聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書9章1節〜6節。
新共同訳新約聖書121ページです。
9:1 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。
9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、
9:3 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。
9:4 どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。
9:5 だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」
9:6 十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。
「信頼を持って、行け」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
みんなは、「おつかい」に行ったことがあるでしょうか。
今日のお話は、弟子たちにとって、初めてのおつかいのお話です。
イエス様は、神様のことを伝えるため、
病気の人を助けるために、弟子たちに行けと言われました。
これまでは、イエス様がしてきたことを、今度は、弟子たちがするようにって、言われたんです。
きっと、緊張したでしょうし、不安もいっぱいあったことでしょう。
そんな、いっぱい不安を抱えた弟子たちに、よりによってイエス様は、「旅には、何も持って行ってはならない」って言ったんです。
旅にでかけるのに、何も持って行くなって、どういうことだって、思いませんか。
旅に出かける時、みんなだったら、何を持って行くでしょうか。
まず、着替えですよね。
お金も必要です。
私だったら、携帯、パソコン、充電器、歯ブラシとか、髭剃りも持っていきます。
それに、旅には、トラブルがつきものです。
いつ何が起こるかわからない。
雨が降るかもしれないので、傘も持って行った方がいい。
急に寒くなるかもしれないので、上着もいる。
下着だって、余計に1枚や2枚あった方がいいかもしれない。
ズボンだって、1本じゃ心配です。
途中で、破けちゃうかもしれないので、余計に何本か持って行った方がいい。
昔の私は、本当に、そんな感じでした。
だから、いつも、大きなバックがパンパン。
移動するだけで、疲れちゃう。
でも、それだけたくさんの荷物がないと、安心して、出発することができませんでした。
きっと弟子たちもそうだったと思います。
どんな人と出会うだろう。
親切な人はいるだろうか。
泊まる場所はあるだろうか。
食べるものは、大丈夫だろうか。
それでなくても、はじめてのおつかいですから、念には念を入れて、準備を整えていきたかっただろうと思います。
それなのに、イエス様は、「何も持って行くな」って、言われたんです。
なんででしょう。
それは、きっと、もので、不安を埋めるなってことだと思います。
荷物をいっぱい持って、それで、安心しようとするな。
そうじゃなくて、あなた方は、私を信じなさい。
どんな時も、私がいるから、
何かあった時には、私が飛んでいくから、
だから、安心して生きなさいって、そう言いたかったんじゃないでしょうか。
物っていうのは、いつか無くなります。
お金だって、使ったら減っていきます。
無くなったり減ったりする物を頼って、安心したり、不安になったりするんじゃなくて、
絶対になくならない、
いつも共にいてくださるイエス様を信じなさい。
イエス様を信じていれば大丈夫か?
多分ね、大丈夫じゃないですよ。
イエス様を信じてたって、いろいろあるでしょう。
予想外のことも起こります。
乗り越えられないと思うようなことだって、あります。
イエス様ですら、裏切られたり、追い出されたり、大変なこといっぱいあったんだから、弟子たちにだって、そりゃあるでしょう。
でも、大丈夫。
でも、私が共にいる。
イエス様は、そうやって言われるんです。
来週から、4月になります。
新しい歩みが始まります。
学年が上がる人もいるでしょう。
新しいクラスになったり、新しい出発をする人もいると思います。
何が待ってるかわかりません。
大丈夫じゃないこともあるかもしれない。
でも、どんな時も、私たちは、ひとりじゃありません。
イエス様が一緒にいる。
「何も持って行くな。
私があなたと一緒にいる。
私を信じなさい。
私を信じて、思い切っていけ」って、イエス様は、私たちを応援しています。
このイエス様を信じて、新しい歩みに、出発して行きましょう。
お祈りします。
・親心
先週は、お休みをいただきまして、実家のある札幌に帰っておりました。
父親が退職するということで、勤めていた幼稚園の先生たちが、感謝会を企画してくださいまして、そのサプライズゲストということで、招かれて参りました。
最初は、年度末の忙しさに、断るしかないと思っていたのですが、
光さんからも、行ってこいと言ってもらい、
執事の皆さんからも、親孝行してきてくださいと、言っていただきまして、参加してくることができました。
年度末のこの忙しい時期に、武宮姉妹には、礼拝メッセージを引き受けていただき、
執事の皆さんには、総会に向けてのスケジュールも、調整していただき、本当に感謝でした。
おかげさまで、サプライズも成功しまして、少しは親孝行できたように思います。
光さんのおかげで、久しぶりに、親子水入らずの時間も過ごすことができました。
そうしますと、親というのは、いつまでも、子どものことが心配なのか、
やれ、あれはあるのか、これは足りているか、
お腹も出てきて、スーツも入らないだろう。
毎週おなじネクタイだけど、ネクタイはあるのか。
これも必要だろう、あれも必要だろう。
いらないと言うのに、色々、持たせてくれました。
これが親心かなと、感謝して、帰ってきましたけれども、
さて、イエス様は、弟子たちのことが心配ではなかったのでしょうか。
私の両親とは違って、イエス様は弟子たちに、「何も持って行くな」と言われました。
厳しいし、冷たいなと思ってしまいます。
・何も持って行くな?
なぜイエス様は、「何も持って行ってはならない」と言われたのでしょうか。
弟子たちを鍛えるためでしょうか。
そうだとも言えるでしょう。
でも、より正確に言うならば、信じる者となるため。
物に頼るのではなく、神により頼む者となるため、だったのではないでしょうか。
先週水曜日、板井玲子姉妹が、天に召されました。
先週の日曜日には、いつもと変わらず、礼拝に参加されていたと聞きました。
突然の訃報で、いまだに、信じられない気持ちでいます。
今も、この礼拝堂のどこかにいるんじゃないか。
いつも、いらっしゃるのが当たり前でしたので、寂しい気持ちでいっぱいですが、
その玲子さんの葬儀の中で、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」というパウロの言葉を読みました。
パウロは、キリスト教会にとって、偉大な伝道者ですが、「実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言われていたり、「棘」と言われる、なんらかの持病も抱えていました。
彼は、その棘が離れ去るようにと、何度も、繰り返し、主に願いましたが、主は、棘を取り去ってはくれませんでした。
祈っても、聞かれず、祈っても、聞かれず、その中で、たどり着いた、イエス様のメッセージ。
それが、「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ。」というものでした。
パウロにとって、棘は、いらないもの、なくなって欲しいものでした。
「ああ、この棘さえなければ、自分はもっと自由に、もっと強くいられるのにな」と、そう思っていた。
でも、違ったんです。
むしろ、その棘は、パウロにとって必要なものでした。
パウロは、その棘を通して、キリストの恵みに気づかされていったのです。
正確には、棘を通して、弱い者となった。
この弱さが、パウロを、キリストへと導いていったのです。
弱いからこそ、キリストを頼り、
弱いからこそ、キリストを信じ、
弱いからこそ、キリストに従っていく。
弱さを通して、パウロは、自分ではなく、キリストにより頼むものとなっていった。
自分の力でなく、キリストの力によって、生きる人となっていったのです。
「強くてはわからない。
弱いからこそわかる、キリストのありがたみ。
弱いからこそわかる、愛されることのありがたみ。」そのようなことを、共に覚えました。
今日の箇所が、教えているのも、きっとそういうことなんだろうと思うんです。
持ち物に満たされていては、わからないことがあるし、
持ち物に満たされていては、できないことがあるのです。
信じるということもそうです。
私たちの目は、見えるものに奪われます。
持ち物に満たされていたら、その持ち物によって安心を得るでしょう。
これだけあるから安心だ。
これだけ持っているから、大丈夫だと、そう思うでしょう。
でも、物はやがて無くなります。
お金も使えば、減っていきます。
そうすると、途端に、不安になってくる。
そんな無くなったり、減っていったりする物を頼りにするのでなく、キリストを信じる。
その信仰をもって、生きて行ってほしい。
そう思ったからこそ、イエス様は、弟子たちかに、何も持って行くなと言われたのではないでしょうか。
あえて、弟子たちから持ち物を奪うことによって、ただ私を信じなさい。
私を信じて、遣わされて行くようにと、弟子たちを押し出して行ったのです。
つまり、イエス様の「何も持って行くな」というのは、「信仰を持って、いけ」ということなのです。
信仰を持って行く。
信じて、出かけて行くためには、ない方が良いこともあるということです。
持ち物に満たされていたり、お金に満たされていては、できない。
何もないからこそできる。
何もないからこそ、生まれてくる歩みを、イエス様は、弟子たちに、経験させたかったのです。
・希望は無くならない
今日の箇所の最後には、
弟子たちが、「村から村へと巡り歩きながら、至る所で福音を告げ知らせ、病気を癒した」と記されています。
何も持たなくても、なんとかなったということでしょうか。
そうではないと思います。
イエス様でさえ、裏切られたり、追い出されたり、大変な目にいっぱいあってきたんですから、弟子たちだって、そりゃ、うまくいかないこともあったでしょう。
癒せない病気だってあったでしょうし、福音を受け入れない人たちだっていたでしょう。
だからイエス様は、迎え入れない時のことを、言っておられるんです。
5節「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」
誰にも歓迎されない時がある。
誰も、受け入れてくれない時があるということです。
でも、そんな時は、「足についた埃を払い落としなさい。」とイエス様は言われます。
「足についた埃を払い落とす」というのは、関係を切ることをあらわす行為だそうです。
受け入れてもらえない時には、自分のせいだと落ち込まないで、相手のせいにすればいい。
相手のせいにして、切り替えて、次に行けと言うことです。
いつか、迎え入れてくれる人がいる。
いつか、喜んでくれる人がいるから。
だから、信じて、出かけて行きなさい。
そんなふうに、イエス様は、弟子たちを励ましておられるのです。
イエス様を信じていれば、なんの問題も起こらない。
イエス様を信じていれば、万事うまく行く、なんて、そんなことはありません。
予想外のことだって起こりますし、しんどいことだってあるでしょう。
でも、決して、キリストの希望がなくなることはありません。
実際、弟子たちは、「村から村へと巡り歩きながら、至る所で福音を告げ知らせ、病気を癒した」と記されています。
その経験は、きっと彼らにとって、かけがえのない経験となったでしょう。
彼らは、その歩みを通して、イエス様への信頼を、確かなものとしていったことでしょう。
・新しい出発
2022年度も、様々なことがありました。
教会玄関のヒマラヤスギに虫が湧いたり、台風で看板が倒れたりすることもありました。
トルコ・シリアでは、大きな地震もあったり、ロシアとウクライナの戦争も続いています。
他方で、3年続いたコロナ危機も、少しずつ回復の兆しが見え、
祈祷会や教会学校、讃美歌を歌うこと、交読文や今月の讃美歌も再開しました。
来週から新年度、新しい歩みが始まりますけれども、どんな1年になるでしょうか。
良くも悪くも、思いがけない出来事や出会いが待っていると思います。
正直、準備は整っていません。
不安もあります。
だからこそ、信じて、歩み出していきましょう。
足りなさや、弱さを覚える時にこそ、できる歩みがある。
そのような者じゃなければ、わからない歩みがある。
イエス様を信じ、イエス様と共に歩む、その歩みへと、共に、出かけて参りましょう。
お祈りします。