聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書9章18節〜22節。
新共同訳新約聖書122ページです。
9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
「あなたはわたしを何者だと言うのか」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日の箇所で、イエス様は、弟子達に、二つの質問をしました。
一つ目の質問は、「群衆は、私のことを何者だと言っているか」というものでした。
この質問に、弟子達は、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。
ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」と答えました。
洗礼者ヨハネっていうのは、イエス様にバプテスマをした人ですけれども、当時、有名だった指導者の名前です。
それから、エリヤは、旧約聖書に出てくる預言者の名前です。
この人も、伝説的な人で、生きたまま、天に上げられたっていう人ですけれども、
救い主が到来する時には、天からやってくるって信じられていました。
イエス様はそのエリヤだって、そうやっていう人たちもいたっていうことです。
このような意見は、良い意見ですけれども、中には、イエス様のことを悪く言う人たちもいました。
イエス様のことを、「悪魔のかしらだ」って、言う人たちもいました。
そんなふうに、当時は、イエス様を巡って、いろんな意見があったわけですが、
そんな中で、イエス様は、弟子達に、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と聞きました。
いろんな意見がある。
良く言う人もいれば、悪く言う人もいる。
いろんな人がいる中で、「では、あなたがたは、わたしを、どう思っているのか。」って、イエス様は聞いたんです。
なんか、テストみたいですよね。
私は、このやりとりを想像しながら、学生時代を思い出しました。
授業中、私は、いつも、先生に当てられないことを願っていました。
当てられそうな時は、必死に、オーラを消していました。
前の人に隠れたり、息を止めたり、色々していましたけれども、そういう時に限って、当てられていたことを思い出します。
当てられた時は、いつも緊張していたことを思い出しますが、
きっと、この時の弟子達も、心の中で「やばい!」って思っていたでしょう。
「どう言えばいいんだ。何が正解なんだ。」必死に考えていたと思いますが、
そんな時、やっぱり頼りになるのは、一番弟子のペトロでした。
ペトロは、「神からのメシアです。」って答えました。
さすがペトロだなって思いますが、
でも、今日の箇所を見てみると、イエス様は、正解とも不正解とも、言っていません。
はっきりとした答え合わせをしないまま終わってるんです。
もしかしたら、イエス様は、正解を求めていたのではないのかもしれません。
弟子達に考えさせたかった。
そして、弟子達なりの答えを、聞こうとされたんじゃないでしょうか。
「間違ってもいい。あなたは、どう思うか。」って、弟子達の声に、耳を傾けられた。
私は、小学校3年生の時に、イエス様を救い主だって信じて、バプテスマを受けました。
でも、本当は、その1年前から、受けたいって思っていました。
なんで一年後になったかというと、父親に反対されたからです。
私の父親は、クリスチャンです。
バプテスマを受けたいって言ったら、喜んでくれると思っていました。
でも言ったら、もうちょっと良く考えてみろと言われました。
なんでそんなことを言ったのかというと、それは、私が、「友達が受けるから、僕も受けたい」って言ったからです。
教会に、同い年の子が二人いて、二人とも、バプテスマを受けるって聞いて、それで私も受けたいって、言ったんです。
そんな私に、お父さんは、「周りの人は関係ない。お前が、本当に、イエス様のことを信じたいって思ったんなら、受けたらいいよ。」って言いました。
今思うと、とても大事な言葉だったなって思います。
イエス様のことを、どう思うか。
イエス様を、どう受け入れるかっていうのは、自分の問題です。
周りの人の話を聞くのは、とても大事なことですが、でも、最終的に答えを出すのは、自分です。
イエス様は、一人一人の声を、聞いてくださる。
「間違ってもいいから、あなたはどう思う?」って聞いてくださる。
みんなは、イエス様のことを、どう思っているでしょうか。
自分なりの考え、自分なりの言葉で、イエス様に応えていきましょう。
イエス様は、その言葉を、喜んで受け止めてくださるお方です。
お祈りします。
・自分への問いかけとして
イエス様は、弟子達に、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と、問われました。
群衆達の間に、いろいろな意見がある中で、「あなたがたは、わたしを、どう思っているのか。」
「あなたがたは、わたしを、なんと言うのか」と、問われました。
この問いを、今日は、私たち、一人一人への問いかけとして、聞いていきたいと思うのです。
「私は、イエス様を、何者だと、言うのか。」
「私にとって、イエス様とは、どんなお方だろうか。」
考え、そして、自分の言葉、生き様で応答していくことを、イエス様は、求めておられます。
教会ではこれを、信仰告白と言います。
「私にとって、イエス様とは、こういうお方だ」と告白していくこと。
自分の信仰を、表していくこと。
それを信仰告白と言います。
たとえば、イエス様は、いつも共にいてくださるお方だとか、
どんな時も、見捨てないお方だとか、
やっぱり赦しのお方だ、自分の弱さも欠けも受け止めてくださるお方だって言う人もいるでしょう。
そうやって、告白することを、信仰告白と言います。
私たちは、この信仰告白を、とても大事にしています。
それは、私たちが掲げているバプテストの原点が、そこにあるからです。
少し、このバプテストについて、話したいと思いますが、バプテストというのは、教派の名前です。
ご存知のように、キリスト教の中にも、様々な教派があります。
大きくは、プロテスタントとカトリックに分かれますが、プロテスタントは、さらにその中から、たくさんの教派に分かれているわけです。
ルター派があったり、改革派があったり、メソジストとか、ホーリネスとか、聖公会とか、
この近所にも、そのような教会がありますけれども、
その中で、私たちの教会は、バプテストという教派の教会でありまして、バプテストの伝統を受け継いでおります。
このバプテストが誕生したのは、1600年代初め、場所は、イングランドでした。
ちょうど昨日、イギリスのチャールズ国王の戴冠式がやっていましたけれども、まさにそのイングランド国教会から離脱した人たちがつくった教会、それが、バプテスト教会でした。
彼らは、なぜ、イングランド国教会を離脱したのかというと、それは、自分で聖書を読み、自分の言葉で信仰告白し、その信仰に基づいて、教会をつくっていきたいと思ったからでした。
国や、王様が決めた教会じゃなくて、自分たちの信仰に基づいて、教会をつくりたい。
それが、バプテストの始まりだったんです。
まさに、今日、イエス様が問いかけている「あなたはどう思うか」という問いかけに、応えていった人たち。
国や王様に任せるんじゃなくて、自分で聖書を読み、自分で考え、言葉にしていった人たち。
それが、バプテストの人たちだったんです。
私たちは、今も、その想いを、大事にしています。
信仰というのは、決して、人任せにできない。
今日何を食べるか、何を着るかということは、他人に委ねることができても、自分の信仰を、他人に委ねることはできません。
何を信じるか、どう信じるかを、決めることができるのは、自分だけなのです。
信仰告白もそうです。
どんなに素晴らしい信仰告白をしたとしても、その言葉が、その人自身の想いからでたものでなければ、意味がありません。
逆に言えば、どんなに短い言葉であっても、どんなに未熟な言葉であったとしても、その人自身の言葉であるならば、それは立派な信仰告白と言えるでしょう。
大事なのは、自分の想いで、自分の言葉で、自分の生き様で、イエス様に応えていくことです。
「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけるイエス様に、「わたしはこう思う。」「わたしはこう信じている。」と応えていくことです。
イエス様は、その応答を、求めています。
・間違いを恐れない
応答していく時に、大事なのは、間違いを恐れないことです。
皆さんの中には、自分の信仰は、これでいいんだろうか。
間違っていないだろうか。
不安を持っておられる方が、いらっしゃるかもしれません。
あるいは、これから、クリスチャンとして生きていきたいと思っておられる方の中には、自分の信仰はまだまだだ。
自分は、まだ足りない。わかっていない。
そう思って、踏み出せずにいる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、恐れる必要はありません。
そもそも完璧な信仰など、ありません。
実は、今日の箇所に登場するペトロも、間違っていました。
ペトロは、イエス様のことを「神からのメシアです。」と告白しました。
その言葉そのものは、間違いではなかったでしょう。
でも、彼の持っていたメシア理解は、イエス様のそれと、大きくずれていました。
22節で、イエス様が言われている通り、イエス様はこの後、十字架に架けられていきますが、まさかそんなことになるなんて、ペトロは思ってもいませんでした。
当時、ユダヤ民衆が期待していたのは、ローマの支配からの解放でした。
力によって、この世の権力者達を打ち倒し、自由と平和をもたらしてくれる。
そういうメシアを、待っていたわけです。
ペトロを含め、弟子達は、イエス様こそ、そのメシアであると信じていました。
ですから、弟子達は、捕らえられ、十字架に架けられていくイエス様に、躓きました。
彼らの信仰は、壊されました。
でも、それで終わらず、復活されたイエス様との出会いを通して、再構築されていきました。
これが、信仰者の歩みです。
日々の歩みを通して、変えられていく。
新しくされていく。
それが、信仰者の歩みです。
私たちの教会では、バプテスマ、いわゆる洗礼を受けたいと言われる方、
あるいは、他の教会から、この教会に移りたいと言われる方に、信仰告白をしていただいていますが、
その文章の中には、必ず、日付を入れてもらっています。
それは、人の信仰が、変わっていくものだからです。
信仰告白で表された信仰は、その日、その時点の信仰であり、更新されていくものです。
そのしるしとして、日付を書いてもらっているわけです。
・日々新たに
ですから、間違いを恐れる必要は、ありません。
むしろ、自分の信仰は間違いないと、そう思うことの方が、危険です。
これは、ルカによる福音書には記されていない話なんですが、
イエス様が、自らの運命、つまり、22節に記されています、多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると、弟子達に言われた時、
ペトロは、イエス様をわきへ連れていって、いさめるということがありました。
いさめるというのは、「そんなこと言うもんじゃありません。」って、忠告するってことです。
マタイによる福音書と、マルコによる福音書は、そのことを書き残しています。
ペトロは、イエス様の言葉が、自分の信じていることとあまりに違うので、思わず、そんなこと言うもんじゃないって、諌めてしまったんです。
自分の信仰を優先するあまり、イエス様の言葉を聞けなくなってしまったのです。
自分の信仰を絶対化するということは、そういうことなのです。
そもそも、イエス様は、私たちの理解におさまるお方ではありません。
その語りかけは、いつも、私たちに、新しい発見や、気づきを与えてくれます。
そのイエス様に委ねて、日々、つくりかえられていくこと。
新しくされていくこと。
それこそが、信仰者の姿です。
だから、恐れず、イエス様に応答していきましょう。
「あなたは、わたしを、何者だと言うのか。」
そのイエス様の語りかけに、応えていきましょう。
自分なりの言葉で、自分なりの生き方で、イエス様に応答していきましょう。
それぞれの応答を、イエス様は、喜んで受けとってくださいます。
お祈りいたします。