聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書2章13節〜15節。
新共同訳新約聖書233ページです。
2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこに とどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。
「夜のうちに」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・たどりつくまで
クリスマスおめでとうございます。
今日はようこそ、大分教会のクリスマスキャンドル礼拝にお越しくださいました。
心から歓迎いたします。
先ほどは、絵本を用いて、クリスマスの出来事を覚えましたけれども、今日は、もう一冊、絵本を読みたいと思います。
1、「たどりつくまで」という絵本です。
この絵本は、マリアとヨセフが、生まれたばかりのイエス様を抱えて、エジプトに逃げていった時の話です。
先ほど読みました絵本でも、一番最後に、その場面がありましたが、この絵本は、特に、その場面を取り上げて、絵本にしたものです。
まず、この絵本をご一緒に読みたいと思います。
「たどりつくまで ロバと三人の旅」
2、わたしは、男の人に手綱を引かれて歩いてきました。わたしの背中には女の人が乗っています。やがてベツレヘムという町に着きました。
3、その夜、赤ちゃんが生まれました。
4、最初にたずねてきたのは、羊飼いたち。
5、その次に、東の国の博士たちが贈り物をささげに来ました。博士たちが帰ったあと、贈り物の乳香のかおりにつつまれて、わたしたちはみな、眠りにつきました。そして、男の人は夢を見ました。おそろしいことが間近に迫っているという夢でした。
6、男の人は、日がのぼるずっと前に目を覚まして、女の人に夢のことを伝えました。女の人は赤ちゃんを抱きあげて、キスをしました。赤ちゃんの息づかい、やわらかくてあたたかい肌。眠そうに顔をうずめてくると、まつ毛がほおをくすぐります。「もう、行かなくてはね」女の人が言いました。
7、ふたりは赤ちゃんをあたたかくくるんで、もう一度キスをしました。男の人がわたしのところにやってきて、頭をぽんぽんと叩くと、一緒に外に出ました。「さあ行くぞ、相棒。また旅のはじまりだ」出ていくときに、贈り物の黄金をいくらか、宿の主人に置いていきました。他の人たちが、わたしたちに冷たかったときも、親切にしてくれたお礼に。さあ、出発です・・・
8、・・・星空の下、誰もいない通りを抜けて。みんな、眠っているあいだに。見知らぬ人たちが親切にしてくれることを願って。この旅でも、また。
9、野原で、羊飼いたちに出会いました。そのとき、伝わってきたのは、ささやくような祈りの声、暗闇のなかで、羊たちがうごめく気配、かたく握りしめられた、ごつごつした手、あたたかい思いやりでした。
10、わたしは歩き続けました。大切な人たちを背中に乗せて。女の人は、赤ちゃんをだきしめながら、男の人と話をしていました。これまでの旅のこと、見た夢のこと、旅するときに気をつけること、赤ちゃんをいとおしむ思い、行きずりの人のやさしさを。
11、わたしたちは体をやすめました。男の人と女の人はおびえていたけれど、おたがいから、赤ちゃんがはじめてみせた笑顔から、希望の種を見出そうとしていました。
12、そして、ようやくわたしたちはエジプトに・・・
13、たどりつくことができました。もうおびえなくてもいい、ほっとできる場所に。
14(セリフなし)
マリアとヨセフが、生まれたばかりのイエス様を抱えて、エジプトに逃げていった。
そのクリスマスの一場面が、ロバの目線で、語られていました。
このロバの目線で語られているというのが、面白いなと思いますが、
少し、この場面を掘り下げていきたいと思います。
・なぜ逃げなければならなかったのか
そもそも、なぜ、彼らは、逃げなければならなかったのか、というところから、話したいと思いますが、
それは、当時、ユダヤの支配を任されていたヘロデ王が、彼らの命を狙っていたからでした。
当時、ユダヤはローマによって支配されていましたが、彼は、そのローマの後ろ盾によって、ユダヤの王となった人物です。
このヘロデ王というのが恐ろしい人で、王という地位に心を奪われておりまして、常に疑心暗鬼。
わずかでも、自分の王座を揺るがす可能性があると思うと、自分の妻や子どもでさえも手にかけてしまうというような、そんな恐ろしい人でした。
ですから、東方の博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を探しにきた」と聞いて、居ても立ってもいられなくなったわけです。
どうにかして、その子を消し去りたい。
不安に駆られて、ヘロデは、イエス様のことを探しまわっていたのです。
ヨセフは、その危機を、夢で知らされました。
それで、マリアと、生まれたばかりのイエス様を連れて、エジプトへと逃げていったわけです。
・夜のうちに
彼らは、どんな気持ちで、旅立っていったのでしょうか。
王であったヘロデに命を狙われるということは、ユダヤという国のお尋ね者になるということです。
それは、どれだけ怖いことだったでしょう。
ヘロデは、自分の反対者たちをいち早く見つけるために、密告組織と秘密警察によって、取り締まっていました。
民衆の間には、ヘロデの息のかかったものたちが紛れ込んでいたわけです。
ヨセフやマリアも、誰も信じられない。
すれ違う人たち、みんなが敵に見えるような、そんな恐怖があったかもしれません。
そんな状況ですから、明るい時間に移動することなどできません。
聖書にあるように、彼らは、夜のうちに宿を離れ、暗闇の中、人目を避けながら逃げていきました。
赤ちゃんが泣くたびに、身を隠す場所を探さないといけないということもあったでしょう。
そんな命の危機にあいながら、安息の地を求めて逃げていきました。
エジプトに行けば助かる。エジプトに行けば安息がある。
そのことだけを希望に、すがるような想いで、エジプトに向かっていったのだと思います。
・彼らだけの話じゃない
この話は、確かに、生まれたばかりのイエス様の話です。
マリアとヨセフが、生まれたばかりのイエス様を抱えて、エジプトに逃げるという、クリスマスストーリーの一節です。
それは、間違いないことですが、しかし、彼らだけの話ではありません。
これは、イエス様の話であると同時に、居場所を追われ、命の危機にある、すべての人々の話でもあります。
絵本の作者は、そのことを意識して、この絵本を描いたそうです。
先ほど読みました絵本は、ロバの目線で語られていましたが、終始ロバは、彼らのことを、男の人とか、女の人と呼んでいました。
マリアという名前も、ヨセフという名前も、イエスという名前も出てきません。
それは、この話が、彼らだけの話ではないからです。
・避難を強いられている人々
たとえばこれは、戦争によって、ウクライナから避難されている人たちの話でもあるでしょう。
ウクライナから、この日本にも、避難されている方々がいます。
12月20日の時点で、2,579名の方々が、避難されてきているそうです。
先日は、別府で避難生活をされている方々の講演会に行ってきました。
お話をしてくださった方は、ウクライナ東部のハルキウに住んでおられた方でした。
ハルキウといえば、ロシア国境に位置する街で、激しい戦闘が続いている地域です。
その方は、「まさかこんなことになるなんて、思ってもいなかった。
戦争というのは、軍隊と軍隊の戦いだと思っていたが、戦車は、自分たちの住むマンションや、スーパーを撃ってきた。
その時に、戦争というものを理解した」と、仰っていました。
ウクライナ東部には、支援物資もなかなか届かず、商店のものが、ものすごく高騰したそうです。
奥さんは、難病も患っていて、とても生活していけないということで、ハルキウを離れる決断をされました。
当然住み慣れた家、住み慣れた街を離れたくはなかった。
自分の財産も手放さなきゃいけないし、友人たちとも別れなければならない。
でも、爆撃もあるし、妻の病気もある。命にはかえられないということで、避難することを決意されたそうです。
しかし、避難するにも、どこに、どうやって行ったら良いのかもわからない状態が続きました。
1ヶ月ぐらい経って、最初に導かれたのは、クリミア半島でした。
ご存知、クリミア半島は、2014年に、ロシアが強制的に併合した地域です。
もちろん、安全が保障されるような場所ではありません。
でも、ハルキウよりはましということで、彼らは、そこに移動しました。
ロシア領に入ってしまったことで、出国できないということもあったそうですが、なんとか、エストニアに出国することが認められました。
そこから、ラトビア、フランスと移動し、その後、避難民支援のクルーズ船で何週間か過ごされ、そこで、日本の支援者と繋がり、最終的に、別府に住むことになったそうです。
ウクライナから、9,000キロ近く離れた、この日本に来るなんて、思ってもいなかったそうですが、安全が確保されるならどこでも良いということで、この日本に来られました。
故郷を追われた彼らが、別府に辿り着くまでの歩みは、どれだけ大変な歩みだったでしょうか。
イエス様が歩まれた道のりというのは、彼らの歩んだ道のりでもあります。
・日本における難民の現状
また、そのような道を歩むのは、彼らだけでもありません。
この日本には、様々な国や地域から、助けを求めて、避難してこられている方々います。
先日、ある会議で、東京都内の公園に20人近くの外国人が野宿をしているという報告がありました。
その方々は、アフリカのコンゴから来られた方々のようで、観光ビザで、日本に来られたそうですが、話を聞いてみると、観光のために日本に来られたのではなく、命の危機に直面して、たどり着いたのが日本だったということでした。
私もその時初めて、コンゴという国のことを聞いたのですが、もう20年以上、紛争が続いていて、この紛争による死者は500万人以上に上るとも言われているそうです。
2015年には、難民の人数が、世界で6番目に多くなり、2023年2月の調査では、116万人以上が難民となって避難を強いられているそうです。
ウクライナの人たちだけじゃない。
今、世界のあらゆるところで、紛争や戦争によって、居場所を失っている人たちがいます。
そして、その人たちが、この日本に、救いを求めてやってきているということです。
しかし、日本の難民認定率は、2022年2%、2021年は0.7%でした。
100人申請しても1人、認められるかどうか。
100人申請しても、99人は認められないというのが現状です。
認められなければ、ビザを取得することができませんし、ビザがなければ、働くことができません。
難民申請中の方々は、親族などにお金を送ってもらったり、支援団体の支援を受けながら、なんとか生活されていますが、医療費は全額自己負担、十分な教育を受けることもできません。
ある申請者の方がおっしゃっていました。
「ウクライナの人たちは、歓迎する。仕事も、住む場所も提供される。それなのに、なぜ私たちは、認めてもらえないのか。ウクライナ人は人だけど、私たちは人じゃないんでしょうか。」
非常に、痛い言葉でした。
・イエス様を迎えるとは
このような方々と、どう向き合っていくのか。
それは、クリスマスを迎える私たちに、問われていることだと思います。
イエス様を迎え入れるということは、彼らを迎え入れるということです。
イエス様は今も、命に危機におかれ、夜のうちに逃げなければならない人々と、共に歩んでおられます。
ベツレヘムからエジプトへの道のりを、歩んでおられます。
その歩みに希望があるかどうか。
彼らを迎え入れてくれる場所があるかどうか。
私たちが、その居場所になれるかどうかが、問われています。
難民の中に、今も、イエス様は共におられます。
命の危機におかれ、居場所を求めている、すべての人たちと、イエス様は共におられます。
そして、彼らと共に、居場所を求めて歩んでおられます。
イエス様を迎えるというのは、そのような人々を迎えるということです。
彼らが安心して生きられる社会は、すべての人にとって、安心して生きられる社会です。
命の危機に置かれても、受け入れてくれる場所がある。
受け入れてくれる人たちがいる。
そんな社会を実現するために、この教会が用いられていくことを、願っています。
クリスマスを喜び祝うこの時、イエス様を迎え入れることの意味を、心に留めたいと思います。
イエス様を迎え入れるとは、命に危機におかれ、夜のうちに逃げなければならない人々を迎え入れるということです。
今も、彼らの中に、イエス様はおられる。
暗い道を、彼らと共に、歩んでおられる。
そのことを今日は、心に留めたいと思います。
お祈りいたします。
主なる神様、クリスマスをありがとうございます。
クリスマスの恵みを覚えて、今日この場に集ってくださった、お一人お一人を感謝いたします。
今晩は、イエス様が、暗い道のりを歩まれたことを、覚えました。
今も、イエス様は、そのような道のりを歩む、お一人お一人と共におられると信じます。
どうぞ、そのお一人お一人に、安心して過ごすことができる居場所を与えてください。
私たちも、そのお一人お一人の居場所として、用いられていくことができますように、導いてください。
この世界から、1日も早く、戦争や紛争がなくなりますように。
すべての人が、安心して生きられる世界になりますように、導いてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン