聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書12章49節〜59節。
新共同訳新約聖書133ページ〜134ページです。
12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
12:50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
12:53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」
12:54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。
12:55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行 き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。
12:59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
「すべての人の平和を求めて」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日の聖書の箇所には、驚きというか、ショックというか、とてもびっくりすることが書かれています。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」って、イエス様が言ったって書いています。
あのイエス様が、「平和じゃない、むしろ分裂だ」なんて、とても驚く言葉ですけれども、
なんで、イエス様は、こんなことを言ったんでしょうか。
そこには、イエス様が生きられた時代の、偽りの平和、偽物の平和がありました。
イエス様が生きた時代は、平和な時代だったって言われます。
その平和を作り出していたのが、ローマっていう国でした。
ローマが作り出していた平和、ローマによる平和っていうのは、いったいどんな平和だったか。
簡単に言えば、それは、ジャイアンによる平和でした。
ジャイアンっていうのは、ドラえもんに出てくる、あのジャイアンです。
力が強くて、逆らうと、すぐに怒って殴ってくる、あのジャイアンです。
あのジャイアンみたいに、ローマもとても強い国でした。
強くて、誰も逆らえない。
間違ったことがあっても、誰も間違いだって言えない。
文句があっても、誰も、文句を言えない。
反抗することも、文句を言うこともできない。
ローマの平和っていうのは、そういう平和だったんです。
このことを考える時に、私は、小学校の頃の怖い先生のことを思い出します。
みんなの学校の先生は、優しいですか。
私の小学校の頃の先生も、優しい先生が多かったんだけど、一人、とっても怖い先生がいました。
暴力を振るうとかじゃないんだけど、とにかく声が大きくて、圧がすごい先生でした。
その先生は、隣のクラスの先生でした。
そのクラスは、いつも、静かでした。
うちのクラスは、子どもたちの声で、いつもうるさくて、まあ楽しいクラスでしたが、隣のクラスは、とっても静かで、先生の声しか聞こえない、そんなクラスでした。
みんなは、どっちのクラスがいいでしょうか。
一見、静かで、先生の言うことを聞く、良いクラスに思えるかもしれない。
でも、そのクラスの子どもたちの心は、平和だったでしょうか。
ローマによる平和っていうのは、怖い先生のいるクラスみたいなものです。
その平和は、形だけの平和で、そこに住む人たちの心は、決して平和じゃありませんでした。
いつも、恐怖に怯えていた。
平和を喜んでいたのは、一部の強い人たちだけで、弱い人たちは、ビクビクしながら生活しなきゃいけませんでした。
果たして、それは、平和だったんでしょうか。
「そんなの平和じゃない!そんなの偽物だ!こんなのは平和じゃない。」イエス様は、そう言われたんだと思います。
間違ったことがあっても、間違いだって言えない。
文句があっても、文句も言えない。
いつもビクビクしながら生きなきゃいけない世界は、決して平和な世界じゃない。
たとえ争いがなかったとしても、
争いがないことは、とても大事ですが、たとえそうであったとしても、それは、本当の平和ではない。
平和っていうのは、力じゃつくれないんだって、イエス様はそう教えているんだと思います。
力じゃ平和はつくれない。
今日は、このことを覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・どうして?
先ほど言いましたように、今日の箇所は、私たちにとって、とても衝撃的な箇所です。
イエス様は、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と言われました。
私たちは、平和を祈り求めています。
今まさに、私たちは、平和がいかに重要なものか。
私たちが生きる上で、なくてはならないものかということを、考えさせられています。
そして、その希望をイエス様にかけています。
イエス様にこそ平和があると信じています。
だからこそ、今日の箇所は、つまずきなくして聞けない箇所であります。
なぜ、イエス様は、「平和ではなく分裂だ」なんて言われたのでしょうか。
「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」と言われたイエス様が、どうしてこのようなことを言われたのでしょうか。
ここに、どんなメッセージが込められているのか、共に、考えていきたいと思います。
・「Pax Romana」偽りの平和
このことを考える上で、まず重要なのは、時代背景を抑えておくことです。
イエス様が、この言葉を語られた背景に、どんな文脈があったのか。
イエス様が公に活動されていたのは、紀元後28年~30年ごろだと言われています。
その当時をあらわす言葉として、「Pax Romana 」という言葉があります。
「ローマの平和」という意味の言葉です。
これは、紀元前27年、ローマ皇帝アウグストゥスの即位から200年間続いた、ローマ帝国による平和のことを指します。
それまで、ローマは、内戦や政治的な混乱が続いていました。
アウグストゥスの前の支配者であった、ユリウス・カエサルも暗殺されまして、その後に、内乱が起こっております。
その内乱をおさめ、「ローマの平和」をもたらした者として、民衆から「救い主」と称賛されていたのが、ローマ皇帝アウグストゥスでした。
皇帝の神格化、皇帝礼拝が行われ、アウグストゥスこそ神の子、平和の君、福音の始まりであると信じる人々もいました。
しかし、その内実は、力による支配でした。
平和と言っても、戦争は絶えず行われていました。
いつも近隣諸国と戦い、あるいは侵攻することで、領土を拡大していました。
内側では、奴隷の反乱も起こっていました。
ローマは、人口の約4割が奴隷でした。
労働奴隷、家内奴隷、外国人奴隷、市民奴隷(犯罪者、破綻者)、出生奴隷(奴隷同士の間に生まれた子)。
剣闘士、手品師、ダンサーやピエロなどは、見せ物奴隷と言われていました。
奴隷は人あつかいされません。
所有物として、殴られたり蹴られたりしても文句は言えず、役に立たなくなれば捨てられるような存在でした。
そういう人々が国民の約4割を占めていた。
残りの6割の国民も、半分以上は、無産階級の人々で、無料配給に頼る貧しい農民や労働者たちでした。
ローマの平和は、そのような人々の犠牲のもと、一部の強者だけが喜び、楽しむことのできた平和でした。
そして、ユダヤも、ローマの属州として、その平和を押しつけられていました。
ローマの植民地として、搾取され続けていました。
もちろん、抵抗運動も起こっていました。
「熱心党」と呼ばれる人々を中心に、ローマに対する抵抗運動は起こっていましたが、すぐに鎮圧されておりました。
多くの人々は、文句があっても言えない。
不条理な社会であっても、泣き寝入りするしかなかったのです。
そんな状態は、イエス様の平和とは相入れないものでした。
・ペンテコステの炎、偽りの平和への挑戦
今日の箇所の冒頭で、イエス様が、地上に火を投ずると言われていますが、それは、このような世界を変えるためでした。
しかしながら、この火とは、一体何を意味するのでしょうか。
ヒントとして、その火を投じるためには、受けなければならないバプテスマ、通らなければならない苦しみがあると言われます。
苦しみを経て、投じられる火。
そのことを考える時に、思い起こされるのは、ペンテコステの炎です。
十字架という苦しみを経て、復活、そして与えられるペンテコステ。
そのペンテコステの場面で、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たち一人一人の上にとどまった」と記されています。
イエス様が言われた火というのは、まさにこのペンコテステの炎のこと。
弟子たちを、福音宣教へと押し出していった聖霊のことだと思います。
弟子たちは、イエス様が十字架に架けられる時、皆、逃げておりました。
戸に鍵をかけて閉じこもっていました。
聖霊は、そんな弟子たちを、大胆にキリストの福音を語る者へと変えていきました。
それは、膠着したユダヤ社会に摩擦を起こすものでした。
弟子たちの福音宣教によって、ユダヤ社会では、混乱が起こりました。
律法からの解放、福音による新しい価値観によって、人々の間には、分裂が起こりました。
イエス様がいうように、家族の中に、対立が起こるということもあったでしょう。
でも、それは、偽りの平和を壊すために、必要なことだったのだと思います。
違う意見が出され、分断が起こる。摩擦が起こる。
それは、時に、必要なことでもあるのだということを教えられます。
私たちバプテスト教会は、民主主義的な教会形成を大事にしています。
その中で、特に重要なのが、合意形成です。
いかに合意を作っていけるか、意見を合わせていけるかということに、日々、努めているわけですが、
そんな私たちにとって、分断が起こること、意見が分かれることというのは、できるだけ避けたいことでもあります。
意見が分かれることは、あまり言いたくない。なるべく出したくない。
そうやって、平穏を保ちたいという気持ちになる傾向が強いように思います。
もちろん、いたずらに、議論をふっかけることは、よくないことですし、混乱しないよう、整理することはとても大事なことですが、しかし、対立や混乱を避けていては、辿り着けないものもあるのです。
新しいことを始めていく。
これまでのやり方や考え方を変えていく。
そのためには、対立や混乱を避けては通れないことがある。
必要な摩擦があるんだということです。
・ユダヤ指導者たちや民衆たちの葛藤
ユダヤの指導者たちも、そのことを理解していたでしょう。
皇帝アウグストゥスが神の子でもなければ、「ローマの平和」が、真の平和でもない。
神の求める平和が、そのようなものではないことを、ユダヤの指導者たちも、十分わかっていたでしょう。
でも彼らは、保身のために声を上げず、結果的に「ローマの平和」を維持することに加担していました。
そんな人々にイエス様は、神の裁きを語りました。
それが、今日の箇所の後半で語られていることです。
「空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
雲を見分けたり、風向きで判断したりするよりも、わかりやすく、明らかなしるしがあるじゃないか。
貧しい人々の叫び。
飢え乾く人々の苦しみ。
命が奪われている現実を見ながら、何も思わないのか。
どうして何も言わないのか。
ユダヤの指導者たちを批判する、痛烈な言葉であると思います。
57節からの言葉は、裁きの言葉です。
12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。
12:59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
主の裁きが迫っている。
仲直りするというのは、悔い改めなさい。生き方を変えなさいということです。
これは、12章全体を通して、語られてきたことでした。
そして、裁きと共に語られてきたのが、主をおそれるということでした。
12章4節~5節
12:4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。
12:5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」
あなた方が今、恐れているのは誰か。
皇帝か、それとも領主か。
今の安定、日常、自分の身分や地位が、損なわれることか。
「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。
だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」
ローマ皇帝や領主を恐れ、彼らの顔色をうかがいながら生きるのではなく、神を畏れ、神に向かって生きるようにと言われているのです。
・真の平和を求めて
今日は、このイエス様の招き、イエス様の姿を、心に留めたいと思います。
神を畏れ、神の平和を求め続けたイエス様の姿に、倣うものでありたいと思います。
イエス様の求められた平和は、一部の人だけが享受できるような平和ではありません。
弱者の犠牲によって成り立つ、強者だけの平和。
それは、決して、キリストの平和ではありません。
たとえそれが、争いのない、穏やかな様子に見えたとしても、それは、うわべだけのものに過ぎません。
争いがないこと、戦争がないこと。
私たちは、今、そのことを心から願っているものでありますが、しかし、戦争がないというのは、平和の最低条件です。
戦争がなければ平和かというと、そうではありません。
力による平和、支配や抑圧による平和は、キリストの平和ではありませんし、それは、長くは続きません。
必ず、暴力、戦争へと繋がっていきます。
キリストの平和は、誰かの犠牲によって成り立つ、一部の人たちだけの平和ではありません。
すべての人の平和。
すべての人が喜び、分かち合うことのできる平和。
それこそが、キリストの求める平和です。
その平和をつくりだしていくために、イエス様は、聖霊を与え、必要な摩擦を起こされた。
今日は、そのことを、覚えておきたいと思います。
意見の違い、対立が起こることは、なるべく避けたいことですが、それ以上に私たちには、おそれるべきものがある。
おそれるべきお方がいる。
そのことを覚えながら、キリストの平和を求めて、歩んでまいりましょう。
お祈りいたします。