聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書9章37節〜45節。
新共同訳新約聖書123ページ〜124ページです。
9:37 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。
9:38 そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。
9:39 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。
9:40 この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」
9:41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」
9:42 その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。
9:43 人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。
9:44 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」
9:45 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。
「光は闇の中で輝いている」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
イエス様は、弟子たちに、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」って言いました。
「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」。
これ、何のことかわかるでしょうか。
「人々の手に引き渡される」というのは、つまり、捕まるってことです。
捕まって、裁判にかけられて、最終的に、十字架に架けられる。
イエス様は、そうなることを知っていました。
それで、弟子たちに、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」って言ったんですが、残念ながら、弟子たちには、その言葉の意味が、わかりませんでした。
わからない時には、普通、どうしますか。ー聞きますよね。
「イエス様、今のどういうことですか。
何のことを言っているのか、わかるように説明してください。」
これまで弟子たちは、そうしてきました。
わからない時には、「どういうことですか?」って聞いてきました。
でも、この時は、聞こうとしなかったんです。
なぜか。
聖書には、「怖かったからだ」って、書いています。
みんなも、怖くて、聞けなかったことがあるでしょうか。
私は、中学3年のちょうど今頃だったと思います。
部活中に、足首を怪我してしまいました。
中学校最後の大会の直前でした。
すぐに病院に行って、レントゲンを撮って、診察室に呼ばれました。
でも、私は、立てませんでした。
足首が痛かったんじゃないんです。
診察室に入るのが、怖かったんです。
病院の先生に、「大会に出るのは無理だ」って言われるのが怖くて、結果を聞きたくなかったんです。
結果は、靭帯断裂と骨にヒビが入っていました。
全治3ヶ月、「大会は無理だ」って言われました。
正直、聞かなくても、うすうす、わかっていました。
足首も2倍以上に腫れていましたし、色もどす黒くなっていて、これは無理だって、わかっていました。
だからこそ、聞きたくなかった。
きっと、弟子たちもそうだったんだと思います。
イエス様の言葉を聞いた時に、悪い予感がしたんだと思います。
「これは、聞かないほうがいい。やばい匂いがする。」って思ったんです。
だから、弟子たちは、それ以上聞くのをやめてしまった。
でも、実は、そこに、大事な言葉があったんです。
弟子たちの悪い予感は、半分、当たっていました。
確かにイエス様は、捕まって、裁判にかけられて、十字架で処刑されます。
でも、それで終わりじゃなかったんです。
イエス様は、神様によって、復活させられるんです。
それこそ、イエス様が、伝えようとした言葉だったんです。
イエス様が言いたかったのは、どん底にこそ、神様はおられるということだったんです。
人生のどん底、神に見捨てられたと思うようなそのどん底に、神様はおられる。
弟子たちは、聞けなかったけど、「この言葉こそ、よく耳に入れておきなさい」って、イエス様は言われます。
ぜひ、今日は、しっかりと聞きたいと思います。
苦しい時、しんどい時、「人生のどん底にこそ、神様はおられる」。
そのことを心に覚えて、新しい一週間を始めていきましょう。
お祈りします。
・イエス様の奇跡
今日の箇所は、イエス様が、悪霊に取り憑かれた子どもを癒すという話から始まります。
山を降りると、大勢の群衆たちが、イエス様を待っていました。
その中の一人が、イエス様に向かって、大声で叫びます。
「先生、どうかわたしの子を助けてください。悪霊に取り憑かれて、苦しんでいるのです。」
イエス様は、その叫びを聞いて、子どもを癒されました。
それを見て、「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた」と記されています。
子どもを癒すイエス様の姿に、神の姿を見たということです。
それだけではありません。
詳しくは書かれていませんが、他にもイエス様は、奇跡を起こされたようです。
その様子を見て、みんなが驚いている。
みんなが、イエス様に、心を打たれている。
さぞ弟子たちも、鼻が高かったでしょう。
「さすがイエス様だ。この人にできないことは何もない。やっぱりこの人こそ、神の子、キリストだ。」そうやって、互いに言い合っていた。
そんな時でした。
イエス様は、弟子たちに対して言われるのです。
44節「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」
・聞くのを恐れる弟子たち
弟子たちには、その言葉の意味が、わかりませんでした。
わからない時には、よく尋ねる弟子たちなんですが、この時は、聞こうともしませんでした。
なぜか。それは、聞くのが怖かったからです。
皆さんにも、怖くて尋ねられなかった経験があるでしょうか。
先ほどは、中学時代の話をしましたけれども、牧師になってからも、何度か、そういう経験がありまして、
特に覚えているのは、私が、大分教会に就任して、間もない頃のことです。
当時、お隣の別府国際教会で牧師をされていました吉田真司先生と、一緒に車に乗っていた時でした。
私が吉田先生に、「先生が隣にいてくださって、本当に支えになっています。」というようなことを言ったらですね、
ちょっと間をおいて、先生が「いつまでも、あると思うな、親と金って、あるよね」って、言われたんです。
一瞬「ん?」と思ったんですが、笑ってごまかしましたけれども、その時も、怖くて、それ以上聞くことができませんでした。
ま、その後に、先生は、神奈川の方へ移られて、今では、連盟理事長をされていますけれども、
弟子たちも、何かあるということは感じていたのだと思います。
41節の「いつまで、お前たちと一緒にいないといけないのか。」という言葉も、
なにか、一緒にいられない時が近づいているような、そんなことを感じさせる言葉ですし、
それに、9章の21節で、弟子たちは、すでに、受難予告を一回聞かされているわけです。
その時は、冗談だろうと思っていたかもしれませんが、
でも、繰り返しそんな話をされると、「え、本当?」って、思うようにもなるでしょう。
「怖くて尋ねられなかった」っという言葉に、この時の弟子たちの心境が、よくあらわれているように思います。
・
実際、弟子たちが抱いていた恐れは、当たっていました。
51節で、イエス様は、天にあげられる時期が近いと感じて、エルサレムに向かう決意を固められます。
ガリラヤを中心に活動していたイエス様が、いよいよ、エルサレムに向かって行かれる。
それは、十字架に向かって歩まれるということです。
その方向は、弟子たちの望む方向とは違いました。
真逆と言っていいくらい違いました。
この時、弟子たちが期待していたのは、イエス様が、その奇跡の力で、世の権力者たちを打ち倒し、新しい世界をつくりだしてくれることでした。
そして、その世界で、自分たちも、偉くなりたいと思っていました。
これは、次の箇所ですけれども、46節からのところで、弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いか議論していたと、記されています。
浮かれてますね。
師匠のイエス様が、十字架に向かう決意を固めようとしておられた時に、弟子たちは、誰が一番偉いか、競い合っていた。
弟子たちは、上へ上へ行きたかったんです。
偉くなりたかったんです。
でも、イエス様が目指していたのは、どん底でした。
これ以上ないというほどの低みでした。
でも、イエス様は、そこにこそ、神はおられると信じて、それを示すために、歩んで行かれたのです。
イエス様が、弟子たちに伝えたかったのは、まさにそのことだったのだと思います。
イエス様が伝えたかったのは、受難の予告ではなく、復活の予告だった。
人生のどん底にこそ、神はおられる。
貧しい時、飢えている時、泣いている時。
山上の説教でも言われていたように、そういう時こそ、神様は最も近くにいてくださるって、そのことを、伝えたかったのだと思います。
これは、言葉で伝えることは、不可能です。
実際、そういう局面に置かれたら、もっと、わからないかもしれない。
十字架上で、イエス様が叫ばれたように、「神様、なぜ私をお見捨てになるのですか」って、そう思うしかないかもしれない。
でも、そこに、神様はおられる。
そのことを示すために、イエス様は、十字架に向かって行かれたのです。
そして、復活の命を与えられたのです。
・
44節で、イエス様は弟子たちに、「この言葉をよく耳に入れておきなさい。」と言いました。
「この言葉」というのは、私たちが望むような言葉ではないかもしれない。
偉くなりたいとか、お金持ちになりたいとか、上へ上へ向かう者には、響かない言葉かもしれない。
イエス様がいう「この言葉」というのは、十字架の言葉です。
高みにいる者の言葉ではなく、どん底にいる者の言葉です。
でも、そこに希望がある。
神様は、そこにおられる。
今、苦しんでいる人。
今、泣いている人。
そういう人々に対して、イエス様は、「まさに神様は、あなたと共におられる。」
その言葉を示すために、十字架へと向かって行かれたのです。
イエス様が、その命をかけて伝えようとしておられる言葉を、私たちは今日、「よく耳に入れておきたい」と思います。
神様が一緒にいるのは、うまくいっている時ではない。
問題が解決した時でもなければ、病気が癒やされた時でもない。
むしろ、うまくいかない時。
問題の中にある時。
病気の中にある時。
最も、神様を遠くに感じる時。
神様なんていないと思う時。
その時こそ、神様は、最も近くにおられる。
それが、イエス様が語る十字架の言葉です。
その言葉を、しっかり耳に入れて、信じて、歩み出していきましょう。
お祈りします。