合っていくのか。
力をつけることでしか、不安や恐れを埋めていくことはできないのか。
信頼関係を築いていくことはできないのか。
神を信じて、神に従う者として、私たちは、どのように生きていくでしょうか。
お祈りします。