聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書23章26節〜31節。
新共同訳新約聖書158ページです。
23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
23:27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。
23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
23:29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
23:30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。
23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
「あなたも見ていたのか」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
3月の月の讃美歌は、「あなたも見ていたのか」という讃美歌でした。
今日もその讃美歌を歌いましたけれども、皆さんは、どんなことを思いながら、歌ってきたでしょうか。
もう一度、歌詞を、読んでみたいと思います。
1番は、こんな歌詞でした。
1. あなたも見ていたのか、主が木にあげられるのを。
ああ、いま思いだすと、深い深い罪に、わたしはふるえてくる。
2. あのとき見ていたのか、主が釘をうたれるのを。
ああ、いま思いだすと、深い深い罪に、手足がふるえてくる。
3. あそこで見ていたのか、主が槍で刺されるのを。
ああ、いま思いだすと、深い深い罪に、からだがふるえてくる。
4. あなたも見ていたのか、主を墓に葬るのを。
ああ、いま思いだすと、深い深い罪に、こころがふるえてくる。
この讃美歌を歌う時、私は、最後までイエス様について行った、女性たちのことを思い浮かべました。
弟子たちが、イエス様を見捨てて逃げていく中、彼女たちは、留まって、見ていました。
イエス様が十字架に架けられるのも、息を引き取るのも、墓に葬られるのも、見ていました。
できることなら、なんとかしたかったでしょう。
捕まっていく時も、裁判の時も、言いたかった。
「違うんです。この人は、何も悪いことなんてしていないんです。」って。
でも、言えませんでした。
見ていることしか、できなかったのです。
十字架にかけられる時も、釘を打たれる時も、槍で刺される時も、墓に葬られる時も、見ていることしかできなかった。
それは、どれだけ辛いことだったでしょうか。
目の前で苦しんでいる人がいるのに、何もしてあげられないって、辛いですよね。
ましてその人が、大切な人であれば尚更です。
何かしてあげたいけど、何もできない。
黙って見ていることしかできない。
「イエス様、ごめん。
イエス様が苦しんでいるのに、何もできなかった。
見ていることしか、できなかった。
なんて自分は、だめなんだろう。
なんて自分は、弱いんだろう。」
そうやって、自分を責めながら、心を震わせている。
この讃美歌を歌う時、そんな様子を、思い浮かべるんです。
だから、この讃美歌を歌うと、ちょっと辛いなって思っていました。
この歌詞、歌うのちょっときついなって、思っていました。
でもね、つい最近、この讃美歌に、5番があることを知ったんです。
5番は、どんな歌詞かというと、こんな歌詞でした。
5、あなたもそこにいたのか、主がよみがえられたとき。
ああ、いま思いだすと、深い深い愛に、わたしはふるえてくる。
この歌詞にあるように、イエス様についていった女性たちは、最後、よみがえったイエス様を見るんです。
死んでいくのを見ていることしかできなかった彼女たちが、一番最初に、復活されたイエス様を見るんです。
ここに、希望があります。
苦しむ人を前に、何もできず、無力感でいっぱいのあなたへ。
無力でもいいから、その人のそばを離れないでほしい。
たとえ何もできなくても、そこにいることに意味があるから。
いつかきっと、喜びの時がやってくるから。
だから、希望を捨てないで。
そう、聖書は、語りかけています。
お祈りします。
・イエス様に従った女性たちではない
今言いました女性たちは、今日の箇所に登場する女性たちでは、ありません。
今日の箇所に登場する女性たちは、最後まで、イエス様についていった女性たちとは、違う人たちです。
最初、私は、そのことに気づかずに、
「今日の箇所に登場する女性たちは、最後までイエス様についていった女性たちだ」と、そう思い込んで読んでいました。
でも、何か、しっくりこないんです。
最後まで従っていった女性たちなら、なんでイエス様、こんなことを言うのかなって、
イエス様の言葉に、腑に落ちないものを、感じていました。
28節から、女性たちに対する、イエス様の言葉が、語られています。
そこには、こう記されています。
28節から
23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
23:29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
23:30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。
23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
非常に分かりにくい箇所ですが、
要するに、恐ろしい日がやってくるということです。
『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
当時は、子どもを産むということが、女性にとって、最大の喜びであると考えられていました。
女性の生き方が、非常に制限された時代の考えですが、
でも、イエス様は、「『子を産めない女が幸いだ』と言う日が来る。」と言っておられる。
これはつまり、子どもを産んだことを後悔する日が来るということです。
たとえばそれは、戦争の時代と言ってもいいかもしれません。
ルカによる福音書が書かれたのは、紀元後80年代だと言われています。
すでに当時、エルサレムは、ローマによって、滅ぼされていました。
ローマの圧政に対して、ユダヤ人たちは、戦いを挑んだわけですが、敗北してしまったわけです。
ルカによる福音書は、そんな時代に書かれました。
戦争によって、子どもが酷い目にあう。
命を奪われたり、捕まえられたりする。
そういう状況を目の当たりにしながら、書かれました。
書いた人たちは、きっと、「『子を産めない女が幸いだ』と言う日が来る。」って、こう言うことだったんだって、思ったでしょう。
子どもを産んだことを後悔する。
子どもたちが、こんなにも苦しい目にあうならば、子どもを産めない方が良かった。
それくらい、暗い時代がやってくると、イエス様は言われたんです。
また、その時には、30節「人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。」と言われています。
これも同じです。
あまりに酷い現実に耐えられず、逃げ場を求める、死をすら求める、
そんな時代がやってくるということです。
31節「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
「生の木」というのは、イエス様のことを表し、「枯れた木」は、イエス様を十字架に架ける人々を表すと言われます。
「私でさえ、こうされるなら、彼らは、一体どうなるのだろう。
どれだけ酷い目にあうんだろう。」という言葉です。
そんなふうに、イエス様は、女性たちに対して、恐ろしいことを語っておられるわけです。
子どもを産んだことを後悔するほど、恐ろしい日がやってくる。
全く希望のない。
それどころか、彼女たちを、厳しく、断罪するような言葉です。
なぜイエス様は、彼女たちに対して、そんな言葉を語ったのか。
わからずにいました。
・エルサレムの娘たち
それで調べて見ますと、彼女たちが、イエス様に従っていった女性たちではないということに、気づかされていったのです。
ここで大事なのが、「エルサレムの娘たち」という言葉です。
イエス様は、彼女たちのことを、「エルサレムの娘たち」と呼んでいます。
イエス様に、最後まで従っていった女性たちは、「ガリラヤから来た婦人たち」と言われています。
23章49節、これは、イエス様が息を引き取る場面ですが、
「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」と記されています。
今日の箇所に出てくる女性たちとは違って、イエス様に近づくこともできない。
仲間だってバレたら、どんな目に遭わされるか分かりませんので、「遠くに立って」見つめていた女性たち。
それから、23章55節、これは、イエス様のご遺体が、墓に収められる場面ですが、
「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け」と記されています。
最後まで、イエス様に従っていったのは、この「ガリラヤから来た婦人たち」です。
対して、今日の箇所に登場するのは、「エルサレムの娘たち」。
彼女たちは、イエス様を十字架に架けた、エルサレムの勢力に属する人たちです。
嘆き悲しんでいるのはかたちだけ。
本当の想いではありません。
そのように考えると、彼女たちに対して、イエス様が、厳しいことを言われたのも、納得できます。
「そんなふうに、悲しんでいるふりをするなら、自分と自分の子どものために泣け。
恐ろしい日が、やって来るのだから。」
これは、「目を覚ましなさい。
自分たちのしていることに、気づきなさい。」という、厳しい、悔い改めを迫る言葉です。
・復活の証人へ
教会の暦では、今日から受難週に入ります。
受難週は、イエス様が受けられた苦難、イエス様が背負われた十字架を思いながら、自らの歩みをかえりみる時です。
そういう意味では、「目を覚ましていなさい。」という呼びかけは、時にかなった呼びかけであると思います。
でも、それ以上に、今日覚えたいのは、ガリラヤから従ってきた女性たちのことです。
悲しむふりではなく、本当に、悲しんでいる女性たち。
イエス様が十字架に架けられ、息を引き取られていくのを、遠くから見つめていた女性たちです。
できるなら、イエス様を助けたい。
でも、何もできない。
見ていることしかできない。
そんな女性たちが、復活の証人となっていく。
イエス様の死の証人という、悲しい役目を負わされた女性たちが、復活の証人という、喜びの役割を与えられていく。
このことをこそ、今日は、覚えたいと思うのです。
苦しむ人を前に、何もできず無力感でいっぱいの女性たち。
そんな女性たちが、復活の証人という役割へと、召されていった。
そこには、希望がなくなることはないという、メッセージが語られています。
苦しむ人を前に、何もできず、無力感でいっぱいのあなた。
無力でもいいから、その人のそばを離れないでほしい。
たとえ何もできなくても、そこにいることに意味があるから。
いつかきっと、喜びの時がやってくる。
だから、希望を捨てないで。
そう、聖書は、語りかけているのです。
今日から始まる受難週は、イースターへとつながっています。
たとえ、今、希望が見えなくても、いつかきっと、喜びの時が来る。
そのことを信じて、イースターに向かって、歩み出していきましょう。
お祈りします。