聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書9章57節~62節。
9:57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
9:59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
「ふさわしい者ではないけれど」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日の聖書の箇所には、イエス様に従うことの厳しさが、語られています。
イエス様には、大勢の弟子がいました。
イエス様の言葉や、イエス様の行いを見て、このお方こそ神の子だって、このお方についていこうって、そういう人たちが、大勢いました。
中でも、有名なのが、弟子のペテロさんです。
ペテロさんは、もともと、漁師をしていたのですが、イエス様に声をかけられて、弟子になりました。
彼は、大勢の弟子たちの中でも、リーダー的な存在でした。
ペテロさんは、イエス様に言っていました。
「どんなことがあっても、私は、あなたについていきます。
たとえ、死なねばならなくなったとしても、あなたのことを裏切ることはありません。」
とても、かっこいい言葉ですが、でも、この言葉通り、イエス様に従っていくことができたでしょうか。
そう、残念ながら、できませんでした。
ペテロさんは、イエス様が十字架に架けられていく時に、「お前も、あいつの仲間だろう。」って言われて、とっさに、「いいや、違う。あんな人は知らない。」って言ってしまいました。
「どんなことがあっても、私は、あなたについていく。
たとえ、死なねばならなくなったとしても、あなたを裏切ることはありません。」
そう言っていたけれど、ペテロさんは、「あんな人は知らない」って言って、逃げてしまいました。
これは、ペテロさんだけじゃありません。
他の弟子たちも、そうでした。
みんな、イエス様を見捨てて、逃げてしまった。
イエス様には、たくさんの弟子たちがいたけれど、最後までイエス様に従った人は、誰も、いなかったんです。
でも、イエス様は、彼らのことを弟子失格だとは、言いませんでした。
復活した後、真っ先にイエス様が行ったのは、逃げ出した弟子たちのところでした。
そして、再び、弟子たちに、声をかけられた。
「大丈夫、あなた方は、きっと立派な弟子になる。」
その言葉を聞いて、弟子たちは、再び、イエス様に従っていきました。
イエス様の弟子たちも、最初から立派な弟子だったわけじゃありません。
みんな失敗して、裏切って、逃げだしてしまいました。
だから、私たちも失敗していいんです。
失敗しても、それを受け止めてくださるイエス様がいる。
イエス様に受け止められて、もう一度、やり直していく。
そうやって、私たちは、成長していくのです。
今日覚えたいのは、失敗しても、終わりじゃないということです。
失敗しても、それを受け止めてくださるイエス様がいる。
そう信じて、何度でも、挑戦できる人になっていきましょう。
お祈りします。
・3人の弟子候補者とのやりとり
今日の箇所には、イエス様と3人の弟子候補者とのやりとりが記されています。
読んでみると、そこには、イエス様に従うことの厳しさや、大変さが語られています。
どんなやり取りが、されているか、一人ずつ、見ていきましょう。
・1人目
1人目の弟子候補者は、自分からイエス様に、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。
非常にやる気を感じる言葉です。
イエス様も、さぞ喜ばれただろうと思いきや、こんなふうに応えました。
58節イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
「人の子」っていうのは、イエス様ご自身のことだと思いますが、つまり、狐や鳥でさえ、帰る場所がある。
安心して眠る場所がある。
でも、イエス様には、枕するところもない。
イエス様の旅路が、いかに厳しく、辛いものであるかを説いている言葉と言えるでしょう。
帰る所も、安心して眠る所もない。
それでも、あなたは、私に従ってくるかという、厳しい問いかけに聞こえます。
このイエス様の言葉に、一人目の弟子候補者は、どのように応えて行ったのでしょうか。
そのことは、何も語られずに、話は、2人目の候補者に移ります。
・2人目
2人目の弟子候補者には、イエス様の方から、「私に従いなさい」と声をかけました。
するとその人は、「まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。
「亡くなった父親を葬って、それから、従っていきます。」ということです。
その順序は、何もおかしいものではないように思われます。
でも、イエス様は、言うのです。
60節イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
「死んでいる者たちに、死者を葬らせなさい。」どういうことでしょうか。
死んだ人たちが、どうやって、死者を葬ることができるのでしょうか。
やはり、死者の葬りは、残された者の仕事です。
日本でも、よく「忌引き」というのがありますけれども、調べてみますと「忌引き」という言葉は、神道に由来する言葉だそうで、神道では、「死は穢れ」とされており、穢れが他の人へうつらないように、周囲と関わることを控え、故人の冥福を祈るようにしていたことが由来だそうです。
今は、そのような宗教的な意味合いよりも、常識として、ごく当たり前になっていますが、
ユダヤ人にとっては、律法に示されている、子どもの果たすべき義務だと考えられていました。
十戒の第5戒に「あなたの父母を敬え」という教えがありますけれども、両親を葬らないのは、その律法に違反する行為だと考えられていました。
ですから、父親を葬りに行くというのは、果たすべき義務でもあったわけです。
イエス様の言葉は、その考えを否定していると取られてもおかしくないほど、過激なものでした。
父親の葬りよりも、神の国を広めることを優先させなさいと言われたのです。
このイエス様の言葉に、彼は、どのように応えたのでしょうか。
・3人目
最後の弟子候補者は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族に別れを言いに行かせてください。」と言いました。
家族に別れを告げる。
これも当然許されることだと思うのですが、イエス様は、言います。
62節イエスはその人に「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
鋤というのは、畑を耕すための道具で、当時は、このように、牛などに引かせて、使われていたそうです。
結構繊細な作業だったようで、ちょっとよそ見をするだけで、進行方向からずれてしまう。
ましてや、後ろを振り返りなどすれば、鋤はとんでもない方向に逸れてしまい、畑は、ぐちゃぐちゃになったそうです。
つまり、ちゃんと前を向いていなければ、目標に辿り着くことはできないということです。
神の国を目指して、従うと言ったのだから、後ろを振り返らず、前だけ見て従いなさい。
そうでなければ、神の国たどりつくことはできない。
イエス様は、そうおっしゃったのです。
これも大変、厳しい言葉です。
家族に別れをいうこともできない。
このイエス様の言葉に、彼は、どう応えたのでしょうか。
・
皆さんは、このやりとりを聞いて、どう思われたでしょうか。
私は、イエス様の言葉を聞きながら、神学部に入学することに反対した親戚のおじさんの言葉を思い出しました。
私は、大学3年生の時に、牧師になるということを決意し、4年生の時に、神学部を受験し、合格しました。
来年からは、いよいよ福岡だと、そう思って準備をしていた時に、小さい頃からお世話になっていた親戚の叔父に呼ばれました。
行ってみると、そこには、正月に集まる親戚たちが、一堂に集まっていました。
その中で、叔父は、私に、「牧師になるために、神学部へ行くと聞いた。
行くのなら、親戚一同と縁を切って行きなさい。
家族とも、縁を切るつもりで行きなさい。
お前が神学部に行くことに賛成している人は、誰もいない。」と言われました。
牧師になるということに、明確に反対したのは、この叔父1人でした。
私の家族は、皆クリスチャンですし、送り出してくださった教会の皆さんも、喜んでくれました。
おそらく、反対だった人もいたでしょうが、面と向かって、反対だと言われたことはありませんでした。
その中で、叔父は、唯一と言っていい、はっきりと、牧師になることに反対した人でした。
当時は、非常に悲しかったし、苦しい気持ちにもなりました。
でも、後になって、その言葉が、私にとって、どれだけ大事な言葉だったかと思うようになりました。
考えも覚悟も甘い若造の私に、献身するということがどれだけ厳しいことか。
お前にその覚悟があるのかと、突きつけてくれた言葉だったと、思います。
・
先週の箇所でイエス様は、いよいよ、エルサレムに行く決意を固められました。
それは、十字架を担うという決意でした。
これから、イエス様が進むのは、苦難の道だったのです。
多くの苦しみを受け、排斥されて、殺されていく。
そんな道を進もうとしているのに、優しい言葉など、かけられるはずがありません。
何を期待しているかは知らないが、私が行くのは、あなた方が思うような道じゃない。
排斥され、罵られ、唾を吐きかけられ、十字架へ架けられていく。
それでもあなたは、従うか。
そんな語りかけを感じます。
すでに、イエス様に従っていた弟子たちは、このやりとりを、どう見ていたのでしょうか。
彼らは、イエス様の厳しい要求に、耐えうる弟子たちだったでしょうか。
決して、そうではありませんでした。
実際、イエス様が、十字架に向かって歩むその過程で、1人、また1人と、弟子たちは離れていきました。
そして、最終的に、皆、イエス様をおいて、逃げてしましました。
イエス様に従うということが、こんなにも厳しものだなんて、思ってもいなかったと思います。
しかし、そんな弟子たちが、福音の担い手として、イエス様の働きを受け継いでいったのです。
・
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
その光に引き寄せられ、従うものとなって行った弟子たち。
しかし、その歩みは、大変厳しいものでした。
その歩みの中で、弟子たちは、自分の弱さや、足りなさを、知らされていきました。
でも、同時に、その中で、イエス様によって整えられていきました。
決意も覚悟も足りない者が、イエス様と共に歩む中で、整えられていったのです。
このことが大事なのです。
ふさわしいものではないけれど、それでも、イエス様の招きに応えて、従っていく。
従っていけばいくほど、弱さや足りなさを覚えさせられるけれど、それでも、イエス様の恵みにあずかりつつ、従っていく。
その中で、私たちは、ふさわしいものとして、整えられていくのです。
イエス様は、ペテロを招く時に、言われました。
「わたしについて来なさい。私が、あなたを、人間をとる漁師にしよう。」
「人間をとる漁師」になれというのではなく、「人間をとる漁師」にしてやろうと言われたのです。
きっと、私があなたをふさわしい者にするからと、そう言われたのです。
ふさわしくない者が、それでも、イエス様に従っていこうとする時、ふさわしい者へと、整えられていくのです。
ふさわしくないままで、イエス様に従っていきましょう。
イエス様が、整えてくださると信じて。
お祈りします。