聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、マタイによる福音書11章28節〜30節。
新共同訳新約聖書21ページです。
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
「みんな背負われて生きている」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日の箇所で、イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」って、仰っています。
「休ませてあげよう」って、とても魅力的な言葉だなって思います。
休ませて欲しい。
抱えている重荷を、下ろしたい。
そんな人にとっては、すごく、ひきつけられる言葉です。
みんなは、どうでしょうか。
みんなは今、疲れているでしょうか。
重荷だって、思っていることがあるでしょうか。
たとえば、宿題はどうでしょうか。
宿題、やりたくないなー、めんどくさいなーって思って、ゲームに逃げちゃうことないでしょうか。
テストは、どうでしょうか。
テスト期間が近づいてくると、お腹が痛くなる、そんなことがないでしょうか。
中には、学校に行くこと自体が重荷だっていう人もいるでしょう。
友達付き合いが重荷だっていう人も、いるかもしれない。
親の期待に応えないとって、一生懸命、重荷を背負っている子もいるかもしれない。
お兄ちゃんとして、弟を守らないといけないって、重荷を負っている子もいるかもしれない。
イエス様は、そんな一人一人に、「私のところに来なさい。休ませてあげよう。」って言っているんです。
嬉しいなって思います。
でも、どうやって、休ませてくれるんでしょうか。
重荷を消してくれるんでしょうか。
私たちの代わりに、重荷を背負ってくれるんでしょうか。
お祈りしたら、宿題が終わってる。
教会に行ったら、テストで良い点が取れる。
あったらいいけど、残念ながら、そんなことはありません。
やっぱり宿題は、自分でしないといけないし、テストも、自分で勉強しないと、良い点は取れません。
どんなにお祈りしても、イエス様が、代わってくれることはありません。
やっぱり、自分の重荷は、自分で背負わないといけない。
じゃあ、イエス様は何をしてくれるのか。
イエス様は、重荷を背負っている私たち、一人一人を、背負ってくださっているんです。
イメージで言うとね、これが私たちです。
重荷を背負って生きている。
この私たちを、さらにその下で、支えている。
これが、イエス様なんだということです。
宿題は、代わってくれません。
テストも、やってはくれません。
でも、その重荷を背負う私たちを、背負ってくださっている。
だから、自分一人で背負わなきゃ、自分一人で頑張らなきゃって、思わなくて良いということです。
どんなに重荷が重くても、それも含めて、イエス様が背負ってくださっている。
倒れても、心配ありません。
イエス様が、支えてくださっている。
重荷を背負わなきゃ、背負わなきゃって思うんじゃなくて、
私たちは、背負われているんだ。支えられているんだ。
まず、そのことを、心に覚えておきましょう。
お祈りします。
・
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
疲れを覚え、癒しを求める現代人にとって、とても魅力的な言葉です。
教会の玄関に、このみ言葉を掲げているという教会も、多いのではないかと思います。
ちなみに、大分教会の外の掲示板にも、貼ってあります。
このみ言葉を見て、教会に入ってみようかなと思っていただけると良いのですが、
ただですね、このみ言葉は、休ませてあげようで、終わりじゃないんです。
むしろ、それ以降の言葉が大事でして、
そこには、「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。」と書いてあります。
「くびき」は、皆さんご存知でしょうか。
あまり、見る機会がないと思いますが、これのことです。
二頭の牛をついないでいる、この首元の道具。
これが、「くびき」です。
大抵これは、荷車とつながっておりまして、荷物とか人を運ばせるための道具として用いられます。
つまり、イエス様のくびきを負いなさいということは、イエス様の負っているものを、一緒に負いなさいということです。
くびきのもう一方を負って、イエス様の負っているものを、一緒に背負う。
でも、そんなことしたら、疲れるじゃないかって、思わないでしょうか。
「休ませてあげよう」って言いながら、「くびきを負いなさい」って、休ませたいのか、働かせたいのか、どっちなんだって、そう思わないでしょうか。
ここが、今日の箇所の、とても重要なところで、
「休む」というのと「くびきを負う」という、一見、真逆にも思える二つのことが、イエス様の中では、一つだというのです。
29節「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」
つまり、荷物を背負えば、安らぎが得られると、イエス様は言っているわけです。
普通は、「荷物を下ろせば、安らぎが得られる。」と思うんじゃないでしょうか。
背負っている重荷がなくなれば、安らぎが得られる。
どうやったら、荷物を下ろせるか。
どうやったら、荷物がなくなるか。
そう考えるのが、普通です。
でも、イエス様は、そうじゃない。
荷物をなくすんじゃなくて、むしろ、私の荷物を背負いなさい。
「そうすれば、安らぎが得られる」と、仰っているわけです。
・
その理由として、イエス様は、30節で「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言われますが、
どんなに負いやすく、どんなに軽いものであっても、荷物は荷物です。
背負いたくなどありません。
そもそも、イエス様の負っている荷物が、軽いはずなどありません。
イエス様は、キリストとして、全ての人を救うという使命を背負って歩んでいました。
全ての人を救うなんて、そんな使命、私たちには、重すぎます。
とても担うことなどできません。
ではなぜ、イエス様は、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と言われたのでしょうか。
ここで大事なのが、「わたしに学びなさい」という呼びかけです。
「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」
何を学べというのでしょうか。
イエス様のくびきを負うことで、イエス様から学べること。
大事なことが二つ、あります。
一つは、イエス様が背負っている荷物の内容。
もう一つは、その荷物の背負い方です。
まず、イエス様が背負っている荷物の内容ですけれども、それは、先ほど言ったように、全ての人の救いです。
全ての人のいのちと言ってもいいかもしれません。
その使命を背負って、イエス様は、歩んでおられるということです。
全ての人ですから、その中には、当然、私たち、一人一人も含まれています。
つまり、イエス様は、私のいのち、私たちのいのちを背負って、歩んでおられるということです。
これが、まず、私たちが、学ぶべきことの一つです。
イエス様は、私たちを背負ってくださっている。
私たちは、イエス様によって、背負われ、支えられて生きているんだということです。
それゆえに、全てを、自分一人で背負おうとしなくて良いということです。
支えてくださる方に、体重をあずけながら、荷物を背負っていく。
これが、イエス様のくびきから学べる二つ目のこと。
支えてくださる方に、体重をあずけながら、荷物を背負っていく。
これは、生きていく上で、すごく大事なことだと思います。
私は、お笑いが好きなんですが、特に青春時代、すごく好きだったのが、ナインティナインの岡村隆史さんです。
めちゃイケは、もう欠かさず見ていましたけれども、
その岡村さんが、病気で、半年間、お休みした時がありました。
半年間お休みして、復帰するって、とても勇気のいることだったようですが、復帰してみると、変わっている自分がいたそうです。
何が変わったか。
病気を経て、全部を自分で背負わなくても、良くなったそうです。
それまでは、自分がすべったら、全部、自分のせいだと思っていた。
でも、復帰してからは、すべっても、自分だけじゃない。
相方もこみだし、それを言わせたスタッフも悪い。
それを撮影した、カメラマンも悪いし、そのしょうもないことをとった音声も悪い。
みんなのせいにしよと思った。
そしたら、すごい楽になったそうです。
イエス様が教えているのも、まさに、そういうことじゃないかって思うんです。
全部自分で背負うな。
自分のせいだって、思うなってことです。
イエス様ご自身も、そうだったんじゃないでしょうか。
イエス様も、十字架を背負われた時、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」って叫ばれました。
神様、なんで見捨てたんだ!って、訴えたわけです。
そうやって、私たちも、イエス様に訴えて良いし、不平不満を言って良い。
イエス様のせいにして良い。全部、私が、引き受けるからって、イエス様は、そう言っておられるのです。
・
今一度、整理したいと思いますが、イエス様のくびきから学ぶこと。
その1は、背負われているということ。
イエス様が、私たちを、背負ってくださっている。
それが、第一に、覚えることです。
そして、そのことの故に、二つ目、責任をまかせて生きるということ。
イエス様にをあずけて良いということです。
自分のせいだって、背負い込むんじゃなくて、イエス様のせいにして良いということです。
私たちの生きる社会は、よく、自己責任社会だと言われます。
何をするにも自己責任。
責任を負わされることはあっても、責任を任せろなんて言ってくれる人は、いないかもしれません。
でもイエス様は、一人のせいにしない。
一人のせいに、させないお方です。
私が責任を担うからと、言ってくださっている。
だから、自分のせいにして背負い込むのではなく、イエス様のせいにして良い。
失敗した時も、重荷に耐えられない時も、イエス様のせいにして良い。
そうすれば、安らぎが得られると、イエス様は、招いているのです。
何よりも良くないのは、自分一人で背負い込むことです。
皆さんの中には、辛い時も我慢して、不平不満を言わず、弱音を吐かずに生きる人こそ、クリスチャンだと思っていらっしゃる方がいるかもしれません。
そうやって忍耐強く生きることを、イエス様は求めていると思っている人がいるかもしれません。
イエス様は、そんな重荷を背負わせるようなお方じゃありません。
むしろ、私たちを背負ってくださるお方です。
責任を任せなさいと、言ってくださるお方です。
そのお方に任せて生きる人。
ときに愚痴を言ったり、不平不満を呟いたりしながら生きる人。
それがクリスチャンなのです。
・
2023年度、新しい歩みが始まりました。
来週は、礼拝の後に、総会が行われます。
1年間の歩みを決める大切な総会です。
その中で、新しい目標、テーマについても審議されますが、
今日のイエス様のことを、ぜひ、心に覚えて歩み出したいと思います。
私たちは、背負われている。
私たちは、任せて良い。
決して、一人のせいにしない。
一人のせいにさせない、イエス様のことを、覚えておきたいと思います。
そして、そのイエス様の教会を担う者として、同じように、一人のせいにしない。
一人のせいにさせない教会。
一緒に、担い合う教会を目指して、歩んでいきましょう。
お祈りします。