聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、イザヤ書61章1節〜4節。
新共同訳旧約聖書1162ページです。
61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
61:4 彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
「わたしもただの人間です。」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・今しばらくクリスマス
今年も、クリスマスが終わりました。
今年のクリスマスも、慌ただしく過ぎ去っていったような、そんな印象ですが、
皆さんにとっては、どんなクリスマスだったでしょうか。
クリスマスが終わりますと一気に年越しの装いに変わります。
スーパーの飾りも、あっという間に、クリスマスツリーから門松に変わっていましたし、「メリークリスマス」と書いてあった看板も、次の日には「迎春」に変わっていました。
我が家のクリスマスツリーも、気づいたら片付けられておりまして、今日は、教会の飾り付けも片付ける予定にしております。
それでなくても、今日は大晦日ですから、すでに皆さんの心は、新しい年に向けられていると思いますが、
しかし、キリスト教の暦に基づいて言うならば、実は、クリスマスから降誕節が始まります。
クリスマスは、キリストの御降誕を祝う終わりではなく、始まりなんです。
ですから、今しばらく、クリスマスの恵みを覚えたいと思います。
・イザヤの言葉から
今年のクリスマスは、預言者イザヤの言葉から、メッセージを聞いてきました。
預言者イザヤが活動したのは、イエス様がお生まれになるはるか昔、700年以上前だったと言われています。
その時代から、預言者イザヤは、救い主の到来について語り、人々は、その救い主を待ち望んでいました。
預言者イザヤと呼んでいますけれども、イザヤ書に収められている言葉は、1人の人の言葉ではないと言われています。
大まかに第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと、3つの区分があると言われます。
そのうち、今日読んでいますのは、第三イザヤの時代に語られた言葉だと言われています。
年代で言うと、大体イエス様がお生まれになる500年ぐらい前の言葉だそうです。
この箇所も、クリスマスによく読まれる箇所の一つです。
なぜかというと、それは、イエス様が、礼拝において朗読され「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と、語られた箇所だからです。
イエス様が、実際にこの箇所を読まれて、そして、「今日、あなた方が耳にした時、実現した」と言われた。
それが、今日、私たちが読んでいます、預言者イザヤの言葉だったわけです。
そこには、いったいどんなメッセージが込められているのか。
ご一緒に聞いていきたいと思います。
・イザヤの自己紹介
今日の箇所には、預言者イザヤが、神様から遣わされた目的について語られています。
何のために、神様は、イザヤをお遣わしになったのか。
それは、「貧しい人に良い知らせを伝えるため」
「打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるため」
「主が恵みをお与えになる年と、報復される日を告知するため」
「嘆いている人々に慰めを与えるため」
「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせるため」
「嘆きに代えて喜びの香油を注ぐため」
「暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるため」だと言われています。
そのためにイザヤは、神様から遣わされてきたんだと、語られています。
この言葉からわかるように、イザヤの前には、嘆いている人々がいます。
貧しい人、打ち砕かれている人、囚われている人がいます。
この預言が語られた時代、それは具体的に、イスラエルの民を表していました。
・嘆くイスラエルの民
イエス様がお生まれになる500年ほど前、イスラエルの民は、バビロン捕囚から解放され、故郷に帰還しました。
バビロン捕囚というのは、皆さんも御存知の通り、バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされ、捕らえられていった一連の出来事を指します。
それは1度ならず、3度に渡って行われました。
最初の捕囚は、紀元前597年ごろ。
バビロンはエルサレムを占領し、王を捕らえ、神殿と王宮の財宝を奪い、高い地位にある人々、職人や軍人らを捕らえて、バビロンに連行していきました。
2度目の捕囚では、神殿や宮殿だけでなく、全ての家屋が焼き払われ、城壁も取り壊されました。
この時も、多くの民が連行されていきました。
3度目の捕囚で、エルサレムは完全に消滅してしまいます。
そこに残されたのは、連れていく価値もないとされた人たちと、廃墟でした。
これが、俗に言うバビロン捕囚という出来事だったわけですが、それからおよそ60年後、ペルシャがバビロンを滅びしたことによって、イスラエルの民は、故郷に帰還することが許されます。
やっと、故郷に帰ることが許された。
でも、帰ることを申し出たのは、ごくわずかでした。
多くの人々はエルサレムに戻らず、連れて行かれた土地に留まることを選びました。
せっかく、故郷に帰ることが許されたのに、なぜ、その土地に留まることを選んだのかというと、それは、遅過ぎたからです。
最初の捕囚からすでに60年が経っていました。
もはや、捕囚を経験した民よりも、その地で生まれ育った人の方が多くなっていました。
彼らにとって、エルサレムは、もう故郷じゃなかったんです。
中には、事業や政治の分野で、地位を確立している人たちもいました。
エルサレムに戻るためには、その地位や生活を捨てて行かなければなりません。
そこまでして、戻りたいと思う人は、いなかったのです。
それでも、ごくわずか、エルサレムに帰還した人々がいました。
相当な決意を持って、エルサレムに帰還したのだと思いますが、しかし彼らを待っていたのは、廃墟と化したエルサレムでした。
3度の捕囚と60年の風化によって、エルサレムは、影も形もないほど荒れ果てていました。
その光景に、人々は、心を打ち砕かれていたのです。
これがあのエルサレムか。
本当にここに都があったのか。
戻ってきたはいいものの、どうやって建て直せば良いのかわからない。
そう思って途方に暮れてしまうほど、彼らが見たエルサレムの姿は、悲惨なものだったのです。
それはきっと、預言者イザヤもそうだったのだと思います。
彼もまた、エルサレムを見て、心を打ち砕かれた者の1人だったのです。
でも、だからこそ、イザヤは、今日の言葉を語ったのだと思います。
自分は誰によって遣わされているのか。
何のために遣わされているのか。
誰かに向けて語ったというよりも、自分自身に言い聞かせるように、この言葉を語ったのだと思います。
貧しい人に喜びを、打ち砕かれている人に癒しを、囚われ人に解放を告げるため、
そのために神様が、私を、お遣わしになったんだ。
自分に言い聞かせるように、この言葉を語り、途方に暮れている人々のところへ、出かけていったのです。
・クリスマスの意味
イエス様もそうだったんじゃないでしょうか。
イエス様が見ている光景は、イザヤが見ている光景とは違います。
置かれた状況も、時代も違います。
でも、そこには、貧しい人たちがいた。
悲しんでいる人、打ち砕かれている人たちがいたのです。
その人たちに、良い知らせを伝えるため、そのために、自分は遣わされてきたのだ。
今日私たちが読んでいる預言者イザヤの言葉を、イエス様は、自分の言葉だと。
これは、預言者イザヤの言葉であると同時に、私の言葉である。
いや、私こそ、この言葉を成就するために、遣わされてきたんだと、そうイエス様は、語られたのです。
ここにクリスマスの恵みがあります。
イエス様がこの世に来られたのは、貧しい人たちに良い知らせを伝えるためだった。
打ち砕かれている人たちを癒すため、嘆き悲しんでいる人たちを喜ばせるためだった。
そのために、この世に来られたのだということです。
・悲しんでいる人と共におられる
今日は2023年最後の日ですが、今年1年は皆さんにとって、どんな1年だったでしょうか。
きっと良いことばかりではなかったでしょう。
辛いことや、悲しいこともあったかもしれません。
でも、イエス様は、そんな人々のためにこの世に来られ、今も、そんなお一人お一人と共に歩んでおられると、聖書は教えています。
私たちは、良いことがあった時、神様が共にいるって思うかもしれません。
苦労が報われたり、病気が治ったり、試験に合格したり、そんな時に神様はいる、イエス様はいると、思ったりするかもしれませんが、聖書は、そんな時だけじゃない。
いやむしろ、苦労が報われない時、病気の時、試験に落ちた時、神様なんていないと思うようなそんな時こそ、神様は共にいる、イエス様は共にいるのだと、教えています。
私たちには見えないし、わからないけど、でも、確かにそこにいると、聖書は語っているのです。
このイエス様を信じるのが、信仰です。
良いことがあった時に、神様がいると思うのは、信仰ではありません。
それは、自然な想いです。
信仰を持っていない人でも、そう感じることはできるでしょう。
信仰というのは、そういうものではありません。
信仰というのは、真っ暗にしか見えない、光なんて見えない、そこに、光があると思うこと。
病気の只中で、それでもなお、イエス様が共にいると思うこと。
悲しみの只中で、それでもなお、イエス様が共にいると思うこと。
それが、信仰です。
今年1年を振り返る時、辛く、苦しいことがあった方。
今も、その悲しみの中にある方。
その方々と共に、イエス様はおられます。
私たちにはわからないし、感じられないけれども、でも、確かにそこにいると、聖書は言っている。
そのことを、信じたいと思います。
先日、家で、初君に、「今年は、初にとって、どんな1年だった。良い1年だった?それとも悪い1年だった?」って聞きました。
そしたら、考え込んで、その後、「悪い一年だった」って言いました。
「何で」って聞いてみると、「戦争があったから」って答えました。
今年も、ロシアとウクライナの戦争は、終わりませんでした。
さらに10月には、ハマスによるイスラエルへの攻撃と、その報復が始まり、今も続いています。
犠牲者は増え続けています。
安全安心な場所を求めて、この日本にも、避難して来られている方々がいます。
イエス様は、彼らと共におられる。
彼らと共にいて叫んでおられる。
戦争をやめろ、人を殺すなと、叫んでおられる。
その叫び声がいつか、世界を変える日が来る。
そのことを信じたいと思います。
世界の闇は、深まる一方です。
私たちの中にも、暗いトンネルの中を歩んでおられる方がいらっしゃるかもしれません。
でも、あなたは決して一人ではない。イエス様が共におられる。
どんなに苦しく辛い日々だとしても、いや、そんな時こそ、イエス様は共にいる。
聖書は、私たちに、そう語りかけています。
この聖書のメッセージを信じて、新しい1年を迎えていきたいと思います。
お祈りします。