2022年11月13日メッセージ「通り過ぎられない神」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書7章11節〜17節。

新共同訳新約聖書115頁です。

7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。

7:12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。

7:13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。

7:14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。

7:15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。

7:16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。

7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

「通り過ぎられない神」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日みんなに伝えたいのは、この言葉です。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

これは、神様から、みんなへのメッセージです。

神様の目に、みんなは、高価で尊い。

すごい価値があるってことです。

神様は、みんなを、愛している。

大切に思っているよってことです。

これは、良い子や優秀な子にだけ、語られている言葉ではありません。

どんなに言うことを聞かなくても、どんなに勉強ができなくても、関係ない。

神様にとって、みんなは、すごい価値ある存在だ。

神様は、みんなのことを、大切に思っている。

このことを、ぜひ信じてほしい。

みんなは、自分のことをどう思っているでしょうか。

自分のことが好きですか。

自分のことを大切だと思っているでしょうか。

私は、自分のことが、好きだと思えない時がありました。

自分は、ダメだ。

自分なんて、いなくなったって、誰も困らないんじゃないか。

自分なんて、いらない存在だ。

そんなふうに、思う時がありました。

誰かに、そう言われたわけじゃありません。

とにかく、自信がなかったんだと思います。

人に誇れるようなものを、何も持っていない。

勉強もできないし、運動も中途半端。

そんな私の内側から、「自分はダメだ、このままじゃダメだ」

「こうしなくちゃ、ああしなくちゃ」

自分を責めるような想いが湧いてきたんだと思います。

もしかしたら、みんなにも、そんな想いが湧いてくる時があるかもしれません。

自分に自信が持てず、自分の価値がわからなくなることがあるかもしれません。

そんな時に、ぜひ、思い出してほしい。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

神様は、いつも、そう言ってくださっているということ。

周りの大人がなんと言っても、

自分の内側の声が、なんと言っても、そんな言葉は聞かなくていい。

今日の言葉だけ、覚えておください。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

お祈りします。

今日の箇所には、ある母親が、一人息子を亡くし、嘆き悲しんでいる様子が記されています。

しかも、彼女は、やもめだったと言われています。

やもめとは、夫を亡くした妻のことですが、当時のユダヤ社会において、やもめが生きていくのは、とても大変なことだったと言われています。

旧約聖書では、孤児や寄留者と並んで、保護すべき対象とされています。

それだけ、虐げられやすい人々であったということです。

今日の箇所に登場するやもめが、どんな苦労をしてきたかは、わかりません。

でも、その歩みは、決して楽なものではなかったでしょう。

そんな彼女にとって、一人息子は、生きる支えであり、希望だったのではないでしょうか。

彼のために、生きてきたと言っても過言ではない。

そんな人生を歩んできたのではないでしょうか。

その一人息子が、亡くなってしまった。

その悲しみは、どれだけ深いものだったでしょう。

なんて過酷で、悲しい話だろうと、思います。

夫だけでなく、一人息子にも先立たれてしまうなんて。

何が原因だったのか、どうして一人息子は死んでしまったのか。

病気だったのか、突発的な事故だったのか…。

細かい経緯は、何も語られていませんので、わかりませんけれども、

いずれにしろ、とても辛い出来事だったに違いありません。

先日、韓国ソウルの梨泰院で、雑踏事故が起こり、157名の方々が亡くなりました。

その事故によって、娘さんを亡くされたお父さんが、「こんなに辛いことがあるのか」と仰っていたのを思い出します。

イエス様は、そんな母親をご覧になりました。

そして、「憐れに思った」と記されています。

この「憐れに思う」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「スプランクニゾマイ」という言葉で、

その元の言葉は、人間の内臓、「はらわた」を意味する言葉だそうです。

なぜ、「はらわた」が憐れみになるのかといいますと、

それは、「はらわた」が、人の感情の最もよく現れる場所だと、考えられていたためでした。

「はらわた」が、人間の感情の最もよく現れる場所だと考えられていたというのは、とてもわかるように思います。

私は、非常に小心者で、あがり症なんですが、よくお腹を壊します。

不安とか緊張とかが、すぐにお腹に現れてくるわけです。

ですから、試験とか、本番とかになると、必ずトイレに行きたくなります。

皆さんの中にも、そういう方がおられるかもしれません。

イエス様の憐れみというのも、単に「同情する」とか「かわいそうに思う」という感情だけでなく、「はらわたが痛む」。

岩波訳の聖書では、「はらわたがちぎれる想いに駆られ」と訳されています。

イエス様は、母親の姿を見て、「はらわたがちぎれるような痛みに駆られた」ということです。

日本語でも、はらわたが断たれると書いて「断腸の思い」という言葉が使われます。

悲しみや、苦しみを表す言葉です。

この「断腸」という言葉は、中国から来た言葉だそうです。

昔、中国の軍人が、自分の軍隊を率いて、船で、敵地に向かっていた時、部下の一人が、一匹の子猿を捕まえてきた。

すると、その子猿を追いかけて、母猿が岸を追いかけてきた。

どれだけ船が走ろうと、母猿は子猿を追いかけてくる。

とうとう母猿は、船の中に飛び込んできたが、そのまま息絶えてしまった。

死んだ母ザルの腹を割いてみると、腸が、ズタズタに断たれていた。

そんな話から、「断腸」という言葉が、生まれたそうです。

この母猿と同じように、イエス様も、「断腸の想いに駆られた」のです。

そしてイエス様は、その想いに突き動かされながら、この母親に「もう泣かなくともよい」と言われました。

「もう泣かなくともよい」。

一人息子を失い、悲しみのうちに泣いている母親に、イエス様はそう言われたのです。

仕事柄、私も、人の死に接する機会がありますけれども、

泣いている遺族に対して、「もう泣かなくともよい」なんて、口が裂けても言えません。

別にこの母親は、泣きたくて泣いているのではありません。

一人息子を失った悲しみに、涙が止まらないのです。

そんな母親に、深く共感されたイエス様が、なぜこんなことを言ったのか。

それは、泣く必要がなくなるからです。

イエス様は、「もう泣かなくともよい」と言われた後、

今度は、棺に手を触れ、死んだ息子に対して、言われました。

「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」

すると、この若者は起き上がり、イエス様は、彼を母親に、お返しになりました。

先週は、イエス様が、百人隊長の部下を癒すという場面を読みました。

その時にも、イエス様の権威、言葉の力について、学びましたけれども、

今日の箇所もまた、イエス様の権威、言葉の力を、語っています。

イエス様の言葉によって、死者が蘇るという、驚くべき出来事、

16節には、「人々は皆恐れを抱き」と記されています。

とてもリアルな反応だと思いますが、恐れを抱くほどの出来事が、起こされていったのです。

み言葉の権威、み言葉の力を、改めて、受け取り直したいと思います。

辛い時、苦しい時、どうしようもないような現実と直面する時、み言葉に、助けを求める者でありたいと思います。

聖書を読んだってしょうがない。

み言葉を聞いても仕方がない。

そんな現実に向き合わされることが、あるかもしれません。

でも聖書は、そんな時こそ、み言葉に助けを求めるようにと、招いているように感じます。

死というのは、まさに、どうしようもない事態の象徴です。

そのどうしようもない事態、受け入れるしかないと思うような事態を、変える力が、み言葉にはある。

そう聖書は、語りかけているように感じます。

一方で、今日の箇所には、先週の箇所とは違う、

あるいは、他の奇跡の話とも違う、ユニークなことがあります。

それは、若者のよみがえりの出来事が、最初から最後まで、イエス様の行為として、行われているということです。

奇跡の話には普通、助けを求める叫びがあったり、イエス様なら助けてくださるという信仰が、語られています。

先週の箇所でも、百人隊長の助けを求める叫びがあり、イエス様への信頼があります。

でも、今日の箇所には、そのようなことは全く記されていません。

母親が助けを求めたわけでも、祈ったわけでもありません。

彼女の信仰も、語られていません。

あるのは、一人息子を失った悲しみであり、悲惨な現実です。

イエス様は、その現実を見て、「はらわたがちぎれる想い」に駆られ、この出来事を起こされたのです。

イエス様の意志によって、このことが起こされていったのです。

このことを今日は、覚えたいと思うのです。

どんなに私たちが諦めたとしても、イエス様は諦めない。

「腸がちぎれる想い」に駆られて、足を止め、その涙に報いようとしてくださるお方だということです。

時に私たちは、悲惨な現実を前にして、助けも、慰めも、求められなくなることがあります。

そういう気持ちも起きないほど、

祈ることもできないほど、深い悲しみを覚える時があります。

祈れない、どう祈っていいかわからない。

そんな時は、無理に祈る必要はないのです。

イエス様の方から、私たちに近づいてきてくださる。

そして、私たちが直面している悲惨な現実に触れ、み言葉をもって、望んでくださる。

私たちの願いによってではなく、信仰によってでもなく、イエス様の意志によって、そうしてくださる。

そう聖書は、教えています。

このイエス様を、覚えたいと思います。

私たちが生きる現実は、今も変わらず、過酷な現実かもしれません。

今も、多くの人々が、嘆き悲しみの中におかれています。

容易に奇跡など起こらない、現実の中を、私たちは生きています。

そんな私たちを、イエス様は、決して通り過ぎられない。

「はらわたのちぎれる想いに駆られながら」、足を止め、その涙に報いてくださる。

信仰のあるなしにかかわらず、

祈ったかどうかにかかわらず、

イエス様は、そうしてくださる。

私たちの想いや願いを超えて、イエス様は、私たちと共にいてくださる。

そのことを、今日は、覚えたいと思います。

お祈りします。

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