聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書10章19節~24節。
10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
10:22 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」
10:23 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。
10:24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
「成功は傲慢のもと」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
先週読んだ聖書の箇所には、イエス様が、弟子たちを、町や村に遣わしたって書いていました。
病気を治したり、神様のことを伝えるたりするために、弟子たちが、遣わされていった。
今日の箇所は、その続きで、遣わされた弟子たちが帰ってきた時のことが書いてあります。
読むとそこには、弟子たちが、喜んで帰ってきたって書いてあります。
何を喜んでいたんでしょうか。
弟子たちは、こんなふうに言っています。
「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
イエス様の名前を使うと、悪霊を屈服させることができた。
悪霊というのは、人間を苦しめる、得体の知れない力のことです。
薬を飲んでも治らないし、治療の方法もわからない。
そんな病気に苦しめられている人たちを、救うことができた。
さぞ、気持ちよかったでしょうね。
周りの人たちからも、たくさん感謝されたでしょうし、すごいって、言われたと思います。
弟子たちは、そのことを喜んで、帰ってきたわけです。
そんな弟子たちを、イエス様は、どう言って迎えたでしょうか。
よくやった!って言って、弟子たちを褒めたでしょうか。
よかったね!って言って、一緒に喜んだでしょうか。
そうではありませんでした。
イエス様は、喜んでいる弟子たちに、「悪霊を服従させたからと言って、喜んではならない。
あなた方の名前が、神様に覚えられていることを喜びなさい。」って言いました。
なんか、厳しいなって思います。
イエス様に言われた通りにやって、できたことを喜んで、何が悪いんだろうって思います。
何でイエス様は、こんなことを言ったのでしょうか。
ここで覚えておきたいのが、今日の説教題の言葉です。
「成功は傲慢のもと」。
傲慢っていうのは、調子に乗るってことです。
人間、誰しも、成功すると嬉しくなります。
目標を達成すると、やったーって、思います。
そして、自信もつきます。
自分は、こんなすごいことができた。
悪霊も追い出せた。病気も治せた。みんなのヒーローになれた。俺はすごいんだ!
でも、そこに落とし穴があるんです。
そもそも、弟子たちが、悪霊を追い出せたのは、誰のおかげだったでしょうか。
そう、イエス様のおかげでした。
悪霊を追い出せたのは、イエス様のおかげでした。
イエス様のおかげで成功できたのに、あたかも自分一人の力で成功したかのように、思い込んでしまう。
この思いが強くなっていったら、やがて、イエス様なんかいらないって、思うようになるでしょう。
イエス様なんかいなくたって、自分一人でやれるって思うようになるでしょう。
自分一人でやれる。誰の力も借りなくていい。
そうやって、気づいたら一人ぼっちになってしまう。
イエス様は、そうならないように、厳しいことを言われたんだと思います。
イエス様は、悪霊を服従させたことよりも、神様に覚えられていることを喜びなさい、って言われました。
成功しても、失敗しても、神様は、私たちを、覚えていてくださる。
力があってもなくても、神様は、私たちと一緒にいてくださる。
そんな神様のことを、心に、覚えて生きていきなさいっていうことです。
人間は一人じゃ生きていけません。
助けてくれる人がいる。支えてくれる人がいる。神様がいつも一緒にいてくださる。
だから、生きていけるんだってことを、今日は、心に覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・喜ぶ弟子たち
今日の箇所は、先週の続きになります。
先週は、72人の弟子たちが、イエス様によって派遣されるという場面を見ました。
そこには、もし迎え入れてもらえなかったら、「足についた埃を払い落として、次の町に行きなさい」と書いてありました。
足についた埃を払い落とすというのは、関係を断つ行為だったと言われています。
つまり、迎え入れてもらえなかったら、関係を断って、次に行きなさいということです。
失敗しても次にいく。
いかりや長介さんの「つぎいってみよう!」というあの精神で行くようにという、イエス様の呼びかけを、共に聞きました。
このイエス様の言い方からすると、弟子たちの成功は、かなり難しいことなんだろうと、思ってしまいます。
「迎え入れてもらえなかったら・・・」なんて話をするということは、そういう可能性が高いのかなと、そう思うわけです。
きっと、弟子たちは、失敗して、凹んで帰ってくるのだろうと、そう思って、今日の箇所を読むと、そこには、驚きの結果が記されています。
なんと弟子たちは、喜んで帰ってきたと、記されています。
うまくいった。成功したということです。
弟子たちは、嬉しそうに、イエス様に報告します。
「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
悪霊さえもわたしたちに屈服する。
そのことに、どこか、快感を覚えているような、そんなふうにも聞こえます。
この状況を思い浮かべます時に、私は、中国のあることわざが、思い出されました。
「虎の威を借る狐」ということわざです。
これは、中国の故事に由来することわざです。
ある時、一匹の虎が、狐をつかまえた。
食べようとすると、狐が言うわけです。
『私を食べてはいけません。
私は、天の神様から、すべての動物の長になるよう命令されています。
うそだと思うなら、私の後についてきなさい。
みんな、恐がって逃げていきますから』。
虎が狐について行くと、確かに動物たちは逃げていきました。
虎は、自分が恐がられているのだとは気づかずに、すっかりだまされてしまいました。
そんな話から、「虎の威を借る狐」ということわざができたそうです。
虎の力を借りて、威張る狐のように、力ある者の力を利用して、威張ることのたとえとして、用いられます。
イエス様の名前を使って、悪霊を追い出している。
そんな弟子たちの様子を想像する時に、この「虎の威を借る狐」のような、そんなイメージが浮かんできたわけです。
今日のイエス様の言葉は、そんな弟子たちに対して言われた言葉です。
・勘違いしてはいけない
イエス様は、主に、2つのことを仰っています。
1つ目は、彼らに成功をもたらした力とは何か、ということについてです。18節から、
10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
この言葉によって明らかなのは、彼らの成功が、彼らの力によってもたらされたものではないということです。
悪霊を追い出すことができたのも、危害を加えられずに済んだのも、彼らの力ではなかった。
イエス様が授けてくださった力があったから、だから、成功をおさめることができたんだ。
まず、そのことが、教えられています。
これは、非常に大事なことだと思います。
先ほど、「虎の威を借る狐」の話をしましたけれども、
その話を聞いた時、「この狐は相当賢いな」と思いました。
虎の力をうまく利用して、危機を乗り越えた、すごい狐だなと思いました。
ただし、ここには、危うさもあります。
狐が、虎の力を借りていることを、ちゃんとわきまえているならばいいですが、
問題は、そのことを忘れ、虎の力を、自分の力だと勘違いして、傲慢になることです。
傲慢になった狐は、もはや虎などいなくても大丈夫だ。
自分の力だけで大丈夫だと思うでしょう。
そこに、落とし穴があるのです。
弟子たちが、一番注意しなければならなかったことも、ここにあったのではないでしょうか。
つまり、悪霊を追い出すことができたということを、あたかも、自分たちの力によるものだと勘違いしてしまうこと。
勘違いして、思い上がり、イエス様なんて必要ないと、思ってしまうこと。
イエス様は、この点を、注意するようにと、戒めておられるのだと思います。
・弱い人間
2つ目のことも、これに関連しています。20節、
「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。
むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
ここでイエス様が仰っているのは、自分の力や成功を喜ぶよりも、何の力も功績もないままで、神様に覚えられている。
その恵みを喜びなさいということです。
そもそも人間は、弱い生き物です。
独りでは生きていけない存在です。
今、教会学校で、創世記を読んでいますが、人間がつくられていくプロセスをみながら、そのことをひしひしと感じます。
創世記には、二つの創造物語がありますけれども、最初の創造物語では、人間は、被造物の最後につくられます。
空や海、大地と、そこに生きる生き物たち。
それらが整って、最後に人間が創造されるわけです。
なぜか。
それは、人間が、自然の助けなしに生きることができない、そんな弱い存在だからです。
もう一つの創造物語では、人は、土の塵でつくられ、そこに神が息を吹きかけられて、生きるものとなったと言われています。
これもまた、神なしでは生きられない、そういう人間のありようを物語っています。
極め付けに、神様は、「人が独りでいるのは良くない。
彼と向き合って生きる、助け手をつくろう」と言って、もう一人の人エバをつくられました。
やっぱり、人は独りでは生きられない。
神様、人、そして自然の助けを得なければ、生きていけない。
そういう弱い存在であることを、教えられます。
そんな私たちが、それでも、そのままで良しとされている。
神様に、大切に、覚えられている。
そのことを喜ぶことが大事なのです。
反対に、成功や力は、そのことを忘れさせます。
自分が強くなったかのように、錯覚させます。
だからこそ、危険なのです。
・幼子のような者
21節でも、イエス様は、仰っています。
「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」
イエス様は、神の力を弟子たちに示されたことについて、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」と言っています。
ここでも、弟子たちが「幼子のような者」と語られています。
幼子というのは、当時の社会では、まだ未完成な弱い存在とされていました。
独りで生きていけない者の象徴と言って良いでしょう。
でも、それこそが、人間の本質なのだと、聖書は教えています。
どんなに成長したとしても、人間は独りでは生きられない。
でも、それで良いし、そういう弱い者として生きることへと、招かれているのです。
私たちは、弱い存在です。
弱い存在として、つくられました。
だから、強くなる必要はありません。
弱い存在として、神と人、そして自然に助けられながら、共に生きるようにと、招かれているのです。
成功を喜び、力を持っていると錯覚するよりも、弱いままで、そのままで、神様に良しとされている。
そのことを喜びながら、共に、歩んでいきましょう。
お祈りします。