2023年1月1日新年礼拝「血のつながりを超えて」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書2章41節〜52節。

新共同訳新約聖書104ページ〜105ページです。

2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。

2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。

2:43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。

2:44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、

2:45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。

2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

2:47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。

2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

2:50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。

2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。

2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

「血のつながりを超えて」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

新年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

新しい1年が始まりました。

みなさんは、1年の始まりを、誰と過ごすでしょうか。

お正月は、家族と過ごすという人もいれば、親戚が集まって、みんなで過ごすという人もいるかもしれません。

今日は、その家族について、少し考えてみたいと思いますが、

家族といえば、誰を思い浮かべるでしょうか。

お父さん、お母さん、兄弟や姉妹がいる人もいるでしょう。

おそらくは、そういう血のつながった家族を思い浮かべると思います。

でも、それだけが家族でしょうか。

私たちは、血がつながっていないと、家族になれないんでしょうか。

今日の聖書の箇所じゃないんですが、

イエス様が大人になって、神様のことを伝え始めた時の話。

イエス様のお母さんと兄弟たちが、イエス様に会いにくる場面があります。

その時、イエス様は、大勢の人たちに、神様のお話をしていました。

大勢の人たちに囲まれていたので、とても近づけない。

そこでお母さんと兄弟たちは、イエス様のお弟子さんに、連れてくるようにと頼みました。

お弟子さんは、「イエス様のお母さんと兄弟が、話したいことがあると外に立っていますよ。」と、イエス様に知らせました。

すると、イエス様は言われました。

「私の母、私の兄弟とは誰か。見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。」

イエス様のもとに集まっていた人たちを見て、

「ここに私の母、私の兄弟がいる。」

「この人たちこそ、私の家族だ。」って、そう言われたんです。

血のつながりもない。

一緒に暮らしてきたわけでもない。

それなのに、その人たちを見ながら「この人たちが、私の家族だ。」って、そう言われたんです。

イエス様のところに集まっていた人たちというのは、何かしら、問題の抱えた人たちでした。

病気で苦しんでいる人たち。

貧しくて、食べるものがない人たち。

罪人と言われていた人たち。

中には、家族からも見放されたり、あるいはそもそも家族がいない、頼る人がいない人というも、たくさんいたと思います。

イエス様は、そんな人たちの家族になったんです。

血もつながっていないし、一緒に暮らしてきたわけでもない。

それでもイエス様は、「この人たちは、私の家族だ」って、そう言われたんです。

血がつながっていなくても、家族になれる。

イエス様は、たくさんの人たちと家族になっていかれました。

私たちも、そうです。私たちはみんな、イエス様の家族です。

教会は、血のつながりを超えた、イエス様の家族です。

イエス様によって、誰もが、兄弟姉妹になれる。家族になれる。それが、教会です。

家族にもいろいろあります。

幸せに暮らす家族もあれば、うまくいかない場合もあります。

いろんな事情で、家族でいられなくなってしまう場合もあります。

でも、私たちには、家族がある。

血のつながりを超えて、家族として迎えてくれるイエス様がいる。

そして、イエス様の家族である教会がある。

そのことを、ぜひ、覚えておいてほしいと思います。

お祈りします。

・序

昨年からルカによる福音書を読み続けていますが、今年も礼拝では、ルカによる福音書を中心に、み言葉を聞いていきます。

この福音書は、紀元80年代に記されました。

イエス様が十字架に架けられ復活されてから、約50年後のことです。

パウロなどの働きによって、すでに福音はユダヤを超え、世界へと広がっていました。

ユダヤ人だけでなく、たくさんの異邦人がクリスチャンとなり、異邦人が中心の教会も誕生していました。

実は、この福音書を書いたルカ自身も異邦人で、異邦人教会に属していたと言われています。

そんなルカによって書かれた、このルカによる福音書には、全ての人のために、イエス様が来られたこと。

ユダヤ人だけでなく異邦人も、全ての人を救うために、イエス様が来られたということが語られています。

それは、特に、クリスマス物語の中に、よくあらわされています。

先週まで、私たちは、クリスマス物語を読んできたわけですが、

クリスマス物語というのは、いわば福音書の序章でありまして、

そこでは、福音書の主役であるイエス・キリストとは一体何者か。

どういうお方かということが、紹介されているわけですが、

そこでルカは、明確に、イエス様は、全ての人の救い主であると、語っています。

たとえば、羊飼いたちの前にあらわれた天使は、

「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」と言って、イエス様の誕生の知らせを語りました。

また、救い主を待ち望んでいたシメオンも、幼子イエスを見たときに、

「わたしはこの目であなたの救いを見た。これは、万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です。」と言いました。

ユダヤ人だけじゃない。

異邦人のためにも、イエス様はきてくださったんだ。

そこには、異邦人であったルカ自身の、強い想いも、込められているように思います。

・イエス様がいなくなる

そんなクリスマスの箇所から、少し時間が経ちまして、

今日の箇所には、12歳の頃のイエス様の話が記されています。

ユダヤ人男子は、13歳で、律法を守れる年齢に達したとみなされ、成人になるそうですので、

成人になる直前、ぎりぎり少年時代のイエス様ということになりますけれども、

すでに、この時から、イエス様は、枠に収まらない。

ボーダーレスと言いますか、

人と人との間にある境界線のようなものを、超えていくお方であるということが語られています。

物語は、イエス様が、家族で、過越歳に行った時の話です。

「巡礼」と言いますけれども、イエス様は家族と共に、年に1回の巡礼の旅に出かけたわけです。

ガリラヤのナザレからエルサレムまで、百キロ以上の道のりでした。

子どもから大人まで、一緒に歩いていくわけですから、4、5日、いやもっとかかったかもしれません。

大変な旅だったと思いますが、そこで、もっと大変なことが起こるわけです。

イエスがいない。

祭りが終わって帰る途中、両親は、イエス様がいないことに気づきます。

1日分の道のりを行ってから、そのことに気づいたと記されています。

なんでもっと早く気づかなかったのかと思ってしまいますが、

当時の巡礼は地域ぐるみでなされ、同じ地域に住む大勢の人たちが一緒に移動していたそうです。

姿は見えないけれど、きっと、誰かと一緒にいるだろう、そう思っていたのでしょう。

イエス様がいないとわかった時、ヨセフとマリアは、どれだけ焦ったことでしょう。

以前、うちの次男のみつくんも、突然いなくなったことがありました。

ちょっと目を離したすきに、家の鍵を開けて、出て行ってしまった。

その時のことを思い出すと、今も、胸が締め付けられます。

とても怖かったのを思い出します。

ヨセフとマリアも、心配でたまらなかったでしょう。

慌てて引き返し、イエス様を捜しますが、見つけたのは、三日後のことでした。

三日間見つからないって、相当、大変なことだと思いますが、

両親は、心身ともに疲れ果てていたでしょう。

そんな両親の心配をよそに、イエス様は、神殿の境内で、学者たちに囲まれながら話をしていました。

話を聞いたり、質問をしたり、学者たち相手に、上手に受け答えしているその様子を見て、周りの人々は、驚いていました。

そんな光景を見た時、母マリアは言いました。

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

マリアがそう言いたくなるのもわかります。

迷子になって、さぞ寂しい想いをしているだろう。

泣いているかもしれない。

そう思って見てみたら、本人は、いたって平気な顔で、学者たちと話しているわけです。

困っているようなそぶりもない。

43節には「少年イエスはエルサレムに残っておられた」と書かれていますが、

まさに、そんなふうに、自分の意志で家族を離れ、エルサレムに残っていたかのような、そんな状態で、過ごしていたわけです。

母親としては、そりゃ「なんでこんなことをしたのか」と言いたくなるでしょう。

でも、これに対して、イエス様は言いました。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

イエス様は、神殿を、自分の父の家と呼び、そこに自分がいるのは当たり前だと、言われました。

自分たちの子どもとして、イエス様を捜し回っていたヨセフとマリアに対して、

神様こそ、自分の父であり、神殿こそ、自分の家であると、そう言ったのです。

非常に衝撃的な言葉です。

・血のつながりを超えて

このやりとりを見たときに、私は、先ほど、子どもメッセージで話しました場面を思い出しました。

イエス様が、弟子たちや周囲の人々を見て「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と言われた場面です。

イエス様は、血のつながりに縛られず、救いを求めてやってきた人々を家族と呼びました。

病人や貧しい人、罪人と言われる人たち。

その中には、血縁や地縁からも引き離され、孤立無縁の人たちもいただろうと思います。

そんな人々にとって、イエス様の言葉は、どれだけ嬉しい言葉だったでしょうか。

血がつながっていなくても、家族になれる。

イエス様は、助けを求めてやってくる人々を、家族として迎えました。

みんな神の子、みんな神の家族。

そうやって、イエス様は、血縁や地縁を超えて、いろんな人たちと家族になっていかれました。

このイエス様の言葉や振る舞いは、我が子と思って育ててきた両親にとっては、ショックだったでしょう。

でも、イエス様は、ヨセフとマリアの子におさまらない。

この世的な家族の枠組みを超えて、多くの人々と家族になっていかれました。

・家族

そのような家族観というのは、当時の社会において、全く新しいものであったと思います。

当時は、今以上に、血のつながりというものが重要視されていた時代でした。

家族や民族ごとに、社会が構成されていましたので、個人としては、生きづらい社会でした。

でも、そんな時代にも、家族に馴染めない人や、家庭に居場所のない人は、たくさんいただろうと思います。

家族を失ったり、家族と切り離される人々もいました。

孤児ややもめもそうですし、寄留者もそうです。

そういう人々にとって、当時の社会は、本当に生きづらい社会だっただろうと思います。

これは、私たちの社会にも言えることです。

児童虐待やDV、貧困問題など、家庭が抱える問題は、日々深刻化しています。

その中で、家庭に居場所がない人、家族と一緒に過ごしたくても過ごせない人たちがいます。

どんなに良い家族であっても、問題のない家族などありません。

不安定な社会情勢の中では特に、そのつながりを守っていくことは、簡単なことじゃありません。

そんな社会の中にあって、血のつながりを超えて、つながっていく。

家族になっていくということは、とても重要なテーマであると思いますし、

教会は、その実践の場の一つであると思います。

どんな人をも家族として受け入れてくださるイエス様。

私たちも、そんなイエス様によって受け止められ、家族とされている。

そのことを、まず、覚えたいと思います。

教会は、そんなイエス様によって結び合わされている群れであり、

血のつながりを超えた、神の家族です。

この交わりを、広く開いていきましょう。

つながりを求めている人々に、開かれた場所となっていきましょう。

血のつながりだけでなく、人種や国籍の違い、性別の違いも超えて、家族になっていくこと、共に生きること。

それこそが、キリストの教会の使命です。

そのことを、心に覚えつつ、新しい1年の歩みを、共に、始めてまいりましょう。

お祈りいたします。

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