2023年7月16日礼拝メッセージ「つぎいってみよう!」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書10章1節~12節。

10:1 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。

10:2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。

10:3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。

10:4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。

10:5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。

10:6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。

10:7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。

10:8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、

10:9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

10:10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。

10:11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。 10:12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

「つぎいってみよう!」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日は、1時半から、夏まつりを行います。

コロナになってから長い間、一緒に食事をしたり、コーヒーを飲んだりすることもありませんでしたけれど、

先月から、礼拝後のコーヒータイムを再開しました。

そして、今日は、ささやかですが、午後に、夏まつりを行います。

どうぞ、みなさん、参加してください。

子どもたちがメインですが、大人の皆さんにも、参加してくださる方には、たこ焼きを作りますので、食べていっていただけたらと思います。

さて、今日も、まず子どもたちに向けて、メッセージをしたいと思います。

今日のタイトルは、「つぎいってみよう!」です。

「つぎいってみよう!」って、誰の言葉か、知っていますか?

いかりや長介って、知っていますか。

ザ・ドリフターズっていうグループのリーダーだった人ですが、

ちょうど私が生まれる1年前まで、テレビで「8時だョ!全員集合」っていうコント番組をしていました。

16年続いた番組だそうです。

残念ながら、私が生まれる前なんで、私は見たことがないんですが、当時の子供達は、テレビにかじりついて見ていたそうです。

そのあとは、ドリフの大爆笑とか、志村けんと加藤茶のかとちゃんけんちゃんとか、私も時々見ていました。

そのコント番組の中で、リーダーのいかりや長介が言っていたのが「つぎいってみよう!」って言葉だったそうです。

私も、小さい頃、テレビで聞いたことがあるような気がしますが、

「だめだこりゃ、つぎいってみよう!」っていうのが、もう、いかりや長介の定番の言葉でした。

今日みんなと覚えたいのは、まさにこれです。

「だめだこりゃ、つぎいってみよう!」

みんなにも、「だめだ」って思うことがあると思います。

うまくいかない時、どうにもならないような時、みんなにも、あると思います。

私は、毎週思っています。

礼拝のメッセージをうまく話せなかった時。「ああーもうだめだー」って思います。

仕事の締め切りに間に合わなかった時、「ああ、もうだめだ」って思います。

人を、傷つけてしまった時、「自分は、なんてだめなんだ。」そう思って、落ち込んでしまいます。

そんな私のように、失敗したり、思うようにいかなくて落ち込んでいる人。

そんな人にぜひ、覚えておいてほしいのが。「つぎいってみよう!」です。

だめだと思ったら、つぎにいけばいいってことです。

どんなに落ち込んでも、過去を変えることはできません。

「今日のメッセージ、全然うまくできなかった」落ち込んでいても、過去は何も変わらない。

それならば、切り替えて、つぎ、頑張れば良いんです。

「また、うまくいかなかった」って思っても、また次頑張れば良い。

失敗したことをなしにはできないけど、頑張れば、次、うまくできるかもしれない。

そう思って、切り替えていくことが大事だってことです。

そんなこと言っても、落ち込んじゃう時もあると思います。

でも、できるだけその時間を短くして、つぎにいってみる。

今日の聖書でイエス様は、こんなことを言っています。

10:10 町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。

10:11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。』

「足についた埃を払い落とす」って言うのは、関係を切る行為だそうです。

もう知らない、さよなら!ってことです。

うまく行かない時、迎えてもらえない時には、もう知らない、さよなら!っていって、次に行けってことです。

イエス様もう、弟子たちに、そう言われたんです。

「だめだこりゃ、つぎいってみよう!」

人間ですから、当然、失敗します。

だめだって思う時もあります。

でもそんな時は、「だめだこりゃ、つぎいってみよう!」

「だめだと思って、落ち込まないで、つぎにいってみる。

そのことを、今日は、覚えておきましょう。

お祈りします。

今日の箇所には、イエス様が弟子たちを派遣する様子が記されています。

9章で、12人の弟子たちを派遣したイエス様がですが、今日の箇所には、72人の弟子たちを任命し、遣わす様子が記されています。

72人も弟子たちがいたんだというのが、ちょっと、驚きですが、

彼らを、これから行くつもりの町や村に先遣隊として、遣わされた。

この箇所から、どんなことが見えてくるでしょう。

共に、聖書から、メッセージを聞いていきたいと思います。

まず注目したいのは、やはり72という数字です。

数字を見ると、何か意味があるんじゃないかと思ってしまうのは、先入観でしょうか。

実は、この72という数字、新改訳聖書や文語訳聖書では、70と書かれています。

調べてみると、どちらが正解か、わからないそうです。

70と書いている写本もあれば、72と書いてある写本もある。

どちらが本当かはわからないそうですが、仮に70とするならば、それは、創世記10章で語られている世界の諸民族の数と一致します。

そのことから、イエス様は、全世界を射程に、弟子たちを派遣されたのだと、言う人もおります。

全世界、そこに生きるすべての人に福音を宣べ伝える。

これは、福音書記者ルカが、ルカによる福音書から使徒言行録にわたって、語っている大切なテーマです。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。

そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

そう言って、使徒言行録は、福音が、ユダヤ人を超えて、異邦人へと広がっていった様子を語っています。

イエス様の福音は、限られた人たちにだけ、当てはまるものではないということです。

人種や国籍、年齢や性別、あらゆる垣根を超えて、共有されるものである。

イエス様は、その福音が全世界に広がっていくことを、願っています。

70という数字には、その願いが込められているということです。

私たちも、今年、「共に福音にあずかる」というテーマを掲げております。

人種や国籍、年齢や性別、クリスチャンである無しに関わらず、共に、福音にあずかっていきたい。

いや、あずかっていくんだという、そんな想いを込めて、石井姉妹が書いてくださった書が、掲げられております。

とても大切なテーマですが、ただ、それは、決して、簡単なことではありません。

たとえ、属性が似たもの同士であったとしても、同じ国籍、同じ性別、同じ年齢であったとしても、共に喜ぶということは、決して容易いことではありません。

それを知ってか、イエス様は、先遣隊に対して、そこまで求めてはおりません。

先遣隊に与えられた使命は、病を癒すことと、「神の国は近づいた」と言うことです。

その言葉を受け入れられるようにしなさいとは言われていません。

こう見えて私は、できる限り、聞きやすいメッセージ、わかりやすいメッセージを目指して、頑張っております。

そのために、たとえを入れたり、自分の経験から話してみたり、色々と手を替え品を替え、やっているわけですが、イエス様は、先遣隊に対して、そこまで求めてはおりません。

ただ、「神の国は近づいた」と言いなさいと言われています。

共有しなさいとも、まして、相手をクリスチャンにしなさいとも、言われていません。

宣教というよりは、なんだか調査のような感じがします。

町の反応を見ているような。

理解させるとか、受け入れさせるということが目的ならば、これは大変なことですが、言うことが目的ならば、気が楽です。

遣わされる弟子たちも、少しホッとしたのではないでしょうか。

どんなに力を尽くしても、分かり合えないことがあります。

イエス様でさえ、受け入れられないことがありました。

故郷のナザレでも、異邦人の地でも、先日読みました9章の51節からのところでは、サマリア人から歓迎されなかったということが書かれていました。

イエス様でさえ、受け入れられないということがあったのです。

イエス様は、そのことを重々承知の上で、迎え入れられなかった場合は、広場に出てこう言いなさい。

『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と、そう言われました。

子どもメッセージでも言いました通り、足についた埃を落とすというのは、関わりを切る行為です。

スパッと諦めて、次に行けということです。

このことを思った時に、思い浮かんできたのが「つぎいってみよう!」という言葉だったのです。

「だめだこりゃ、次行ってみよう!」

いかりや長介さんの言葉ですけれども、

正直、私が印象に残っているのは、踊る大捜査線でわくさんという刑事役をやっていたいかりや長介が、一番印象に残っておりまして、ドリフターズのいかりや長介っていうのは、そんなに知らないんですが、

それでも、いかりや長介といえば、「だめだこりゃ、次行ってみよう!」というフレーズが思い浮かんできます。

すぐに落ち込んで、なかなか立ち直れない私のような人間にとっては、とても重要な言葉だなと思います。

イエス様も、そうです。

迎え入れられなかった時は、足の誇りを払って、次に行きなさい。

どんなにうまくいかなかったとしても、神の国は近づいてくる。

だから、どんどん次に行きなさいと、イエス様は言っているのです。

ただし、受け入れない者には、ソドムよりも重たい罰が下るとも言われています。

ソドムといえば、あのソドムとゴモラのソドムです。

神様によって、町ごと滅ぼされてしまったあのソドムのことですけれども、

それ以上に、重たい罰が下ると言われています。

とても怖い言葉です。

でも、これは、弟子たちが報復するのを止めるための言葉、とも読めると思います。

先日読みました、9章51節以下で、イエス様を拒んだサマリア人に対して、ヤコブとヨハネが怒りを燃やして、「天から火を降らせて、焼き滅ぼしましょうか」と、これまた恐ろしいことを口にしていた場面がありました。

まさにソドムと同じように、自分たちを拒んだサマリア人の村を滅ぼそうと、願ったわけですが、イエス様は、それを神の領分と定められた。

それは、あなた方がすることではなく、神のすることだ。

だから、後のことは、神様に任せて、あなたがは、次に行きなさいと、そういうふうにも、読めるのではないでしょうか。

いずれにしろ、重要なのは、思うように結果が出なくても、埃を払って、次へ行くということです。

人間のすることには、必ず、限界があります。

イエス様でさえ、うまくいかない時がありました。

大事なのは、どう切り替えて、次に進むかということです。

もちろん、うまくいかない時は、凹みます。

落ち込んで、引きずってしまうこともあるでしょう。

近くの人やものに、その怒りをぶつけてしまうこともあるかもしれない。

そんな、弱い私たちだからこそ、「だめだこりゃ、次行ってみよう!」を心に留めたいと思います。

だめだと思ったら、次に行ってみましょう。

過去は変えられませんが、未来は変えられます。

お祈りします。

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