2023年11月19日礼拝メッセージ「すべての人の平和を求めて」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書12章49節〜59節。

新共同訳新約聖書133ページ〜134ページです。

12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。

12:50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。

12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。

12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

12:53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

12:54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。

12:55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。

12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」

12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。

12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行 き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。

12:59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

「すべての人の平和を求めて」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日の聖書の箇所には、驚きというか、ショックというか、とてもびっくりすることが書かれています。

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」って、イエス様が言ったって書いています。

あのイエス様が、「平和じゃない、むしろ分裂だ」なんて、とても驚く言葉ですけれども、

なんで、イエス様は、こんなことを言ったんでしょうか。

そこには、イエス様が生きられた時代の、偽りの平和、偽物の平和がありました。

イエス様が生きた時代は、平和な時代だったって言われます。

その平和を作り出していたのが、ローマっていう国でした。

ローマが作り出していた平和、ローマによる平和っていうのは、いったいどんな平和だったか。

簡単に言えば、それは、ジャイアンによる平和でした。

ジャイアンっていうのは、ドラえもんに出てくる、あのジャイアンです。

力が強くて、逆らうと、すぐに怒って殴ってくる、あのジャイアンです。

あのジャイアンみたいに、ローマもとても強い国でした。

強くて、誰も逆らえない。

間違ったことがあっても、誰も間違いだって言えない。

文句があっても、誰も、文句を言えない。

反抗することも、文句を言うこともできない。

ローマの平和っていうのは、そういう平和だったんです。

このことを考える時に、私は、小学校の頃の怖い先生のことを思い出します。

みんなの学校の先生は、優しいですか。

私の小学校の頃の先生も、優しい先生が多かったんだけど、一人、とっても怖い先生がいました。

暴力を振るうとかじゃないんだけど、とにかく声が大きくて、圧がすごい先生でした。

その先生は、隣のクラスの先生でした。

そのクラスは、いつも、静かでした。

うちのクラスは、子どもたちの声で、いつもうるさくて、まあ楽しいクラスでしたが、隣のクラスは、とっても静かで、先生の声しか聞こえない、そんなクラスでした。

みんなは、どっちのクラスがいいでしょうか。

一見、静かで、先生の言うことを聞く、良いクラスに思えるかもしれない。

でも、そのクラスの子どもたちの心は、平和だったでしょうか。

ローマによる平和っていうのは、怖い先生のいるクラスみたいなものです。

その平和は、形だけの平和で、そこに住む人たちの心は、決して平和じゃありませんでした。

いつも、恐怖に怯えていた。

平和を喜んでいたのは、一部の強い人たちだけで、弱い人たちは、ビクビクしながら生活しなきゃいけませんでした。

果たして、それは、平和だったんでしょうか。

「そんなの平和じゃない!そんなの偽物だ!こんなのは平和じゃない。」イエス様は、そう言われたんだと思います。

間違ったことがあっても、間違いだって言えない。

文句があっても、文句も言えない。

いつもビクビクしながら生きなきゃいけない世界は、決して平和な世界じゃない。

たとえ争いがなかったとしても、

争いがないことは、とても大事ですが、たとえそうであったとしても、それは、本当の平和ではない。

平和っていうのは、力じゃつくれないんだって、イエス様はそう教えているんだと思います。

力じゃ平和はつくれない。

今日は、このことを覚えておきたいと思います。

お祈りします。

・どうして?

先ほど言いましたように、今日の箇所は、私たちにとって、とても衝撃的な箇所です。

イエス様は、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と言われました。

私たちは、平和を祈り求めています。

今まさに、私たちは、平和がいかに重要なものか。

私たちが生きる上で、なくてはならないものかということを、考えさせられています。

そして、その希望をイエス様にかけています。

イエス様にこそ平和があると信じています。

だからこそ、今日の箇所は、つまずきなくして聞けない箇所であります。

なぜ、イエス様は、「平和ではなく分裂だ」なんて言われたのでしょうか。

「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」と言われたイエス様が、どうしてこのようなことを言われたのでしょうか。

ここに、どんなメッセージが込められているのか、共に、考えていきたいと思います。

・「Pax Romana」偽りの平和

このことを考える上で、まず重要なのは、時代背景を抑えておくことです。

イエス様が、この言葉を語られた背景に、どんな文脈があったのか。

イエス様が公に活動されていたのは、紀元後28年~30年ごろだと言われています。

その当時をあらわす言葉として、「Pax Romana 」という言葉があります。

「ローマの平和」という意味の言葉です。

これは、紀元前27年、ローマ皇帝アウグストゥスの即位から200年間続いた、ローマ帝国による平和のことを指します。

それまで、ローマは、内戦や政治的な混乱が続いていました。

アウグストゥスの前の支配者であった、ユリウス・カエサルも暗殺されまして、その後に、内乱が起こっております。

その内乱をおさめ、「ローマの平和」をもたらした者として、民衆から「救い主」と称賛されていたのが、ローマ皇帝アウグストゥスでした。

皇帝の神格化、皇帝礼拝が行われ、アウグストゥスこそ神の子、平和の君、福音の始まりであると信じる人々もいました。

しかし、その内実は、力による支配でした。

平和と言っても、戦争は絶えず行われていました。

いつも近隣諸国と戦い、あるいは侵攻することで、領土を拡大していました。

内側では、奴隷の反乱も起こっていました。

ローマは、人口の約4割が奴隷でした。

労働奴隷、家内奴隷、外国人奴隷、市民奴隷(犯罪者、破綻者)、出生奴隷(奴隷同士の間に生まれた子)。

剣闘士、手品師、ダンサーやピエロなどは、見せ物奴隷と言われていました。

奴隷は人あつかいされません。

所有物として、殴られたり蹴られたりしても文句は言えず、役に立たなくなれば捨てられるような存在でした。

そういう人々が国民の約4割を占めていた。

残りの6割の国民も、半分以上は、無産階級の人々で、無料配給に頼る貧しい農民や労働者たちでした。

ローマの平和は、そのような人々の犠牲のもと、一部の強者だけが喜び、楽しむことのできた平和でした。

そして、ユダヤも、ローマの属州として、その平和を押しつけられていました。

ローマの植民地として、搾取され続けていました。

もちろん、抵抗運動も起こっていました。

「熱心党」と呼ばれる人々を中心に、ローマに対する抵抗運動は起こっていましたが、すぐに鎮圧されておりました。

多くの人々は、文句があっても言えない。

不条理な社会であっても、泣き寝入りするしかなかったのです。

そんな状態は、イエス様の平和とは相入れないものでした。

・ペンテコステの炎、偽りの平和への挑戦

今日の箇所の冒頭で、イエス様が、地上に火を投ずると言われていますが、それは、このような世界を変えるためでした。

しかしながら、この火とは、一体何を意味するのでしょうか。

ヒントとして、その火を投じるためには、受けなければならないバプテスマ、通らなければならない苦しみがあると言われます。

苦しみを経て、投じられる火。

そのことを考える時に、思い起こされるのは、ペンテコステの炎です。

十字架という苦しみを経て、復活、そして与えられるペンテコステ。

そのペンテコステの場面で、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たち一人一人の上にとどまった」と記されています。

イエス様が言われた火というのは、まさにこのペンコテステの炎のこと。

弟子たちを、福音宣教へと押し出していった聖霊のことだと思います。

弟子たちは、イエス様が十字架に架けられる時、皆、逃げておりました。

戸に鍵をかけて閉じこもっていました。

聖霊は、そんな弟子たちを、大胆にキリストの福音を語る者へと変えていきました。

それは、膠着したユダヤ社会に摩擦を起こすものでした。

弟子たちの福音宣教によって、ユダヤ社会では、混乱が起こりました。

律法からの解放、福音による新しい価値観によって、人々の間には、分裂が起こりました。

イエス様がいうように、家族の中に、対立が起こるということもあったでしょう。

でも、それは、偽りの平和を壊すために、必要なことだったのだと思います。

違う意見が出され、分断が起こる。摩擦が起こる。

それは、時に、必要なことでもあるのだということを教えられます。

私たちバプテスト教会は、民主主義的な教会形成を大事にしています。

その中で、特に重要なのが、合意形成です。

いかに合意を作っていけるか、意見を合わせていけるかということに、日々、努めているわけですが、

そんな私たちにとって、分断が起こること、意見が分かれることというのは、できるだけ避けたいことでもあります。

意見が分かれることは、あまり言いたくない。なるべく出したくない。

そうやって、平穏を保ちたいという気持ちになる傾向が強いように思います。

もちろん、いたずらに、議論をふっかけることは、よくないことですし、混乱しないよう、整理することはとても大事なことですが、しかし、対立や混乱を避けていては、辿り着けないものもあるのです。

新しいことを始めていく。

これまでのやり方や考え方を変えていく。

そのためには、対立や混乱を避けては通れないことがある。

必要な摩擦があるんだということです。

・ユダヤ指導者たちや民衆たちの葛藤

ユダヤの指導者たちも、そのことを理解していたでしょう。

皇帝アウグストゥスが神の子でもなければ、「ローマの平和」が、真の平和でもない。

神の求める平和が、そのようなものではないことを、ユダヤの指導者たちも、十分わかっていたでしょう。

でも彼らは、保身のために声を上げず、結果的に「ローマの平和」を維持することに加担していました。

そんな人々にイエス様は、神の裁きを語りました。

それが、今日の箇所の後半で語られていることです。

「空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」

雲を見分けたり、風向きで判断したりするよりも、わかりやすく、明らかなしるしがあるじゃないか。

貧しい人々の叫び。

飢え乾く人々の苦しみ。

命が奪われている現実を見ながら、何も思わないのか。

どうして何も言わないのか。

ユダヤの指導者たちを批判する、痛烈な言葉であると思います。

57節からの言葉は、裁きの言葉です。

12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。

12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。

12:59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

主の裁きが迫っている。

仲直りするというのは、悔い改めなさい。生き方を変えなさいということです。

これは、12章全体を通して、語られてきたことでした。

そして、裁きと共に語られてきたのが、主をおそれるということでした。

12章4節~5節

12:4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。

12:5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」

あなた方が今、恐れているのは誰か。

皇帝か、それとも領主か。

今の安定、日常、自分の身分や地位が、損なわれることか。

「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。

だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」

ローマ皇帝や領主を恐れ、彼らの顔色をうかがいながら生きるのではなく、神を畏れ、神に向かって生きるようにと言われているのです。

・真の平和を求めて

今日は、このイエス様の招き、イエス様の姿を、心に留めたいと思います。

神を畏れ、神の平和を求め続けたイエス様の姿に、倣うものでありたいと思います。

イエス様の求められた平和は、一部の人だけが享受できるような平和ではありません。

弱者の犠牲によって成り立つ、強者だけの平和。

それは、決して、キリストの平和ではありません。

たとえそれが、争いのない、穏やかな様子に見えたとしても、それは、うわべだけのものに過ぎません。

争いがないこと、戦争がないこと。

私たちは、今、そのことを心から願っているものでありますが、しかし、戦争がないというのは、平和の最低条件です。

戦争がなければ平和かというと、そうではありません。

力による平和、支配や抑圧による平和は、キリストの平和ではありませんし、それは、長くは続きません。

必ず、暴力、戦争へと繋がっていきます。

キリストの平和は、誰かの犠牲によって成り立つ、一部の人たちだけの平和ではありません。

すべての人の平和。

すべての人が喜び、分かち合うことのできる平和。

それこそが、キリストの求める平和です。

その平和をつくりだしていくために、イエス様は、聖霊を与え、必要な摩擦を起こされた。

今日は、そのことを、覚えておきたいと思います。

意見の違い、対立が起こることは、なるべく避けたいことですが、それ以上に私たちには、おそれるべきものがある。

おそれるべきお方がいる。

そのことを覚えながら、キリストの平和を求めて、歩んでまいりましょう。

お祈りいたします。

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