2023年4月16日礼拝メッセージ「みんな背負われて生きている」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、マタイによる福音書11章28節〜30節。

新共同訳新約聖書21ページです。

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

「みんな背負われて生きている」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日の箇所で、イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」って、仰っています。

「休ませてあげよう」って、とても魅力的な言葉だなって思います。

休ませて欲しい。

抱えている重荷を、下ろしたい。

そんな人にとっては、すごく、ひきつけられる言葉です。

みんなは、どうでしょうか。

みんなは今、疲れているでしょうか。

重荷だって、思っていることがあるでしょうか。

たとえば、宿題はどうでしょうか。

宿題、やりたくないなー、めんどくさいなーって思って、ゲームに逃げちゃうことないでしょうか。

テストは、どうでしょうか。

テスト期間が近づいてくると、お腹が痛くなる、そんなことがないでしょうか。

中には、学校に行くこと自体が重荷だっていう人もいるでしょう。

友達付き合いが重荷だっていう人も、いるかもしれない。

親の期待に応えないとって、一生懸命、重荷を背負っている子もいるかもしれない。

お兄ちゃんとして、弟を守らないといけないって、重荷を負っている子もいるかもしれない。

イエス様は、そんな一人一人に、「私のところに来なさい。休ませてあげよう。」って言っているんです。

嬉しいなって思います。

でも、どうやって、休ませてくれるんでしょうか。

重荷を消してくれるんでしょうか。

私たちの代わりに、重荷を背負ってくれるんでしょうか。

お祈りしたら、宿題が終わってる。

教会に行ったら、テストで良い点が取れる。

あったらいいけど、残念ながら、そんなことはありません。

やっぱり宿題は、自分でしないといけないし、テストも、自分で勉強しないと、良い点は取れません。

どんなにお祈りしても、イエス様が、代わってくれることはありません。

やっぱり、自分の重荷は、自分で背負わないといけない。

じゃあ、イエス様は何をしてくれるのか。

イエス様は、重荷を背負っている私たち、一人一人を、背負ってくださっているんです。

イメージで言うとね、これが私たちです。

重荷を背負って生きている。

この私たちを、さらにその下で、支えている。

これが、イエス様なんだということです。

宿題は、代わってくれません。

テストも、やってはくれません。

でも、その重荷を背負う私たちを、背負ってくださっている。

だから、自分一人で背負わなきゃ、自分一人で頑張らなきゃって、思わなくて良いということです。

どんなに重荷が重くても、それも含めて、イエス様が背負ってくださっている。

倒れても、心配ありません。

イエス様が、支えてくださっている。

重荷を背負わなきゃ、背負わなきゃって思うんじゃなくて、

私たちは、背負われているんだ。支えられているんだ。

まず、そのことを、心に覚えておきましょう。

お祈りします。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

疲れを覚え、癒しを求める現代人にとって、とても魅力的な言葉です。

教会の玄関に、このみ言葉を掲げているという教会も、多いのではないかと思います。

ちなみに、大分教会の外の掲示板にも、貼ってあります。

このみ言葉を見て、教会に入ってみようかなと思っていただけると良いのですが、

ただですね、このみ言葉は、休ませてあげようで、終わりじゃないんです。

むしろ、それ以降の言葉が大事でして、

そこには、「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。」と書いてあります。

「くびき」は、皆さんご存知でしょうか。

あまり、見る機会がないと思いますが、これのことです。

二頭の牛をついないでいる、この首元の道具。

これが、「くびき」です。

大抵これは、荷車とつながっておりまして、荷物とか人を運ばせるための道具として用いられます。

つまり、イエス様のくびきを負いなさいということは、イエス様の負っているものを、一緒に負いなさいということです。

くびきのもう一方を負って、イエス様の負っているものを、一緒に背負う。

でも、そんなことしたら、疲れるじゃないかって、思わないでしょうか。

「休ませてあげよう」って言いながら、「くびきを負いなさい」って、休ませたいのか、働かせたいのか、どっちなんだって、そう思わないでしょうか。

ここが、今日の箇所の、とても重要なところで、

「休む」というのと「くびきを負う」という、一見、真逆にも思える二つのことが、イエス様の中では、一つだというのです。

29節「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」

つまり、荷物を背負えば、安らぎが得られると、イエス様は言っているわけです。

普通は、「荷物を下ろせば、安らぎが得られる。」と思うんじゃないでしょうか。

背負っている重荷がなくなれば、安らぎが得られる。

どうやったら、荷物を下ろせるか。

どうやったら、荷物がなくなるか。

そう考えるのが、普通です。

でも、イエス様は、そうじゃない。

荷物をなくすんじゃなくて、むしろ、私の荷物を背負いなさい。

「そうすれば、安らぎが得られる」と、仰っているわけです。

その理由として、イエス様は、30節で「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言われますが、

どんなに負いやすく、どんなに軽いものであっても、荷物は荷物です。

背負いたくなどありません。

そもそも、イエス様の負っている荷物が、軽いはずなどありません。

イエス様は、キリストとして、全ての人を救うという使命を背負って歩んでいました。

全ての人を救うなんて、そんな使命、私たちには、重すぎます。

とても担うことなどできません。

ではなぜ、イエス様は、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と言われたのでしょうか。

ここで大事なのが、「わたしに学びなさい」という呼びかけです。

「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」

何を学べというのでしょうか。

イエス様のくびきを負うことで、イエス様から学べること。

大事なことが二つ、あります。

一つは、イエス様が背負っている荷物の内容。

もう一つは、その荷物の背負い方です。

まず、イエス様が背負っている荷物の内容ですけれども、それは、先ほど言ったように、全ての人の救いです。

全ての人のいのちと言ってもいいかもしれません。

その使命を背負って、イエス様は、歩んでおられるということです。

全ての人ですから、その中には、当然、私たち、一人一人も含まれています。

つまり、イエス様は、私のいのち、私たちのいのちを背負って、歩んでおられるということです。

これが、まず、私たちが、学ぶべきことの一つです。

イエス様は、私たちを背負ってくださっている。

私たちは、イエス様によって、背負われ、支えられて生きているんだということです。

それゆえに、全てを、自分一人で背負おうとしなくて良いということです。

支えてくださる方に、体重をあずけながら、荷物を背負っていく。

これが、イエス様のくびきから学べる二つ目のこと。

支えてくださる方に、体重をあずけながら、荷物を背負っていく。

これは、生きていく上で、すごく大事なことだと思います。

私は、お笑いが好きなんですが、特に青春時代、すごく好きだったのが、ナインティナインの岡村隆史さんです。

めちゃイケは、もう欠かさず見ていましたけれども、

その岡村さんが、病気で、半年間、お休みした時がありました。

半年間お休みして、復帰するって、とても勇気のいることだったようですが、復帰してみると、変わっている自分がいたそうです。

何が変わったか。

病気を経て、全部を自分で背負わなくても、良くなったそうです。

それまでは、自分がすべったら、全部、自分のせいだと思っていた。

でも、復帰してからは、すべっても、自分だけじゃない。

相方もこみだし、それを言わせたスタッフも悪い。

それを撮影した、カメラマンも悪いし、そのしょうもないことをとった音声も悪い。

みんなのせいにしよと思った。

そしたら、すごい楽になったそうです。

イエス様が教えているのも、まさに、そういうことじゃないかって思うんです。

全部自分で背負うな。

自分のせいだって、思うなってことです。

イエス様ご自身も、そうだったんじゃないでしょうか。

イエス様も、十字架を背負われた時、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」って叫ばれました。

神様、なんで見捨てたんだ!って、訴えたわけです。

そうやって、私たちも、イエス様に訴えて良いし、不平不満を言って良い。

イエス様のせいにして良い。全部、私が、引き受けるからって、イエス様は、そう言っておられるのです。

今一度、整理したいと思いますが、イエス様のくびきから学ぶこと。

その1は、背負われているということ。

イエス様が、私たちを、背負ってくださっている。

それが、第一に、覚えることです。

そして、そのことの故に、二つ目、責任をまかせて生きるということ。

イエス様にをあずけて良いということです。

自分のせいだって、背負い込むんじゃなくて、イエス様のせいにして良いということです。

私たちの生きる社会は、よく、自己責任社会だと言われます。

何をするにも自己責任。

責任を負わされることはあっても、責任を任せろなんて言ってくれる人は、いないかもしれません。

でもイエス様は、一人のせいにしない。

一人のせいに、させないお方です。

私が責任を担うからと、言ってくださっている。

だから、自分のせいにして背負い込むのではなく、イエス様のせいにして良い。

失敗した時も、重荷に耐えられない時も、イエス様のせいにして良い。

そうすれば、安らぎが得られると、イエス様は、招いているのです。

何よりも良くないのは、自分一人で背負い込むことです。

皆さんの中には、辛い時も我慢して、不平不満を言わず、弱音を吐かずに生きる人こそ、クリスチャンだと思っていらっしゃる方がいるかもしれません。

そうやって忍耐強く生きることを、イエス様は求めていると思っている人がいるかもしれません。

イエス様は、そんな重荷を背負わせるようなお方じゃありません。

むしろ、私たちを背負ってくださるお方です。

責任を任せなさいと、言ってくださるお方です。

そのお方に任せて生きる人。

ときに愚痴を言ったり、不平不満を呟いたりしながら生きる人。

それがクリスチャンなのです。

2023年度、新しい歩みが始まりました。

来週は、礼拝の後に、総会が行われます。

1年間の歩みを決める大切な総会です。

その中で、新しい目標、テーマについても審議されますが、

今日のイエス様のことを、ぜひ、心に覚えて歩み出したいと思います。

私たちは、背負われている。

私たちは、任せて良い。

決して、一人のせいにしない。

一人のせいにさせない、イエス様のことを、覚えておきたいと思います。

そして、そのイエス様の教会を担う者として、同じように、一人のせいにしない。

一人のせいにさせない教会。

一緒に、担い合う教会を目指して、歩んでいきましょう。

お祈りします。

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