聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書9章28節〜36節。
新共同訳新約聖書123ページです。
9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
9:32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。
9:33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。
9:34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。
9:35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 9:36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
「平和の計画を信じて」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は、「後になってわかる」という話をしたいと思います。
その時わからなくても、しばらく時間が経って、わかったり、気づいたりすることがある。
私にとっては、教会が、そうでした。
私は、お父さんもお母さんもクリスチャンで、小さい頃から教会に行っていました。
でも、教会の何が良いのか、正直、わかりませんでした。
礼拝は退屈だし、騒いだら怒られるし、牧師の話も、何を言っているのかよくわからない。
それに日曜日といえば、貴重な休日です。
周りの友達は、みんな遊んだり、どこかに出かけたり、楽しく過ごしているのに、うちは必ず教会。
友達と遊ぶ約束もできない。
それでも、ラッキーだったのは、教会に、同年代の友達がいたってことです。
遊ぶ場所もありましたし、遊ぶ仲間もいました。
それが、唯一と言っていい、私が教会に行く理由でした。
でも、その仲間たちも、成長するにつれて、教会に来なくなりました。
部活とか、勉強とかが忙しくて、教会に来なくなった。
私も、そうでした。
中学高校は、部活ばっかりしていましたので、教会に行かなくなりました。
そのうち、親に連れて行かれるっていうこともなくなって、教会に行く理由が、なくなってしまいました。
正直、自分から教会に行くっていうことは、ないだろうなって思っていました。
そんな私が、今、教会の牧師をしている。
自分でも不思議に思います。
当時の私からしたら、考えられないことです。
なぜ、「教会に行く理由なんてない」と思っていた私が、牧師になったのか。
いったい、何があったのか。
今日は、時間がありませんので、全部は話せませんけれども、一つ言えるとしたら、それは、教会の良さを知ったということです。
私は、教会ってすごいところだと思います。
こんなに、誰でも来ていい場所、だれもが受け止められる場所って、他にないんじゃないなかって思ってます。
教会のリーダーであるイエス様は、すべての人を受け入れてくれます。
弱いところや、欠けているところ、汚いところも含めて、受け止めてくれる。
そのことに気づいた時に、私は、教会って、いい場所だなって思ったし、大切な場所だって、思うようになりました。
20年以上かかって、私は、そのことに気づいたんです。
生まれる前から教会に来てたのに、20年以上経って、教会の良さに気づいたんです。
そして、今も、新しく、気づかされることがあります。
そういうことがあるんです。
今わからなくても、しばらく時間が経って、後でわかったり、気づいたりすることがあるんです。
イエス様の弟子たちも、そうでした。
イエス様の弟子たちも、イエス様のことを、全然わかっていませんでした。
イエス様の言葉も、行動も、弟子たちには、理解できないことがいっぱいでした。
そのせいで、間違ったり、つまずいたり、立ち止まることもありました。
でも、弟子たちは、イエス様のことを伝える人になっていきました。
後になってわかったんです。
時間をかけて、「ああ、あれはそういうことだったんだ」って、気づかされていったんです。
時間をかけて、気づかされていくことがある。
時間をかけないと、わからないことがあるんだってことです。
だから、簡単に結論を出してはいけない。
今、意味がわからなくても、良さがわからなくても、それを結論にしないで欲しい。
時間をかけて、気づかされていくことがある。
時間をかけないと、わからないことがある。
今日は、ぜひ、そのことを、覚えておいて欲しいと思います。
お祈りします。
・
時間をかけて、気づかされていくことがある。
時間をかけないと、わからないことがある。
今日の箇所は、そんなことを私たちに、教えているように思います。
今日の箇所の見出しには、「イエスの姿が変わる」と、記されています。
よく”イエス様の変容”と言われる場面です。
イエス様が祈っていると、顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いたと記されています。
さらにそこに、モーセとエリヤも、出てきます。
二人とも、旧約聖書に出てくる人で、イエス様の時代より、何世紀も前の人物です。
その二人が、栄光に包まれて現れ、イエス様と話をしたという、なんとも不思議な場面です。
・
文脈から言いますと、この場面は、イエス様の歩みにおける大切な転換点、ターニングポイントです。
9章全体にわたって、そのことが語られています。
先週の箇所では、イエス様を待ち受ける、死と復活の出来事が、語られていました。
今日の箇所でも、エルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた、とあります。
また、43節からの箇所にも、「人の子は、人々の手に引き渡されようとしている」と、自分の死を予告する言葉が記されています。
そして、51節には、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」と記されています。
いよいよエルサレムに向かっていく。
ガリラヤ湖周辺で活動していたイエス様が、いよいよエルサレムへ、そして、十字架へ向かっていく。
その決意を固められるという、そういうことが、9章全体を通して、語られています。
今日の箇所は、そのような文脈の中にあるわけです。
そのことを考慮して読めば、イエス様の変容も、ある種の方向転換を指し示していると、理解することができます。
イエス様の姿が変わるということを通して、イエス様の歩みにおけるターニングポイントを指し示しているんだと、そう理解することもできるわけですが、
でも、それは、イエス様がこの後どうなるかを知っているから言えることであって、
まさか、そんなことが起こっていくなんて、この時、考えもしていなかった弟子たちからすれば、なんのことかわからない。
理解できない出来事だったに違いなかっただろうと思います。
・
この場面に居合わせたのは、ペトロとヨハネとヤコブでした。
彼らは、イエス様に連れられて、祈るために、山に登りました。
そして、そこで、この不思議な経験をするわけですが、でも、この時、彼らは、「ひどく眠かった」と記されています。
よほど疲れていたんでしょう。
こらえてなければならないほど、激しい睡魔に襲われていました。
今日の箇所の情景描写が、ひどく曖昧なのは、そのせいかもしれません。
「栄光に包まれて現れた」とか「栄光に輝くイエス」とか、抽象的な言葉が並んでいます。
イエス様の顔の様子が変わったというのも、具体的なことは、何も書かれていません。
目の前で起こっている出来事が、夢なのか、現実なのかもわからない。
そんなぼんやりとした中に、あったのではないでしょうか。
そんな状況は、ペトロの言葉からも感じられます。
ペトロは、モーセとエリヤが、イエス様から離れようとした時、イエス様に「仮小屋を三つ建てましょう」と言いました。
でも、ペトロ自身、なんでそんなことを言ったのか、自分でもわからなかったと、記されています。
面白いですね。
「自分でも何を言っているのか、分からなかった」。
私も時々、緊張したりした時に、頭が働かなくなって、思いもしないことを口にしてしまうことがありますけれども、
この時のペトロも、そうだったんでしょうか。
緊張して、舞い上がってしまったんでしょうか。
あるいは、意識を保つだけでも精一杯、夢なのか、現実なのかもわからない。
そんな状況だったのでしょうか。
最後には、雲が現れて、彼らを覆ったと、記されています。
雲に飲み込まれていく。
何も見えなくなっていく。
その時、弟子たちは、恐れたと記されています。
それは単に、視界がなくなっていくことに対する恐怖ではなかったでしょう。
旧約聖書において雲は、神の臨在をあらわすものでした。
出エジプトの場面では、昼は雲の柱、夜は火の柱が、イスラエルの民を導いたということがありました。
あるいは、モーセは、十戒を受け取る時、雲が彼を覆った。
そして、その雲の中から、神は、モーセに呼びかけられたと、記されています。
まさに、今日の場面でも、雲の中から、語りかけがあります。
35節「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
弟子たちは、神の臨在を感じて、怖くなったのだと思います。
こんな場所にいていいのだろうか。
いちゃいけない場所に、いるんじゃないだろうか。
見てはならないものを、見ちゃったんじゃないだろうか。
死をすら、感じるような、恐怖の中にあったわけです。
そして、彼らは、黙ってしまいました。
36節「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。」
話さなかったと、記されていますが、話さなかったというよりも、話せなかったのではないでしょうか。
言葉にすることもできない。
一体この出来事は、何だったのか。
夢だったのか、それとも現実だったのか。
見ていいことだったのか、見ちゃいけないものだったのか。
恐怖や混乱の中で、誰にも話せなかったのではないでしょうか。
クリスマスの場面で、イエス様の父となるヨセフが、天使ガブリエルの知らせを聞いて、話せなくなったという場面がありました。
その時に、話せなくする理由として、天使が語ったのが、「時がくれば実現する私の言葉を、信じなかったからだ」ということでした。
時がくれば実現する。
今は、信じられなくても、わかる時が来る。
だから、沈黙して、その時を待ちなさい、ということです。
弟子たちも、そうだったのではないでしょうか。
この時は、理解できない。
言葉にするのも恐れ多い。
そのような出来事を経験して、口を閉ざしたわけですが、しかし、時は来たのです。
・
この話が、聖書に書き残されているということは、弟子たちが、語れる時が来たということです。
言葉にできなかった経験を、言葉にできる時が来た。
「あれは、このことだったんだ」と、気づかされる時が来たということです。
イエス様と一緒にいた二人が、モーセとエリヤだということも、
話していた内容が、イエス様が遂げようとしておられる最後についてだったということも、
きっと、当時は、わからなかったでしょう。
後になって、あれは、そういうことだったんだとわかっていった。
十字架と復活の出来事が終わって、振り返ってその意味に気づいた。
そんなことが、あったのだろうと思います。
もちろん、全てを理解したわけではなかったでしょう。
それでも、時間を経て、弟子たちは、この出来事を受け止め、語り出したということです。
ここが、今日覚えたい、大事なポイントです。
やがて、わかる時が来る。
今はわからなくても、きっと、その意味が、示される時が来るということです。
やっぱり、時があるだなって思わされます。
「何事にも時がある。天の下の出来事には全て定められた時がある。」という言葉が、コヘレトの言葉の中にあるように、全てには時がある。
すぐにわかることもあるかもしれない。
でも、5年や10年、20年経たないとわからないこと、気付けないこともあるのです。
ですから、その時を信じて、待ち望むという姿勢が、大切なのです。
簡単に答えを出そうとしない。
問いの前に佇むというか、保留するというか、すぐに結論を出さないことが、大事だということです。
これは、時代に逆行するようなメッセージかもしれません。
時代は、早さを求めます。
短時間で、答えを出す。早く答えにたどり着く。それが良いことだ思われています。
スマホの普及によって、わからないことがあったら、すぐにインターネットで調べることができるようになりました。
辞書をひいたり、本を読んだり、足で情報を集めたりしなくていい。
最近は、チャットGPTというのが出まして、質問を入力すると、AIが考えてくれて、文章を作ってくれるというものもできました。
先日、初めて使ってみまして、この聖書の箇所からメッセージを作ってって言ったら、一瞬で、それなりのものを、作ってくれました。
そのクオリティーにびっくりしました。
使い方によっては、とても便利な道具だと思いますけれども、
そうやって簡単に得られる答えとか言葉っていうのは、それなりのものでしかないのだと思います。
5年、10年、20年かけてわかることの重みに比べたら、実に軽い。
手っ取り早く、簡単に答えに辿りつく、答えを出すということも、時には必要なことかもしれませんが、
でも、やはり、物事には、時間をかけないとわからないことがある。
時が来ないと、気付けないことがある。
こんな時代に生きているからこそ、そのことを覚えておく必要があるのだと思います。
・
先ほど、こどもメッセージで、幼い頃の私が、教会に行く意味なんてないと思っていたという話をしました。
そんな私が、今日、教会で、聖書の話をしている。牧師をしている。
そのことを思う時に、本当に、人生ってわからないものだなって思います。
これは、良くも悪くもです。
今日は、こんなことをしていますが、5年後、10年後、どうなっているかは分かりません。
牧師として、立てなくなっていることも、十分、あり得ます。
やっぱり教会に行く意味なんてないって、思っているかもしれない。
そういう出来事に出会うことだって、あるかもしれない。
私たちは、そんな、不確定、不確実な人生を歩んでいるわけです。
自分の力でコントロールできない。
わからないことだらけの中を、歩んでいるわけです。
だからこそ、信仰を持って、生きていくことが大切なのです。
結論を急がないとか、時が来ることを信じて待つというのは、信仰のなせるわざです。
自分にはわからないけど、神様は、知っておられる。
神様は、最善の時を知っておられて、その時々に、最善なことをなしてくださっている。
私たちの見えないところ、気づかないところで、神様が、私たちを、最善の道へ、導いてくださっている。
神様が、平和の計画を、持っていてくださる。
そう信じて、生きていくことが、大切なのです。
結論を焦らず、神様の計画、神様が与えてくださる時を信じて、生きていきましょう。
お祈りします。