聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書9章46節〜50節。
9:46 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
9:47 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、
9:48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
9:49 そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしまし た。」 9:50 イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」
「弟子たちの勘違い」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
先週は、新型コロナウイルス陽性の診断を受け、自宅療養となりまして、礼拝をお休みさせていただきましたが、皆様のお祈りとお支えによって、無事、回復することができました。
心から感謝いたします。
本当にありがとうございました。
自宅療養期間は終了し、症状も心配はないのですが、先ほども申しました通り、念の為、今日はマスク着用でメッセージをさせていただきます。
どうぞご了承ください。
さて、今日も、子どもメッセージから、させていただきたいと思いますが、
今日の話は、弟子たちの話です。
ある時、イエス様の弟子たちが、イエス様に聞こえないところで、あることについて話をしていました。
あることとは何かというと、それは、この中で一番偉いのは誰かという話でした。
「俺たちの中で、一番偉い奴を決めよう」と、そんな話をしていたそうです。
なーんか、嫌な感じですよね。
調子にのってるなって、感じます。
大体、こういう話をしている時っていうのは、調子にのっている時です。
うまくいっている時とか、褒められた時とかですね。
うまくいかない時とか、怒られた後なんかには、絶対できないですよね。
だって、怒られて、しょんぼりしている時に、俺がこの中で一番だ!なんて言えますか。
きっと、うまくいった時、自信がある時、俺の方がすごいとか、あいつよりも俺の方が優秀だって、そういう想いを持った人が、この中で一番偉いのは誰か決めようなんて、言い出したんじゃないでしょうか。
でもね、弟子たちっていうのは、12人いました。
12人もいたらですね、優等生もいれば、劣等生もいたと思います。
人よりもすごいって言えるものを、持っていない。
自慢できるものも持ってないし、自信もない。
そういう人が、きっといたと思います。
そういう人たちは、どういう気持ちで、その話し合いを見つめていたでしょうか。
「あの人は、あんなにすごいことができる。
この人は、こんなに良いところがある。
それに比べて、自分には、何もない。
誇れるものも、自慢できるものも、何にもない。」って、どこか寂しい気持ちで、話し合いを見つめていたんじゃないかなって思うんです。
そんな時、イエス様があらわれて、こう言ったんです。
「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
頭の良い人でも、優秀な人でもない。
最も小さい者こそ、最も偉い者だ。
そうやってイエス様は、言われたんです。
自分のことを劣等生だって、
自分には誇れるものは何もないって、そう思っていた人は、この言葉を聞いて、どれだけ慰められたことでしょうか。
みんなの中にも、もしかしたら、人と比べて、自分には何もないって思っている人がいるかもしれない。
勉強もできないし、足も早くない。
人に誇れるようなこと、自分には何もないって思っている人がいるかもしれない。
私も、人と比べて、落ち込むことがあります。
先週、コロナにかかって、礼拝に出られませんでした。
その時に、礼拝メッセージをどうするか、執事の人たちと相談しました。
その時点では、まだ、メッセージはできていなくて、どうするか相談しました。
そしたら、石井さんに「私がやりますよ。村田先生はゆっくり休んでください。」って言われました。
かっこいいなー、って思いました。
金曜日の午後ですよ。
日曜日まで、もう二日もない。
そんな状況で、「私がやりますよ。村田先生はゆっくり休んでください。」って、僕なら絶対言えないと思いました。
すごいなーって思うと同時に、情けなさで、心がいっぱいになりました。
病気でも、「メッセージは僕がやります」って、そうやってカッコよく言えたらいいのになーって、落ち込みました。
もちろん、感謝の想いもいっぱいありましたよ。
でも、特に日曜日終わってからですね、できなかった自分への情けなさで、心がいっぱいになりました。
そんな時に、イエス様のこの言葉を聞いて、私は、とても励まされたんです。
イエス様は、弱さとか、小ささというものを、大事にしてくださる。
そういうものこそ、大事にするようにと、教えてくださっています。
人と比べて、落ち込んだり、情けないと思うんじゃなくて、大事にできる人になりましょう。
弱いとか、小さいということを、大事にできる人。
そういう人を、優しい人というのだと思います。
イエス様は、そういう優しい人になるようにと、教えているのだと思います。
弱さとか、小ささを、大事だと思える人になっていきましょう。
お祈りします。
・
今日の箇所には、イエス様の弟子たちに関する話が二つ記されています。
一つは、今話しました、誰が一番偉いか議論する話。
もう一つは、イエス様の名前を使って、勝手に悪霊を追い出している者をやめさせようとしたという話です。
この二つの話には、私たちが陥りやすい誤解や過ちが、語られています。
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一つ目の話は、今話しましたので、短くしたいと思いますが、弟子たちが、誰が一番偉いか議論していた話ですが、
改めて考えてみますと、なんと傲慢な議論だろうかと思います。
謙遜のかけらもないような議論です。
「誰が一番偉いか」なんて、心の中で思っていても、普通は差し控えるような議論でしょう。
なぜこんな話になったのか。
その理由は、わかりませんが、そのような議論をしていたという時点で、すでに、彼らは、大切なことを見失っていたと、言えます。
大切なこととは何かというと、それは、イエス様の恵みです。
12人の弟子たちは、イエス様からの招きを受けて、弟子になりました。
選ばれたと言ってもいいでしょう。
でも、その選びは、彼らの資質によるものではありませんでした。
彼らが、人よりも、優れた能力を持っていたから。
弟子としての素質を持っていたから。
だから、弟子として選ばれたのでは、なかったんです。
それは、聖書を読んでいけばよくわかります。
今日の箇所を読んでいてもわかるように、彼らは、イエス様のことを全然理解していませんでした。
特別、信仰があったわけでもありません。
事実、イエス様が十字架に架けられる時、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて、逃げておりました。
イエス様を裏切ったユダも、12人の一人ですし、イエス様なんて知らないと言ったペトロも、12人の一人です。
そんな人たちを、イエス様は、なぜ弟子として選んだのか。
その理由は、よくわかりません。
たまたまだったのかもしれませんし、何か理由があったのかもしれません。
しかし、少なくとも確かなのは、彼らの資質や能力のゆえに選ばれたわけではないということです。
彼らが、弟子として選ばれたのは、ただただイエス様からの恵みであった。
欠けだらけにもかかわらず、イエス様は、恵みによって、彼らを弟子とされたのです。
弟子たちは、そのことを、見失っていたのではないでしょうか。
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そんな弟子たちを前にして、イエス様は、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われました。
「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。
わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。
あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
子供というのは、当時、軽んじられた存在でした。
数にも数えられず、親の所有物のようにみなされていました。
そんな取るに足らない者の象徴であった子供を、ご自分のそばに立たせて、受け入れなさいと言われる。
この子供を受け入れるものは、私を受け入れ、さらには、私をお遣わしになった方、つまり、神様を受け入れるのであると、言われた。
それほど、この子供を受け入れるということは、大事なことなんだ。
「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」と言われた。
それは、「能力や実績を競うよりも、最も小さい者、つまり、能力も実績もない者たちを大切にしなさい。」ということです。
まさに弟子たち自身、最も小さい者でした。
能力も実績もない人たちでした。
そんな彼らが、イエス様によって、大事に取り扱われてきたのに、その恵みを忘れ、能力や実績を比べて、誰が一番偉いかを議論していた。
その議論の陰で、弱さや足りなさを覚えて、落ち込んでいる人がいることにも気づかずに、議論に夢中になっている。
イエス様は、そんな彼らの目を開かこうと、されたのではないでしょうか。
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二つ目の話もそうです。
二つ目の話にも、弟子たちの思い上がりや、傲慢さが、あらわれています。
二つ目の話では、弟子のヨハネが、悪霊を追い出している者をやめさせようとしたという話が記されています。
なぜ、やめさせようとしたのでしょうか。
その理由は、「自分たちと一緒にイエス様に従っていないから」でした。
そこには、自分たちこそ正当な弟子であるという想いや、その立場を守ろうとする保身的な感情が伺えます。
自分たちのような正当な弟子でないにもかかわらず、勝手に、イエス様の名前を使って、勝手に、悪霊を追い出している。
正当な弟子である自分たちの許可も得ずに、勝手に、そんなことをしている。
ヨハネの目には、彼らが、実に勝手な人たちに見えたでしょう。
そして同時に、自分たちの立場を揺るがす危険な存在にも見えたでしょう。
前回読みました、37節からの話で、弟子たちは、悪霊に取り憑かれた子供を解放できなかったということが、記されていました。
そして、イエス様から、その不甲斐なさを痛烈に叱られるという場面がありました。
そんな弟子たちにとって、悪霊を追い出している人々は、自分たちの立場を脅かす存在だったに違いありません。
自分たちは失敗しているのに、彼らは、成功している。
嫉妬のような感情もあったかもしれません。
結局ヨハネは、正当なイエス様の弟子という立場を守りたかったのだと思います。
そのために、彼らの行為を、やめさせようとしたのです。
でも、そのようなヨハネの見方というのは、正しいものだったのでしょうか。
彼らは本当に、勝手な人たちで、弟子たちの立場を脅かす存在だったのでしょうか。
ヨハネの言葉には、確かに彼らが、イエス様の名前を使って、悪霊を追い出していたと記されています。
彼らの働きによって、悪霊から解放されている人たちがいたということは確かだった。
そのことを、弟子たちは、ちゃんと見ていたのでしょうか。
イエス様の言葉の中に、「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
木は、それぞれ、その結ぶ実によってわかる。」という言葉があります。
彼らの働きが、どんな実を結んでいるか。
そのことをちゃんと認めるべきだったのではないでしょうか。
悪霊に苦しめられている人たちの苦しみや叫び。
解放されたことに対する喜びをこそ、ちゃんと見るべきだった。
自分たちこそ正当な弟子であるというプライドが邪魔をして、認めることができなかった。
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ここに語られているのは、イエス様の弟子であるということに自惚れ、傲慢になった弟子たちの姿です。
自惚れや傲慢が、いかに、人の目を曇らせるか。
特に、小さい者たちの痛みや悲しみを、見えなくさせる。
誰が一番偉いかという議論の陰で、弱さを覚える者たち。
悪霊に苦しめられている人たちの痛みや悲しみ、解放されたことに対する喜び。
そういう弱く小さくされた人たちのことが、見えなくなる。
弟子たちを通して、そのようなことを、教えられます。
自惚れと、傲慢にとらわれず、自由に生きるためにはどうしたらいいか。
そのために大事なのが、イエス様によって赦され、生かされている恵みを、忘れないということです。
自分こそが、イエス様によって受け止められている子供であることを、忘れないことです。
全ての人は、赤ちゃんとして生まれ、子供として大切にされ、成長していきます。
そして、成長するにつれて、守られる者から、守る者へ、学ぶ者から、教える者へと、立場や役割が変わっていきます。
それは決して、悪いことではありません。
しかし、そうなればなるほど、傲慢になりやすくなっていくのだと思います。
きっと、弟子たちもそうだったでしょう。
最初は、イエス様に招かれて、従っていくだけだった。
次第に、人数が増え、役割も与えられるようになった。
手を引かれ、教えられる側だった弟子たちが、次第に、教えたり、まとめたりする者になっていった。
イエス様の弟子としての自覚が芽生え、自信もついてくる。
これを成長というのだと思いますが、でも、成長と同時に、傲慢の種も育っていたのです。
イエス様によって赦され、生かされている恵みを、忘れない。
どこまでいっても、イエス様によって受け止められている子供であることを、忘れない。
その大切さを、覚えたいと思います。
今日は、残念ながら、教会の子供たちはお休みですが、
いつも、教会を走り回っている子供達の姿を見る時、無条件で赦され、愛されているという恵みの大きさを知らされます。
自分自身も、このような恵みの中に、生かされているんだと、そう思うときに、自惚れや傲慢から、自由に生きることができるのではないでしょうか。
偉くなりたいとか、高いところを目指すと、人は囚われ、見えなくなってしまう。
弱い者や小さい者の気持ちが、
自分自身、弱く小さい者であるということが、わからなくなってしまう。
何よりも私たち一人ひとり、イエス様によって受け止められている子供であることを、忘れない。
恵みによって、無条件で赦され、愛されている存在であることを、今日、改めて心に留めながら、新しい一週間の歩みに、出掛けてまいりましょう。
お祈りします。