聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書12章22節〜32節。
新共同訳新約聖書132ページです。
12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。
12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
12:25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
12:26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
12:27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
12:28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。
12:29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。
12:30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。
12:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。 12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
「それでも希望はなくならないから」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ→やけくそにならないために
今日は、まず、この写真を見てほしいと思います。
これは、1973年、今からちょうど50年前の写真です。
中には、懐かしいと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これ何の写真か、わかるでしょうか。
なんか、すごい人がいっぱい写っていますし、警備員の人もいますけれども、
実は、この写真、あるものを取り合っている写真なんですが、何を取り合っているんでしょうか。
正解は、・・・トイレットペーパーです。
この写真は、スーパーで、トイレットペーパーを取り合っている人たちの写真なんです。
でも、なんで、こんなことになったんでしょうか。
原因は、中東ってところで起こった戦争でした。
中東戦争って呼ばれています。
今、イスラエルとハマスが戦ってるニュースを、テレビで見た人もいるかもしれませんが、今から75年前には、あの地域を巡って、もっと大きな戦争が起こっていたんです。
その時に、戦争の影響で、トイレットペーパーがなくなるかもしれないって、噂が流れたそうです。
トイレットペーパーがなくなったら、どうですか?大変ですよね。
トイレができなくなっちゃう。
そうやって不安になった人たちが、トイレットペーパーを求めて、スーパーに駆け込んだ。
この写真は、その時の写真なんです。
結局、トイレットペーパーがなくなるっていうことはありませんでした。
スーパーには、いつも通り、トイレットペーパーがあったそうです。
だけど、不安になった人たちが、みんな買っていってしまったせいで、困った人がたくさん出たそうです。
実は、これと同じことが、最近も起きました。
これは、いつの写真かわかりますか?ーこれは、3年前の写真です。
3年前といえば、コロナウイルスが流行った年ですけれども、この時も、マスクを作らないといけないので、トイレットペーパーがなくなるって噂が流れました。
これも間違いだったんですが、不安になった人たちが、必要以上にトイレットペーパーを買ってしまい、困った人たちが出てしまいました。
こんなふうに、不安っていうのは、人を狂わせることがあります。
普段は親切な人たちも、トイレットペーパーがなくなるかもしれないって聞いただけで、不安になって、人の分までとっちゃうなんてことが起こる。
だから、イエス様は、そうならないように、「思い悩むな」って言われるんです。
「何を食べたらいいのかって、思い悩むな」そうイエス様は言っています。
この時、目の前にいたのは、食べるものを持ってない人たちでした。
今日はあっても、明日あるとは限らない。
「どうしよう、どうしよう」って、思い悩んでいた人たちでした。
家に帰っても食べるものはない。食べ物を買う、お金もない。
生きていくためにはもう、盗むか襲うかしかない。
そう思ってしまうほど、追い詰められた人たち。
そんな人たちにイエス様は、「あなたたちの苦しみはわかる。
でも、思い悩んではならない。神様がついてるから。
カラスを見てごらん。働いていないのに、ちゃんと生きているでしょ。
道端に咲いている花を見てごらん。こんなところに咲く花も、神様は、こんなに綺麗にしてくださっている。
だから、不安に飲み込まれちゃいけない。
生きていれば、きっといい日が来るから。」そう言っているんです。
これは、教会の横の道の写真です。
アスファルトにたんぽぽのわたげがありました。
こんなところに、よく咲いたなと思いました。
これを見た時に、イエス様の言葉を思い出して、励まされました。
こんな大変な場所に撒かれても、ちゃんと花を咲かせ、綿毛になることができる。
この命を、神様が、守ってくださるんだって、教えられているように思いました。
どんなに大変なところに置かれても、神様が共にいる。
その命を、1日を、神様が支えてくださっている。
辛い時こそ信じて、生きていきましょう。
お祈りします。
・文脈を大事にしながら
今日の箇所は、イエス様が「思い悩むな」と言われる、大変有名な箇所ですが、今日は特に、文脈を大事にしながら読みたいと思います。
多くの方は、この箇所を、マタイによる福音書の山上の説教の一節として、覚えておられるのではないかと思いますが、
ルカによる福音書は、「愚かな金持ちのたとえ話」に続く話として、この話を置いています。
この流れを覚えながら読んでいきたいと思います。
・愚かな金持ちのたとえ
まず、先週読みました、「愚かな金持ちのたとえ」をもう一度、押さえておきたいと思います。
「愚かな金持ちのたとえ」は、その題名の通り、愚かな金持ちの話でしたけれども、金持ちのどこが愚かだと言われていたかということが重要でした。
金持ちのどこが愚かだと言われていたか。
それは、この金持ちが、豊作によって得た作物を、全て自分のものにしようとしたというところにありました。
作物は、自分の倉に収まりきらないほどの量でした。
容量を超えてしまっていた。蓄えられる量をオーバーしていたんです。
それなのに金持ちは、全てを自分のものにするために、わざわざ今ある倉を壊して、もっと大きい倉を作ろうとしました。
倉から溢れた分も、全部自分のものにするために、もっと大きい倉を作ろうとした。
働かなくても生きていけるように、自分の楽しみのために、全てを自分のものにしようとした。
その結果、神様から「愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と言われてしまうという、そういう話でした。
この話はたとえ話ですが、この話の聞き手たちにとっては、とてもリアルな話でした。
当時、土地を持っていたのは一部のお金持ちだけで、多くの農民達は、お金持ちから畑を借りて農業を営む、いわゆる小作人と言われる人たちでした。
彼らは、収穫の半分、酷い場合はそれ以上を、地主に納めなければなりませんでした。
領主からも重税を課され、慢性的な貧困状態にありました。
そんな中、しばしば暴動や強盗も起こっていました。
イエス様のたとえ話は、そんな現実を反映したものです。
倉に収まりきらないほどの作物は、もちろん、金持ちだけの力で収穫したものではありません。
そこには、小作人として、地主や領主に搾取されながら、それでも必死に働く人たちがいたわけです。
それなのに金持ちは、自分のことしか考えていない。
そんなことでは、農民たちから、命を取り上げられるだろうという、そういう話でした。
・暴動や強盗もダメ
この話を聞いて、群衆たちは、どう思ったでしょうか。
中には、貧しい農民たちもいたでしょう。
彼らはきっと、「そうだ、そうだ」と思いながら、聞いていたでしょう。
「そうだ、そうだ」と言いながら、金持ちを睨みつけていた人たちもいたかもしれません。
「搾取をやめなければ、俺たちが、お前たちの命を奪ってやる」と、そう思っていた人たちもいたかもしれない。
もし、ここで終わっていたら、暗に、農民たちの暴動や強盗を、肯定してしまうことになってしまったと思います。
富の独占、金持ちの搾取は、もちろん良くないことですが、でも、だからと言って、暴動や強盗を肯定することもできません。
そのような試みは、彼ら自身にとっても、決して良い結果をもたらすことはないでしょう。
むしろ、彼ら自身、人生を棒に振ることになってしまう。
そのようなことにならないために、イエス様は、今日の言葉を語られたのではないでしょうか。
・思い悩むな
イエス様は、「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな」と語られます。
もちろんこれは、レストランのメニューを決める時に、どれにしようか、何を食べようか、そんなふうに思い悩むなということではありません。
「たくさん持っている服の中から、どれにしようか、どれを着ようかと思い悩むな」ということでもありません。
「食べるものも、着るものもない。いったい何を食べたらいいのか、何を着たらいいのか」という、そういう悩み。
「思い悩むな」と言われても、そうできないほど過酷な現実に置かれている人たちに対して、イエス様は、それでもなお「思い悩むな」と言われるのです。
それは、思い悩みや不安が、人間を狂わせていくからです。
今年5月に、銀座の時計店で、強盗事件が起きました。
犯人は、未成年の少年たちでした。
白昼堂々、人がいっぱいいる中での犯行で、非常に衝撃的な事件でした。
この事件をきっかけに、”闇バイト”という言葉が話題になりました。
この事件自体は、闇バイトではなかったということも言われていますが、しかし、近年、そういったバイトに応募する若者が増えているのは事実のようです。
闇バイトは犯罪ですので、一度登録してしまうと、やめられなくなってしまうようで、捕まるまで続けなければならないという酷いバイトであるわけですが、
それでもなお、応募する若者が増えているというのは、背景に、貧困だったり、追い詰められた状況があると言われます。
先日来、連日報道されていますイスラエルとハマスの抗争も、背景には、追い詰められた状況があったといいます。
始まりは、今月七日、ハマスがイスラエルに対して行った大規模攻撃と、連れ去り事件だったわけですが、その背景には、積もり積もった怒りや憎しみ、先の見えない貧困状態がありました。
ガザ地区の失業率は40%を超え、特に若者の失業率は64%に上ると言われています。
外側は壁で覆われ、自由に行き来することもできず、外に出たくても出られない。
かたや、イスラエルは、近年目覚ましい成長を遂げ、一人当たりの国内総生産は、日本を超えて、伸び続けている。
この格差が、貧しさをより鮮明にさせ、ガザ地区の人々を追い詰め、ハマスの攻撃を後押ししていく要因となってしまったのではないでしょうか。
どんな理由があっても、紛争や戦争を正当化することはできません。
しかし、その背景に何があったのか、何が、人々を、戦いへと駆り立てていったのか、
その背景を知るということは、とても重要なことだと思います。
先日、ある方から電話がありました。
名前も、どこに住んでいるかも知りませんし、具体的に何があったかということも言われませんでしたけれども、とにかく悪いことが続く。
家族にも、自分にも。
上手くいくかなと思ったら、ダメになる、そんなことの連続だとおっしゃっていました。
信じてないけれど、何かに取り憑かれているんじゃないかと思わざるを得ない。
どんなに頑張っても無駄なんじゃないか。
それが自分の運命なんじゃないか。そう思ってしまう。
どう思いますかというお電話でした。
詳細なことはわかりませんが、大変な中を生きておられるということは、伝わってきました。
気の利いた言葉も見つからず、ただただ、話を聞くことしかできなかったんですが、
ただ、この方は、とても良い方法を選ばれたと思います。
苦しい気持ちを誰かに話すというのは、大切なことです。
抱えている不安や悩みを、言える人がいる。
それだけで、救われることがあります。
私自身も、何度か、そんな経験をしてきました。
神学生時代、卒業論文が書けずに追い詰められていた時、出身教会の牧師にそのことを打ち明けました。
すると牧師は、「やめていいよ。でもやめたくないんだろ。だったらやるしかないだろ。」と言われました。
次の日、担当教授の天野先生にもこの話をしたら、「牧師になるんだろ。だったらやるしかないだろ。」と、同じことを言われました。
何の解決にもならない言葉でしたが、でも、そうやって話せたことで救われたんです。
止まっていた手が動き出し、何とか、期限までに書き上げることができました。
自分の抱えている苦しみをわかってくれている人がいる。
自分は一人じゃない。
そう思う時、背負っている重荷が軽くなるということがあるんだと思います。
目の前の問題は変わらなくても、一人じゃないということで、救われることがあるんだと思います。
イエス様が伝えようとしているのは、まさにこのことなのではないでしょうか。
・神様がついている
一言で言うならば、「神様がついてる」ということです。
悪霊や生き霊などではない。
私たちを養い、装ってくださる神様が、共にいてくださっている。
その証としてイエス様は、カラスのことを考えてみろと言われるんです。
12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
ユダヤの律法では、カラスは、汚れた鳥で、食べてはいけないとされています。
そのせいで、カラスは、鳥の中でも価値がないものと考えられていたわけですが、
イエス様は、そんなカラスでさえ、神様は、養っておられる。
だから、あなた方は尚更だと言われるのです。
さらに、27節では、野原の花を思い浮かべなさいと言われます。
12:27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
ちょうど祈祷会で、ソロモンの箇所を読んだばかりですが、
ソロモンの時代といえば、イスラエルに金銀財宝が溢れた時代です。
神殿も宮殿も金だらけ。
銀に至っては、石のように扱われたと書いてありました。
そんなソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかったと、イエス様は言われています。
どんな花だったんだろう。
どんな場所に咲いていたんだろう。
ぼんやりと、そんなことを考えながら歩いていた時に見たのが、先ほどのたんぽぽの綿毛でした。
この綿毛を見た時に、アスファルトでガチガチの地面に撒かれて、よくここまで育ったなと思いました。
そして、そうやってみた時に、なにかこう、力強い輝きといいますか、美しさみたいなものを感じたんです。
イエス様が言われた美しさというのは、きっと、そういう美しさじゃないかなと思うんです。
神様は、こういう厳しい環境に撒かれた種を大事にしてくださる。
命を与えてくださり、成長させてくださる。
そして、こういう場所に置かれなければ、決して出すことのできない、美しい輝きを与えてくださる。
だから、あなた方もあきらめてはいけない。
自暴自棄になってはいけない。
どんな環境に置かれても、きっと花を咲かせることができるから。
神様が、花を咲かせてくださるから。
だから、あきらめちゃいけないと、イエス様は、そう仰っているのです。
金持ちや領主に搾取され、慢性的な貧困に苦しみながらも、どこに救いを求めていいかわからない農民たち。
ギリギリのところで、なんとか持ち堪えているけれど、もう耐えられない。
金持ちの家を襲うしかない。
みんなで結託して、暴動を起こすしかない。
そんなギリギリのところに置かれた人たちに、イエス様は、それでも、あきらめてはならない。
神様がついているから、自分の身を滅ぼすようなことをしてはならないと、言われたんです。
これは、イエス様が言われたからこそ、説得力があったんだと思います。
農民たちと同じようにボロボロの服を着て、食べ物の蓄えもない。お金もない。
そんなイエス様が、神様を信じて、固く立っている。
その姿が、野に咲く花のように、農民たちの目に、美しく、輝いて見えたのではないでしょうか。
カトリックのシスターだった、渡辺和子さんが、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉を残しています。
「私達は、境遇を選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできる。」
「どんな場所に置かれても、私次第で、花を咲かすことができる。」
置かれた環境や境遇は選べなくても、どう生きるかを、選び取ることはできます。
どんなに暗い現実に置かれても、そこに光が輝いている。
神様が共にいて、私達の歩みを支えてくださっている。そう信じることはできます。
信じて、またここから、歩み出していきましょう。
神様がいるなら、どうしてこんなことになるんだと、不平不満を呟くよりも、
こんな現実の中にも、必ず、神様は共にいてくださる、
そう信じて、歩み出していきましょう。
お祈りします。